2010年1月 のアーカイブ

1月17日

2010年1月17日 日曜日

朝から部屋の掃除。ユタカは出て行ったが、こんど藤沢からヒロシが戻ってくる。ユタカは高野山にいて日曜しか休みでないから、しかたなく捨てていい との全権委任を受け、片付けをはじめる。重いものをやる元気が今日はなく服。2月にタイの山奥の村に行くので、ほとんどそこで行うフリーマーケットに持っていく事にする。あげるのでは施しになるからうんと安く買ってもらうのだ。その収益は村に寄付する。どんな高級品を持っていても村で着ればすぐどろんこになる。日本では支援する場合もクリーニングに出してからなどと言っているが、古着をク リーニング代まで出してあげる人は少ない。タイの少数民族の人たちは何を持って行っても「いいものを持ってきてくれてありがとう」といってくれる。 そもそも工業製品の服を売っている市場まで車で4時間ほどのところに住んでいるのでシャツでもズボ ンでもうれしいのだ。まえにアフガニスタンに衣料を送るときは模様やワンポイントでも動物のマーク が入っていてはいけないとか、宗教上の細かい注意があって気を使った。それにしてもあとからあとからでてくる服の山。でも買った覚えがない。おばあちゃんがサトコにいいと思って買っておいた、とか、おじいちゃんの遺品だけどまだ着られるとか いって持ち込んできたもの。今うちでは家族中、父の遺品をきている。
夕方、映像ドキュメントの事務所でヤンバのフィルムを編集のお手伝い。広尾の谷井さんが見えたの で、急遽、初期のNHKでフリーのインタビュアーであったころのオーラルヒストリーを撮影。荒川さん桜井さんサトコが夕食を取ったのは十一時近かった。

1月6日

2010年1月6日 水曜日

前から気になっていた小野寺百合子「バルト海のほとりで」を読む。
夫小野寺信はスエーデン駐在武官としてヨーロッパの情報戦と和平工
作を担当し、早く戦争を辞めるよう何十回も本国に打電したが、実ら
なかった。そのテレビドキュメントを見たから探していた本だが、そ
の妻にして、社交の傍ら暗号解読にも深く関わっていた、剛胆な女性
の記録。文章も理知的できっぱりしている。名前に見覚えがあったが
そうか、エレン・ケイやムーミンの訳者でもある。戦後はスエーデン
との文化交流に尽くされたとか。お茶の水の私の先輩だ。おじいさん
は一戸陸軍大将で、息子さん二人は外交官。娘さんは大鷹節子さん、
と知ってまたビックリ、別のことを思い出す。

十年ほど前にチェコ大使館のパーティに招かれた。後にも先にもこれ一回。
大使館というところを観に行こうと出かけた。それは私がチェコの女性、
ミレナ・イエセンスカのことをNHK「わが心の旅」で取り上げたから招かれた
のらしい。ところが広尾のチェコ大使館に行くと、「みなさまにご挨拶
申し上げるつもりでありました大使は今日、急な用事で本国へ戻りました」に
はじまり、ほかの外交官も「急な用事」でいなくて、歌うはずのソプラノ歌手も
「飛行機が遅れて到着しておりません」とかでやれやれだった。大使館て
そんなとこか、とあきれていたら、「かわりに元チェコ大使夫人による
スピーチがあります」とのことで、どうせ偉そうな社交夫人が気取った挨拶する
のだろう、と期待しないでいると、これが大変素晴らしい専門的な講演であった。
それは第一次世界大戦に参加したチェコ軍団がロシア革命勃発により、
シベリア経由で帰れなくなり、中国、日本経由で地球を一回りして帰った話で
あったと思う。その中にチェコの独立を果たし初代大統領となったマサリクもいた。
その遇し方が日本とアメリカでどんなに違ったか、というのである。
外交官夫人にもこんな学識のある方がいることを知り、偏見をあらためた。
夫君の大鷹正氏はオランダ大使もつとめ、弟の弘氏も外交官で、李香蘭こと
山口淑子の結婚相手。さらに兄弟の父大鷹正次郎は小野寺信のリトアニアでの
前者だと知ると歴史は俄然面白い。

