2011年4月 のアーカイブ

震災日録 4月26日

2011年4月28日 木曜日

まだ冷蔵庫もない、自炊すらできない、こんな避難所があるということを知っていただきたいと思う。

「4月22日の大塚モスク被災者支援18便の報告より
10時21分、チキンと野菜のカレー150人分、牛乳(1L)36本、お菓子類を積み、出発しました。
途中、道路は所々ひび割れしていたり、段差が続きました。
12時54分、いわき芸術文化交流館アリオスに着きました。入り口には、ダンボールで囲い休んでいる人がいました。上階は囲いなどなく、それぞれ毛布が敷いてあり座っている人が多くいました。職員もそこにいました。福島県、いわき市、長崎県の職員が在籍していました。話を聞くと、避難所には130名いて、子どもは20名ほどとの事でした。お風呂は、近くに銭湯があるのと、自衛隊によるお風呂までの送迎巡回バスもあるそうです。
炊き出しで要望のあったのは、八宝菜丼、シチュー、肉と野菜の味噌汁など、野菜が多く入っているものでした。普段はおにぎり、パン、カップスープなどを食べていて、自分たちで作ることは(規定で煮炊きが禁じられているので)していないと話されていました。冷蔵庫もないため、野菜ジュースなど常温保存がきき、小さなパックの物が助かるとの事です。果物は単独で渡すよりも、炊き出しの付け合わせとして出されると嬉しいとの事でした。

次に、津波被害が大きかった小名浜港を通り、江名小学校にお菓子を渡しに行きました。この避難所には150名の方が暮らし、子供は15人ぐらいとのことでした。高台にあるこの小学校にも津波が押し寄せてきたとの事です。家庭科室は他の避難所の方たちが利用していて、ここではテントでプロパンガス釜が使えるようです。朝食はパン、おにぎり、ビスケット、昼食、夕食はおにぎりと味噌汁を食べているとの事でした
。高齢者が多く、体育館の中では2つのストーブと毛布2000枚で暖を取っていました。ここでもダンボールなどの仕切りがなく過ごされていました。職員に聞くと、みんな近所の人たちだからうまくやっているとの事でした。今月27日にカレーの炊き出しを約束しました。中学2年生の男子は、カルピスが飲みたいと元気に話していま
した。17時ごろ、炊き出しをするアリオスに戻りました。
避難をしている方と話をし、その間も地震があり、「怖いねぇ、1年は続くみたいだよ」と不安そうに話していました。夕食の時間になり、カレーを配りました。職員が鍋を温めてくれ、地元のボランティアと一緒に配膳しました。「美味しかった」ととても好評でした。

次に3箇所目の避難所、福島県立平工業高等学校に行きました。ここは130人が滞在しており、昼間は学校などに行く人がいるので、日中は1/3程度の人がいるとの事です。こちらもお風呂は自衛隊による送迎巡回バスがあるそうです。
80%の方は家が全壊し、20%の方は家が半壊したとの事です。浪江町から原発のために避難して来た高齢の女性は、私たちが行くと笑顔で迎えてくれました。何が食べたいかとたずねると、カレーと話してくれました。
19時10分ごろ、避難所を後にし、帰路に着きました」

マスコミが避難所の静穏を乱しているとも付記されていた。ニュースで見るとNHKは停電中もライトをつけて夜の避難所のなかを撮影していた。何人ものお年寄りがまぶしがって、手をかざしたのに。私は避難所のなかは昼間でもほとんど撮れなかった。テレビ局のクルーは5人掛かりで撮っていたけど。

今日は浜中佐知監督『百合子、ダスヴィダーニャ』の完成試写を西麻布に観に行った。
映画はよかったけど、いま表参道、西麻布を歩くのはつらい。まえからこけおどかしと過剰包装の町だと思ってきたが、いかにも業界人といった感じの人々、ブランド品を持った若い女性、装飾的なショウウィンドウを見ていて頭が痛くなった。神保町で降り、古書店とラーメンやの中を歩いて少し落ち着いた。
やっぱり東京はおかしい。

