2012年7月 のアーカイブ

7月16日 炎天下の集会

2012年7月23日 月曜日

さよなら原発10万人集会が開かれた。いこうかどうか迷ったあげく、家にいた。原田病患者には夏の日差しがつらいし、人の多いところも弱い。映像ドキュメントの仲間は手分けして取材にいった。17万人という主宰者側発表と7万人という警察発表と。坂本龍一さんの「たかが電気」というのはいいフレーズだ。いま漱石を書いているが、漱石も鷗外も石油ランプの下で万年筆で名作を書いたのだ。100年前には日本で電気を使っている人はそれほどいなかった。明治38年で契約件数は10万戸。それにしても炎天下で有名人のアピールをずっと聞かされるタイプの集会に対する疑問もないではない。10万集まれば政府はぎょっとして方針を変えるのだろうか? 壇上と壇の下が分かれてしまうような集会はもうそろそろ変えたい。同じ言葉をくりかえし叫ぶのも。参加者は疲れただろう。いま荒川さんからメール、屋根のないステージで発言者もかわいそうだったと。

7月15日

2012年7月23日 月曜日

気持ちが食い違って、家の中がもやもやし、息子はご飯も食べずに出て行った。本の校正中の私は、こういうとき男の作家は家を出て、仕事場も持って居ていいな、と思う。
私の知人も仕事場をもち、家事や育児、経済や家庭運営は妻に任せている人が何人もいる。私は仕事の他にそれ等を全部やっている。しかし子どもがかえってくればご飯食べたのかな、と思うのは私の方で、向こうは「食べたよ」「何度も聞いてうるせえな」と思っているのはたしか。三木卓「K」を読む。ひとりでいるのが好きな詩人の妻との別居結婚の話。小説家はこうも書くのか、と表現には感心しつつ、でも何となく妻のほうへよりそって読んでしまう私。

7月13日 臼井吉見と碌山美術館

2012年7月23日 月曜日

臼井吉見、古田晁、唐木順三は筑摩書房を起こし、支えた3人だが、みんな信州の人である。臼井吉見記念館にいって憶い出した。昭和52年は恐ろしい就職難で、女子大生は全く募集がなく、朝日とちくまが重なって私は筑摩を受けたのだった。忘れもしない小川町あたりの古い木造2階屋に願書を取りに行き、小さな会社だな、と思ったのに、中央大学の大教室一杯に学生が試験を受けていて、こりゃだめだな、と思った。しかし最終4人にまでははいって、面接を受けた時の怖かったこと、銀髪の学者みたいなおじさまがずらりと並ぶ。何を話したか覚えていないが、「校正をする気はありませんか」と聞かれ、校正のなんたるかを知らない私は「編集がしたいんです」と答えて不合格。
臼井吉見は編集者と作家、評論家の幅広い仕事をして最後の「獅子座」が未完である。維新の群像を描いた者だそうで是非読んでみたい。それと臼井吉見は福島県双葉中学校の教師をしていたことがあるというのも初めて知った。
そのあと碌山美術館へ行き、4時間、五十嵐学芸員に昔年の疑問をいろいろ聞いてみた。なんで碌山は急死したのか、など勉強になった。山本安曇という鋳造家も安曇野の出身で碌山の彫塑をほとんど鋳造したと言うがこの人のことも気になる。妻と子と昭和20年の3月4日の空襲でなくなっている。とすると谷根千のあたりではないだろうか?

7月12日

2012年7月23日 月曜日

ほんとうは安曇野の臼井吉見さんのれんげ忌に招かれて来たのであった。もとは安曇平といったのに「安曇野」と呼ばれるようになったのは臼井さんの「安曇野」が原因。中学の時に一部を読んだが、荻原碌山に始まり、相馬黒光、愛蔵、中村彝、中原悌二郎、戸張孤雁などの芸術家群像が出て来る。地元には「安曇野を読む会」などもあってもう2度めを読みはじめていると言う。なんだか私より詳しい人の前で釈迦に説法といった話になった。碌山のお墓、荻原家、相馬家などを訪ね、いろいろ勉強になった。また東京駅の保存のときに高峰三枝子さんが映画のロケをいていたら飯沼飛行士の帰還にあって東京駅は忘れられない、といっていた飯沼飛行士も安曇野の出身で記念館があった。そしていろんなことがわかったのだが、そのことはどこかに書きたい。

7月11日 浅間温泉神宮寺

2012年7月23日 月曜日

松本の神宮寺さんには借りがある。尋常浅間小学校の閉校式のときに金子文子について話す約束をしてあったのに原田病を発病してキャンセルした。先日京都龍谷大であった時高橋和尚に原発関連の映画持って行くから見ましょう、といったのだ。それでお昼のあずさに乗って、温泉に入って、夜はお寺で檀家さんなども含む小さな映画会をやって、カレーライスをご馳走になった。松本辺りは放射線値は低くて、私は避難地として考えているが、聞きにきた土地の人は福岡に避難所を用意した、という方もいてびっくり。高橋和尚は相変らず明日から石巻と相馬、車で行くのだと言う。タフ。

