2011年8月 のアーカイブ

震災日録 8月27日 丸森の問題

2011年8月29日 月曜日

きのう見た丸森斎理屋敷も国の登録文化財だが、かなりいたんでいた。佐藤館長がしっかり直しますよ、と頬笑んでいたので、丸森は山間部でそれほど被害がないし、とほっとしたら町役場の旧知の加藤あけみさんから、「丸森も地震でめちゃくちゃになった道路工事、放射能の除染などに膨大な予算がかかり、大変です」という趣旨のメールがきた。行政も個人ももう負担の限界だ。かといって貧者の一灯ですむわけがなく、大企業に一棟ずつボンと寄付してもらって、「このたてものは東日本大震災で被災しましたがサントリー(たとえば)の寄付により修復できました」とか、プレートをつけたらどうかしら。

斎理屋敷の前に新しい直売場があって「買っていってね」といわれたので、どっさり買って重い思いをしてかえったら娘に叱られた。「ホットスポットの農作物の安全性を確かめず、そこでディスカッションもしないで買ってくるのはおかしい」というのである。たしかに丸森の人はのんびりしている。役場の検査では「人体に影響ない」程度しかセシウムなども検出されてはいない。そうでなくても放射線量が高くて農作物が売れなくてがっかりしている町の人に議論などする気になれなかった。私は50過ぎているし1回のことだしいいか、と5年住んだ町に義理立てしたのである。しかし娘は「内部被曝は外部被曝よりはるかに危険。国の許容基準は国際的に見ても高すぎ、丸森町民の健康を考えて土壌汚染についてもっと話し合うべきだった。そして農産物被害については東電に対して農業者と一緒にたたかうべきだ」とゆずらない。結局、ガスパッチョ、サンラータンスープ、野菜カレーなどはみんな私のおなかにおさまりそう。これ難しい問題だなあ。

放射能は目に見えない。こんなにおいしいのに。

震災日録 8月26日

2011年8月29日 月曜日

聞いた話。「墓地の墓石がひっくり返り、どこが自分のうちかわからない。このあたりかなあ、と花を供えたら、隣りの人はじゃあ、うちはこの辺かな、と。最初間違うとみんな間違うねと笑った」「合同慰霊祭にも香典は出したし。みんな大変だからとお葬式はお香典をなしにすることに申し合わせをした」「釣はあきらめた。行方不明のひとが漂っている海だし」「ラブホは家族づれで満員。避難所はお酒禁止で9時消灯。子どもに思い切りテレビマンガを見せてやり、おとなは飲みながらカラオケするのが家族団らん」

丸森のIターン組は出て行ったとも聞いたが、筆甫の味噌づくりの太田さん夫妻は残って、地区の除染の先頭に立っているらしい。原発を勉強する学習会なども始めていると言う。「ああいう人たちが丸森に来てくれてほんとうによかったわ」と菊地しのぶさんはいっていた。ヒッポ味噌はおいしいです。1年もの2年ものありますので食べたい方はドウゾ。

http://www.a-will.jp/will/backnumber07/b_070214.html

菅総理が退陣なので上野駅で共同通信のインタビューを受ける。いろいろ話したが原稿にはほとんど活かされなかった。以下のようなこと。

*ぶるぶるふるえる豆腐のような日本列島にゲンパツは無理。

*チェルノブイリの時の決死隊のような命令で危険地域にいく軍隊のない国に原発は無理。

*私は1970年以前の生活水準に戻ってけっこう。

*家庭はいいが製造業に電気が使えないと日本は三等国になる、といわれたら、すでに三等国だと答えよう。太平洋にこんなに核物質を垂れ流して何が一等国なものか。

*エネルギーのない国で自国消費はいいとして、国外消費のための製造業をするのは無理。産業構造を徹底的に変える。

*農林水産業はふえてもいい。職人など手仕事をふやす。水ビジネスなどボトルに詰めるだけで電気を食わない工業はまだしも。納得して体を動かし、つましく暮らし、友だちと遊び、自由時間に好きなことをする。まさに竹富はそんな島だった。できるよ!