震災日記 4月25日

2011年4月28日 木曜日

むかし不忍池の地下駐車場反対運動をしていたとき、不忍池周辺の地質についていろいろ教えてもらった方からメールが来た。彼は地球科学研究者である。

「まだ房総沖のプレート沈み込み部分の破壊が完了していないかも知れません。連動せずに収束してくれることを祈っています。また、フィリピン海プ レートに連動して東海-南海道で地震が発生しないことも、です。過度な心配は不要ですが、警戒を緩めないでください」(3・18)

「3月11日発生の大震災、東電の責任が追及されていますが、我々地球科学関係者 も同じく大きな責任を負っています。遅くとも2007年には今回のような大津波(貞観津波)の存在が知られていました。なぜそれが防災政策に活かせなかったのか、悔やんでも悔やみきれません。津波によるスマトラの惨状を我々は知っていたのに、です。先週月曜日の内陸地震でいわき市に出現した地震断層の調査のために線量計(放射線用)を携行して現地に行きましたが、その際、小名浜の津波被害現場にも足を運びました。TVの映像での認識を遙かに越えた惨状に茫然とし、そしてただただ「申し訳ない」とつぶやく以外になすすべがなかったのです。現場では大量の家財道具、水を吸った衣類などが放置され、上空を舞う騒がしい烏の群れが我々をあざ笑っているかのごとくでした」(4・17)

なかなか,地球科学研究者の声を聞くことはないので、大事なことだと思う。

地震予知連絡会なども責任は逃れまい。その自覚はあるのだろうか。

ここに出て来るスマトラ島沖地震は2004年12月26日マグニチュード9・1。インドネシア、タイ、インドでも津波でたくさんの死者が出た。インドでは12000人(行方不明をのぞく)。
私はその翌年、インドを訪れ,オーロヴィルという海辺の村でツナミカという小さな人形に出会った。これは漁師の夫を流され、悲しみの底にいた妻たちに、あるデザイナーの女性が提案したものである。余り切れを使って小さな人形を作ろう。一緒に手を動かし,泣き,笑いながら。これがそれまで夫に依存して生きていた女性たちの自立を促すプロジェクトになった。私はこれを買うのではなく、募金していただいてきた。いまピースボ-ト経由で2万のツナミカが日本に送られたという。すごくきれいなサイトです。ご覧ください。
http://www.tsunamika.org/

震災日録 4月24日

2011年4月26日 火曜日

今日は疲れ果て、歯も浮いて一日家で原稿書き。
サトコはきょうはアースデイに行ったそうだが八ツ場ダムのことを訴えても、今年は反応が悪かったとか。前原大臣が中止を訴えたのはたった1年半前なのに。
デモに行った荒川さんによると参加者は4500人、3月27日が1000人だったから確実に増えている。今アップ準備中。
高円寺のデモも撮って来た人がいるがアップ準備中。これもいくつか出ているが撮る角度、興味、どの位置で撮るかに寄ってまったく違うデモのように見える。
主体がどこにいるのか、は重要なことだ。

ヤマサキは団子坂シネマのアンコール上映で、一日蔵で映画ざんまい。
最後はスウェーデンのドキュメンタリー『脅威』。1987年のチェルノブイリの事故の後、爆発して大気中2000メートルの高さに登った放射能は3000キロ離れたスウェーデン北辺のラップランドを襲った。

「自然を預かっている」「自分のことよりまず自然を、動物のことを考える」というラップの人々はトナカイの群れを追い、必要なだけトナカイを屠殺して、その皮を用い、肉を売り、かつ食べている。しかし事故の後、最初に穫ったトナカイは75%廃棄。3度目のはすべて廃棄。トナカイは核廃棄物となったのである。