7月8日 ジョン君

2012年7月23日 月曜日

ジョン君が九州ヘ行く前に挨拶に来てくれた。彼はカリフォルニア工科大学を卒業後、ロサンジェルスで設計の仕事をし、九大に一年留学し、秋からはハーバードの建築科の大学院に行く。3月にニューヨークで友人の息子さんと一緒に会って、夏には日本に1ヶ月行くので、東北に行ってお手伝いがしたい、と言っていた。それで7月2日朝に来たジョン君にそのまま仙台まで行って石巻の熊谷さんを訪ねるように言った。彼はそのとおりにして、石巻、女川、追波湾あたりを自転車を借りて回ってきたという。「みんな悲しいことの後なのに明るい顔をしていた」「草刈りの手伝いをしました」「ぼくはまた石巻に行きます!」という。いい経験をさせてもらったので森さんにありがとうと言いたくて、と重いトランクで羽田に行く途中に寄ってくれたのだ。かれはフィリピンの移民の子どもだ。背負うものは重かろう。そのことが彼のやさしさと誠実さを育てたのか?「熊谷さんがタガログ語を話すのにはびっくりした」という。そういえば茅葺きの熊谷秋雄さんが昔、フィリピンに海外青年協力隊で3年も行っていたことを、ジョン君にいわれるまで忘れていた。

7月7日 シジミ

2012年7月23日 月曜日

七夕。石巻の十三浜のシジミを送って貰った。よく泥を落とし、砂を吐かせ、まずはネギを散らしてみそ汁に。夜はシジミのスパゲティに、翌日はもやしとニンニクと唐辛子で韓国風に、それが唐辛子を一粒入れただけで物すごくからくなり、2倍に薄めてラーメンに、3日めはジャガイモ、人参、タマネギ、パセリでシジミチャウダーに。これが一番おいしいような。娘は「やあ、朝起きて来てすぐご飯が食べられていいなあ」と言って勤めに出て行った。おいしいものを作りすぎるとパラサイトを助長するかも。

この日、谷中西川さん宅で原発都民投票グループの主催で『シェーナウの思い』というドイツのドキュメンタリーを見る。や、これはいい。もう原発がどんなに恐ろしいか、の映画は見すぎた。これはチェルノブイリの事故のあと、ドイツの原発からほど近い2000人の町の住民が、住民投票をして電力会社から電線網を買い取り、自分たちでエコ配電会社を作ってしまう話。建物の保存やイベントはやれても、ゴミ、下水、電気などのインフラに手を付けられなかった私たちには痛棒であった。といって巨大都市東京で住民の手で配電は出来るのか?

7月4日 福島の子供のキャンプ

2012年7月23日 月曜日

こどもたちを夏休みだけでも放射線値の低い所で保養してもらう、というのは効果があるようで、今年もあちこちで行われる。わたしもその下見に5月イタリアのサルディニア島に行って来た。イタリアではもうひとつ、250人に達したらキャンプがあるらしい。250人集まらなかったら不成立というのはチャーター便かなにか飛ばすのかしら。避難のためのサイトもあるが、親御さんから「中学生ではだめなのか」「福島でなく宮城の線量の高い所ではだめなのか」といった問い合わせを見かける。九州でも「福島の子たちを招いて」という話を何度か聞いたが、会津よりは宮城の白石、角田、丸森などのほうが高く、線量の高い地域は凡て対象にするほうがいいと思う。ここでもネットなどで情報を取れるかどうか、放射線に関する知識の差、旅行費用がただでない場合、それを負担できるか、など経済と情報における親の格差が子どもの参加不参加に影響してくるのは悲しいことである。私も大工の息子に「自衛のため、国産煙草は吸わないほうがいい」と伝えた。

7月2日 どんな寿命の縮まり方?

2012年7月23日 月曜日

よく、我々は50すぎだからもう何食べてもいいや、とか70まで生きたんだから放射能で5年寿命が縮まってもいいや、という言い方をするが、友人に寄れば、健康で生きられて80で死ぬ所が、75でぽっくり逝っちゃうというようなことにはどうもならないらしい。放射能の影響が強い地域では、心臓ががたがた、頭痛や肌にブツブツ、のどが腫れ、足が痛い、と不調をかかえたまま余生を送るようになるらしい。だから汚染された食物はとらないに越したことがない。私も3・11以来、どうも体調はよくない。亘理の魚から75bqが出たというと避けるだろうが、丸森のお米から8bqでたというなら食べようかと思う。知っている人が作ったものなら食べる。それにしても原田病のときのステロイド200ミリがどういう量なのかわからなかったように、75bqと8bqの差もわからないし、暫定基準値の500と100の差もわからない。
そして安全な所へ避難し、安全な物を食べる選択にも残念ながら経済格差というものが働いている。

6月29日 由布院記録文化映画祭

2012年7月23日 月曜日

この映画祭には6回から来ていて、途中2回来られなかったので、8回来ていることになる。今年も力作ぞろいであった。今年は松川賞の審査もなく、のんびりと凡ての作品を見ることができた。今年は山﨑と仰木とスタッフ3人で卒業旅行をかねてきたので、昼休みには町に出て、福助の地鶏塩ラーメンを、ととやの親子丼を食べ、映画祭が終わったあとの月曜日の昼は亀の井別荘湯ノ岳庵で打ち上げのご飯で、昼からワインやお酒を飲んで、やまさきなど、あ~~幸せ、をくり返していた。立派なお店なのに、メニューを見るとリーズナブルで、キュウリとミョウガの酢の物から、へしこ、鮎のうるか、チーズの味噌漬け、鯉の洗い、地鶏の唐揚げ、鮎の塩焼き、ホワイトアスパラ、しいたけの炭火焼、ともう酒飲みには堪えられないものばかり。地の野菜を安心して食べられることの羨ましさ、いろんなことが胸に去来した。今年、松川八洲雄『JAPAN』と巻町の原発住民投票のドキュメンタリーが一番よかった。