震災日録 8月25日 仙台市荒巻配水所

2011年8月29日 月曜日

熊谷さんの車で、尾の崎の坂本健さん清子さんを訪ねる。

「2人なくなった、3人流された、くらいでは『ああ、そう』というくらい私たち慣れてしまったのがおそろしい。一家で7人とかもっとなくなった家があるんだもの。合同慰霊祭のあとも各家でご葬儀をするのでお葬式ばかり。ここの集落はすぐ裏のお寺に逃げてほとんど助かった。助からなかったのが大川小学校へ通っていたこどもたちだから本当につらいの」

清子さんたちはインドのポンディシェリで漁師の妻たちがつくった「ツナミカ」を造りはじめていた。坂下家は瓦礫を掃除して昼間は使いはじめ、ピースボートのボランティアたちの休憩場所になっている。

しかしよく気のつく清子さんはちょっと疲れている感じ。健さんはことしも牡蛎を育てる、11月には東京で販売できないかな、と前向きだ。「ここは長面浦に面して360度、山が見える。森の養分が流れ込んで他で3年かかる牡蠣が1年で育つし、全国一おいしい牡蠣だと信じている」

しかし陥没してしまった尾の崎地区に戻るという住民は少ない。スレート瓦の町並みは国の伝建になってもよさそうなのに。

北上から石巻の斎藤氏庭園を見る。山形の本間家とならぶ大地主。ここも国の名勝だが土蔵の壁の崩れがひどい、管理人さんは「この前きた人は直すのに10億かかるって」と当惑気味。石巻のロシア正教のたてものは無事、山下りんのイコンは別の場所に保管されていた。蔵王町の我妻家も白壁が落ちている。

仙台市役所の持つ荒巻配水所も国の登録文化財だが、移築途中で被災し、倒壊する危険があるとして7月11日、解体が決まった。町遺産ネット仙台を中心にどうにか保存できないかと言う署名や保存の提案があったが、市は枕木の下に入って作業する安全性が確保できない、として解体を決めたもの。しかしそれこそ「日本の科学技術を持ってすれば」保全する道もあったのではないか。「あっさり壊さないで」と文化庁もいっているのに。最後の悪あがきで仙台市長奥村恵美子さんに私信を送った。夜はなつかしい丸森の友人菊地さん宅で泊。

震災日録 8月24日 有壁宿本陣

2011年8月29日 月曜日

北上川河口で茅葺きを業とする熊谷産業は社屋も自宅も流され、遡ったところにプレハブ小屋をたて再起した。その広い土地には河口を見はらす露天風呂を作り、小屋のあいだにはよしずがけの野外食堂、そしてモンゴル人の助っ人用のゲルが数棟、そこに私の紹介した寄田君が馬を連れてきたのでちょっとしたテーマパークになっている。この前は白洲正子邸の造園をした人が来ていたが、今回は黒沢さんという建築家が着ていた。キャップのうえにパナマ帽をかぶり、極彩色のスポーツウェアを着てもうすごいお洒落。80すぎで、私は乞食と名乗るその人は「人間生まれた時はハダカ。死ぬ時もあの世へは金も物も持っていけん。何あくせく働くのか」と一言。「本来無一物」である。それで被災地へ来ているらしい。

「国産木材・在来工法・地元の工務店にお金が落ちる仮設でない復興住宅」という熊谷さんの夢は着々と進行中。一関市近くの有壁宿本陣を観に行く。当主夫人「史跡なので一億かかるという修復費のうち、七割が国、あとの三割を県と市と私どもで負担すると言うので。もう歳を取っていますので息子が今回は出すと。主人は古いものに囲まれて本を読むのが一番の楽しみなのですが。余震のたびにざざーっと土壁が落ちる音が聞こえて身がすくみます。扉も歪んだのか開かなくて。旧家には嫁ぐまいと思ったのですがこうして来てしまって」とのこと。たしかに土蔵の壁ががたんと落ちている。