1月5日

2010年1月5日 火曜日

ヒロシが大学に戻る前に寿司がくいてえ、というので昼町を歩く。
5日なのに太郎寿司は休み、満津美寿司も休み、けぶかわも休み、
三浦寿司はなくなり、白山上にあったはずの寿司屋も一軒改築中、
二件は廃業であった。7軒に振られたことになる。どうなってんの。

つけ麺けいすけも相変わらずの行列。でトンカツよしむらに。30年以上
続いているが「この新道通り変わりましたねえ。マンションが増えても
お客が増えない。本駒込の駅ができてから人の流れがかわり、なかなか
ぐるっと回ってここまで来ません」とのこと。小父さんは福井の芦原温泉
生まれ、ちゃんとした材料を使ったちゃんとした店であった。

表通りでもまつや、さぼてんなどチェーン店は続いているが、ベトナムの麺や
も築地直送海鮮どんの店も開業したもののあっという間につぶれた。
全国的に開業した店の9割は一年持たないのだと言う。味だけでなく、人柄、
客あしらい、常連づくり、時には居酒屋など花見や温泉旅行のイベントまでして
客を確保しているようだ。大変だ。

1月4日

2010年1月4日 月曜日

新たにすの新聞案内人のコーナーに千駄木五丁目で起きているマンション紛争に
ついて書いた。そこに長くて引用できなかった、リリー・フランキー氏がマンション業者に
頼まれて書いたであろう詩だかエッセイだかわからないものをのせます。
当該地、団子坂上、もと駒込電話局の工事現場の看板でもみられます。

いい文章ですねえ。でもこれマンション販売の惹き文句なんだ。
そんな谷根千にマンションができる、買いませんか、という。
私も売文業者ではありますが、ベストセラー「東京タワー」の作者にこんな業者の
手先みたいな文書いて欲しくなかったな。

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僕は、九州から上京して東京に住みつき、もう、28年になります。
でも、今でもどこかでここの人ではない自分、という気持ちが、
心の奥底、肌のすきまに、離れることはありません。
谷根千と呼ばれる土地をゆっくり歩いた時、その疎外感から、
少し開放されている自分に気づきました。
この町は、人を受け入れてくれる。
人が作った、人が主役の町だから。
故郷の町にも、東京の都会にも、
同じように優しい体温を感じる場所があるのだと思いました。
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日照や通風を奪い環境を壊してつくったマンションの住人を地元住民
が「受け入れる」のはむずかしい。

今日、マーロン・ブランドについてのドキュメンタリーを見た。よくできていた。
彼のめちゃくちゃな私生活、しかし公民権運動や先住民の権利のために
発言行動したことは知らなかった。「ゴッドファーザー」でのアカデミー賞主演男優賞を
辞退し、その席で先住民の女性に記者会見させたりした。あんな美しい男も晩年は
タダのデブ。みんなそんなもの。

1月3日

2010年1月3日 日曜日

読みのこした去年の週刊「金曜日」を読む。昼すぎ、上野の噴水前での炊き出し
に行く。見物でもないし、支援でもない。人手は足りていてお手伝いにすらな
らない。
長年関わっている方達も、山谷争議団の当事者もいる。仲間たち、と呼びかける。
それを取り巻く人びと。私ももちを搗かせてもらった。それを丸め、上にもつ煮込みを
かける。
準備が終わったらどっと人がテーブルに寄った。おいしそうに食べ出した。
「あなたもどうぞ」と一杯もらったが、昼前に食べたばかりだし、近頃、菜食に
近くなっているのでせっかくだがテーブルにそっと載せた。
すぐ誰かが平らげてしまったようであった。
寒空で水族館劇場の「放浪記」があった。薄着で裸足で、ほんと役者魂である。
「放浪記」は都市の底辺で生きていた林芙美子が「私はふるさとを持たない」と
叫ぶ。集まった人びとはどのようにこのセリフを聞くのだろうか。何人かの人と
たわいない言葉を交わした。
夜遅く、サトコが帰って来た。「お餅にもつをかけるのはちょっと」というと、
「そう、なれればおいしいよ。毎年そうだし。今年のはとくにおいしかった」という。
下町の労働者の中で暮らそうとして暮らせなかった伊藤野枝にちかい敗北感を感じた。