今年東北で育てる米や野菜もへたすると核廃棄物になるかもしれない。そのことへの怒り、そして東京ではまだ食物が充分にあるかのように錯覚していることの不思議さ。

金があるんだからから輸入すればいいや、と思うかもしれないが、そうするとただえさえ食べ物のないアジア、アフリカの食糧を強奪することになる。
「日本は食物に苦しむ国になる」と佐藤忠吉さんも結城登美雄さんも言っていた。

夜中、地方選結果でる。台東区長に土建開発主義の保坂三蔵がならなくてまだしも。
さまざまな煮え湯を飲まされたが、とくに保存を前提の池之端茨城県会館を裏で動いて久保工に落とし、その久保工は蔵だけ残して後は有料(一泊二万五千円)老人ホームを新築、しかも売り逃げ、というひどい事態を招いたことは忘れない。保坂は菊祭りでこれを自分の手柄に数えて自慢していたのだから事実なのだ(谷根千をやめたのでやっと言える)。

文京区長選は小竹さんが善戦、世田谷区長選で原発の見直しを訴えた保坂展人(同じ保坂でもずいぶんちがうものだ)が勝った。世田谷区民はさすがだな。

岐阜の世界遺産白川村ではこの前行った時、富山空港へ迎えに来てくれた教育長の成原さんがなんと村長選に出て勝ってしまった。あそこも行った人のほとんどが言うように観光金儲け主義が跋扈している。国の金で修復した民家を使って民宿、食堂、土産物屋で何千万も億も売り上げる住民がいる一方、ちょっと外れた農業者は100万ちょっとしか収入がないとか。母と妻が観光業者である公務員が「誰かちゃんと儲ける人がいないと日本はまわっていかないでしょう」と公言するのを聞いていやな感じがした。そんな格差村の是正が課題だと思う。

震災日録 4月23日

2011年4月26日 火曜日

21日の福島の人々による文部科学省交渉の記録がすでにアップされていてそれを見る。若手官僚の対応が実にひどい。何もわかっていないのか、わざとはぐらかしているのか。
子どもの安全基準、根拠不透明~市民の追及で明らかに
映像ドキュメントでも編集中。

これについて
正気を疑う文科省の学校線量基準-合原亮一
【緊急声明と要請】子どもに「年20ミリシーベルト」を強要する日本政府の非人道的な 決定に抗議し、撤回を要求する
子どもに20ミリの撤回を要求する要請・署名フォーム

川原理子の報告

――21日に、参議院議員会館で、喜多野さん、吉川さんと、「文部科学省・原子力安全委員会交渉 子どもに年20ミリシーベルトの安全基準を撤回せよ」を取材してきました。

文科省が、福島県内の小中学校や幼稚園、保育園などで、被曝量が年間20ミリシーベルト(毎時3.8マイクロシーベルト)を越しそうな施設に対しては、屋外での活動などをひかえてほしい、という知らせに対して、市民団体側からどのような方法、根拠で年間20ミリシーベルトまでは大丈夫という安全基準が決められたのか、子どもは大人より放射線の影響を強く受けるというが大丈夫か、内部被曝のことは考えているのか、などの質問がでましたが、文科省の人は、質問を「持ち帰って」ばかりですし、安全委員会の人は、「文科省から20ミリシーベルトでどうですかと聞かれて、会議も開かず、2時間で決め、方向性は聞かれる前から決まっていた」と言いました。
そして、「でも、決定したのは、わたしたちでないですから」、と逃げ(?)たので、おどろきました。しかも、となりに文科省の人がいるのに。

やむをえないといって、「苦渋の決断の顔」をしてみせながら、第一原発の作業員の被曝限度量を100ミリシーベルトから250ミリシーベルトに上げたけれど、こんどは、「子供たちの被曝をできるだけ少なくする」といいながら、1ミリシーベルトから20ミリシーベルトに上げました。

福島第一原発の事故後、福島県の各市町村で放射線量が測定されていて、積算の放射線量としてそれを足していたのですが(作業が遅く間に合いませんでしたが)福島県内7方部 環境放射能測定結果(暫定値)福島県・環境放射能測定結果・検査結果関連情報
福島県放射線モニタリング小・中学校等実施結果
福島県・ 小中学校等モニタリング

各学校で測定された放射線量は施設ごとに多少差があり、継続して測定していたものより数値が高いところもあるようです。測定値が、校庭など、土の上だからでしょうか。――

官僚用語。「ご案内の通り」「その件につきましては存じておりません」「調査して参る所存でございます」今頃何いってんだ、ぼけ!