今日は追分温泉泊。ご主人、寄田君と若い女性たちといろいろ話す。人気温泉宿を避難所に変えてがんばっている穏やかな宗さんが「日本人はおとなしいですねえ。包丁にぎって東電にいきたくなりますねえ」「お、サンマをさばいた刃でお前たちもさばいてやる!ってか」、いやいやうかつな冗談は言えません。しかしいろんな人に会えば会うほど怒りが蓄積しているのを感じる。

震災日録 8月23日 石巻のイートイン

2011年8月29日 月曜日

千駄木在住の作家杉田望さんと仙台へ。元朝日新聞石巻市局長の高成田亨さんの案内で、まず東松島の木工作家遠藤さんのところへ。今回の津波で渡波小学校で英語を教えていたテーラー・アンダーソンさんという若い女性が亡くなった。そのおとうさんが被災地の小学校に本を送りたいと10万ドル送ってくれたとか。「ドル高なら1000万が今だと700万。そのお金で本を入れるすてきな本棚を遠藤さんに頼んでいるのです」。

石巻市内ではまるか水産さんが水の入った一階店舗を店をひらけない飲食店に提供して、一種の屋台村になっていた。行政を頼らず、工事の手配もして5月中に開店。鰻、寿司、焼き肉、中華,そしてまるかの刺身や魚、「ここで食べてもいいし、持ち帰りもできる。2万、3万と買っていくおばあちゃんもいた。避難所にいる知人に配るんだと言って。売るよろこび、買うよろこびってあるんだね。入っているお店は私の行きつけの私の食べたい店だから味は保証します」と社長の佐々木さん。5000円で「おやじパック」があると言うのでさっそく申し込む。送料はクールで850円と安い。何でも食べたいもの書いといて、というのでずうずうしいと思ったが「毛ガニ、ウニ、ホタテ、ツブなど貝類」と書いておいた。社長それを見て,「当日入ったらね」とにやり。さて何が送られてきますか、たのしみ。

夜はNPOのみなさんと「汐たまり」で飲む。話したりずスナック2軒はしご。

震災日録 8月22日 懐かしい未来へ

2011年8月29日 月曜日

今日は日帰りで小諸に藤村記念文学賞授賞式へ。満州引き上げの冬、学生時代の北海道の牧場のアルバイト、牛の労働からトラクターへと変わった農村、おじいちゃんと食べた自動販売機のうどんの思い出。懐かしいというより、いままさに3・11以降、このような暮らしにシフトするべきだ、と思った。まさに「懐かしい未来」。

きのうの吉川さんの質問、もうひとつ。

「地震から3週間。避難所に避難者以外の地域で働く人や学生がきました。彼らにも炊き出しの配食をしますか」

*震災当日だったら出すが、3週間もたっているなら別の方法があるのでは。

*震災当日なら見学客も来るはず。町にお金を落としてくれるひとを無碍に断るいわれはない。

*町会に入っている人は少数派、なのに行政はいうことを聞く町会だけを住民の正式な代表を認め、避難所を町会単位ですすめようとしている。地域には勤労者や通学者もいる。避難所のトップは町会長でなく学校長だということをはっきりしないと混乱する。

*おなかがすいた人に食事を出すのは当たり前。

*そうすると数が足りなくなる。

*じゃあカレーや煮物など、数を融通できるものにすれば?

正解を見つけるのではなく、こうしたディスカッションを引き出すための質問らしい。

震災日録 8月21日 震災シミュレーション

2011年8月29日 月曜日

コミュニティセンターで防災のワークショップあり。地震をわがこととしてシミュレーションしてみること、という吉川講師の質問が面白かった。

「地震3日後。東京が直下型地震にあい、4階に住むマンションはどうにか助かったが、ガスも電気も水道も通っていない。4人家族は無事で集合できた。車は一台ある。さてあなたはマンションから動きますか?」