1月2日

2010年1月2日 土曜日

新聞の整理。「マイフェアレディ」を見る。これまたいろんなことを
思い出す。最初、ブロードウェイで評判のこのミュージカルが日本に
来て、子供の私は宝塚劇場に連れて行ってもらった。そんなことは後にも
先にも一回。
イライザが江利チエミ、ヒギンズ教授が高島忠夫、かっこよかったなあ。
江利チエミは40代でなくなったし、高島は鬱病を告白している。
ピカリング大佐の益田喜頓、イライザのお父さん八破むと志、うまかったなあ。
それから映画がきて浅草に観に行って。オードリーの最高に輝いていた頃。
最後のほうで来ていたピンクのジョーゼットみたいな服を母がバービー人形の
ために作ってくれた。中学では音楽部でこの「君すむ街角」や「踊りあかそう」
をうたった。今みると、ヒギンズ教授の階級意識とミソロジー(女性嫌悪)は
ひどすぎるし、そんな男に惚れてスリッパを取ってやる必要なんかどこにあるんだ、 といいたくなるが、あの映画でロンドンの印象がきざまれたのも確かだ。
バーナード・ショーごのみの玉の輿伝説でした。

1月19日

2010年1月1日 金曜日

新聞に高次脳機能障害について載っていた。自転車選手の石井雅史さんという人の体験。病気や事故で脳が損傷を受け、記憶障害などが引き起こされる。 集中力が続かない、記憶障害もある。疲れやすい。 私はもしかしてこれではないか?まったくやる気のない日、雑用がしんどくてたまらない日、仕事が進まない。

1月18日

2010年1月1日 金曜日

ほとんど毎日見るbs1の「おはよう世界」でハイチ の地震のニュースを見る。5万とも7万とも20万 ともいわれる犠牲者。
地震から5日経ってほとんどがれきの中から生存者が救出される事はなくなった。スーパーの中にとじこめられ、スーパーの食糧を食べていき伸びた人が 5人救出された。まったく耐震基準などないよう な、コンクリの建物。そのがれきを取り除くにも機械がない。素手で掘る。通信手段がない。水、情報、食糧の順でほしい、とハイチ人はいう。 首都に支援物資が集中し、近郊の村は見捨てられた まま。略奪、暴行も広がりつつあって、一人が警官 に射殺された。こういうときもうまくやる連中がい て、オイルなどの救援物資をヤミに横流ししたりすると言う。見ていると来るべき東京の地震の事前勉強になる。フランスではハイチの孤児を養子にしよ うとする人が数千人、日本と発想がちがう。

1月1日

2010年1月1日 金曜日

青空。窓からぼーっと見る。母のところで新年会。持って行った中華
のおせちに他の人の持って来た料理をつめてかえる。「いつまでも減
らない魔法の重箱」とサトコが笑う。ヒロシは年越しバイトでくたくた、
私も3時間は保たないので9時には帰る。加藤周一さんの追悼集を読む。
一度くらい、お目にかかったり、または講演だけでも聞いておくのだった。
機会はあったのに。一度だけ鎌倉の喫茶店へ夫人の矢島翠さんと
入って来られるのをお見かけした。矢島さんは共同通信の記者だった
ころからファンだった。男女雇用機会均等法の前、共同の原寿雄さんに
「何で、矢島さんはお辞めになったんですか」と聞いたら、
「人生をかけるべき他のことが見つかったんでしょう」と静かにほほえまれた。
いろんなことを思い出す。