*まるで私のことみたい。でも車は持っていないよ。東京では車を持っている人は少数ではないか? 車がなくても便利に暮らせるし、駐車場代は高いし。

*10階でエレベーターが止まったら考えるなあ、でも4階ならまあ上り下りはできる。

*カセット式コンロもある。電池で聞けるラジオも必携、懐中電灯も。携帯トイレもある。小はトイレにして少量の水を流す。風呂の水は貯めておく。

*この町に家族親族みんなおり、特技やしごともさまざまな友人がいる。遠くに家族で行くよりも、ここで住民の組織を作り、助け合って生きていきたい。

*そのためには日頃から起動する谷根千住民協議会が必要だ。

震災日録 8月20日 エネ特計を文化庁に回せ

2011年8月29日 月曜日

新聞で宮城蔵王の重要文化財我妻家住宅の土蔵の全ての壁が落ちたのを知る。重文だから国や県や町も応分の負担をするであろうが持ち主負担もかなりの額にのぼるだろう。エネ特といって原発立地自治体の懐柔のために税金から何千億も費やされていた。マラソン大会、パソコン導入、県立美術館、病院や保育園、中学生のホームステイ、怒りを通り越してあきれるばかり。それにたいし、文化庁は1000億で、文化財の保存、修復、国宝の買い取り、博物館・美術館の運営、美術、演劇、映画、音楽、バレーやダンスまで全部まかなっている。ああ、エネルギー対策特別会計のほんの10分の1でもあれば。今回の地震で壊れ、傷ついた文化財をみんな直せるのに。なんて言っている間に仙台の文化財水道施設が壊されそうだ。放っておくとみんな瓦礫として処理されてしまう。

菅直人もやめたあとの楽しい計画なんかいま話していないで、脱ゲンパツでもう一度立候補してくれよ。あとはみんな推進派じゃないか。

震災日録 8月19日 竹富はたしかにまぶしい

2011年8月29日 月曜日

朝から世話になった方たちにお礼をかねて挨拶回り。反対に島しょうゆ、竹富ラー油、レモングラスのお茶、泡盛、ゴーヤにオオタニワタリ、クバの葉で出来た手作りの団扇などをいただく。11時15分の船で石垣に渡り、本屋を見て、辺銀食堂が再開したので昼を食べた。さすがにおいしい。それよりカウンターの青年の礼儀ただしさと忙しい中で客の話を聞くホスピタリティには感銘した。また来よう、という気にさせる店である。羽田が豪雨で飛行機は遅れたが、欠航になるよりマシだった。ヒロシが白山の駅まで荷物を持ちに来てくれて、ちょっと食事をしておしゃべり。お母さんは竹富みたいな激しい気候のところでは暮らせないよ、たまにいくからいいんだよ、という。

一年以上オキナワに暮らした息子の意見。彼はこの夏、沖縄で、福島からのこどもたちのキャンプを手伝って来た。たしかにまぶしいしなあ。

震災日録 8月18日 活性化でなく沈静化せよ

2011年8月29日 月曜日

東京新聞によると去年8月に戸野広浩司記念劇場を根城に旗揚げした大衆演劇「若姫劇団」が一周年とか。あれ、台東区は所管外といっていた井上圭子さんが記事を書いている。東京新聞を応援する会としてはこういう記事も歓迎。しかし「谷根千活性化の仲間として認めてもらえるよう一層がんばりたい」という座長の言にはうーむ。谷根千はもう活性化より沈静化したほうがいいのになあ。すでに活性化しているところでなく、どうしてまったく活性化していない町で旗揚げしようとはしないのか。その方がパイオニアとしての誇りもあるでしょうに。

同日の読者欄を見ると、経産省の更迭幹部は早期勧奨退職あつかいで1000万円ずつ上積みされるらしい。被災者が家も職もない時に、これら税金泥棒の名前をよく覚えておきましょうね。松永和夫、寺坂信昭、細野哲弘の諸氏。「あなた方が失うものは大きすぎて、恐らく二度と取り戻せないことでしょう」と投書した菅野さんはいっておられるがそのとおり。納税者は忘れないよ。