昼から白山ルームで木崎さんと映像編集。『ダムとわたし』映画祭で上映した大西暢夫監督『水になった村』のお話、いま原発に騒いでいる世の中からはちょっと遠い話かなあ、と思ってもう一度見たが、まさに原発と同じであった。静かな暮らしをしている過疎地に突然、自然を改変する巨大計画が持ち上がり、合意形成もないままにボス(首長や土建業者やえらいさん)が電源立地などのうまい汁を吸うため、計画に乗ってゆく。

そうして山の恵みで豊かに暮らしていた人々はふるさとを追われ、隣人を失い、スーパ-で野菜を買い、ついには孤独死する。もう体は土に帰れない。

大西監督の話はもうすぐアップします。この日、誠之小学校の小さな同窓会、さっと8人も集まりやんちゃ坊主に戻った。わたしたちはまだふるさとを失っていない。

震災日録 4月22日

2011年4月26日 火曜日

耳鳴りがひどい。嬉しいことは石見銀山の群言堂の松場登美さんからどっさり衣類が届いたこと。古着だけどきれいに洗ってあった。私が本をなかなか捨てられないように、デザイナーの登美さんは服が捨てられないのだと思う。「古着を送って失礼かと思いますが」とあったが、なんのなんの。群言堂ファンだけどなかなか買えない人は多いのだから、大事に着た服をこんどは大事に受け継ぎます。さっそく活動に協力している仲間たちに配る。

支援物資は新品に限る、とあるのだけどいつも古着しか着ない私は新品を買ってまで送る、ということに抵抗感がある。阪神淡路の際、ぼろぼろの古着を送る人がいて被災者の心を傷つけたからというのだが。かとおもうと被災地では気に入りの服にメッセージを付けて送って来た人、学校で着るジャージの名前のタグにメッセージを書いて送って来た人への好感を語っていた。思いが届けば、心がつながれば古着でもいいのではないだろうか。被災地で何が必要ですか、ときいたら「マットの毛をとるコロコロがほしい」「学校が始まるので体育館にいる私たちは耳栓とアイマスクがほしい」という声もあった。
夜、幼稚園からの友だちキョウコちゃんに会う。彼女はお母さまの介護で大変。「家を流された友だちに何がほしいと聞いたら喪服がほしいって。あした送るの」。これも現地が想像出来た。すべて流されたけれど、お葬式には黒い喪服がほしい、という気持ちが。被災地では瓦礫の処理をしながら、お葬式もたくさん行われているのです。

震災日録 4月21日

2011年4月26日 火曜日

今日は面川さんのお米、今日は大内さんのお米、今日はサトコが座間で作って居るお米、今日は鳴子の米プロジェクトのお米と毎日炊く米が変わるのでヒロシは「うちッて米の品評会場?」と驚いている。どれもおいしいよ。前は「なんで私だけ、仕事もして子育てもして家事もしなくちゃならないの?」と腹を立てていたが、いまは家族のために料理するのがなんだか幸福に思える。避難所にいる人々はそんな平凡な日常すら剥奪されているのだ。

自分の畑からとって来た最後のジャガイモがなくなった。このところ備蓄食糧はあらかた食べ尽くした。家に買ったまま忘れているまめやキクラゲやゴマや唐辛子やウーメンやこんぶがこんなにあったのはびっくり。行った先でお金を落とそうと買ったものもあるけど、それにしても始末が悪い。
白山に安い八百屋ができてすごい人だ。産地はそれぞれ銘記してあるが、中国産野菜もずいぶん置いてあるし、どれだけ新鮮で安全かよくわからず。私の畑は無農薬無肥料だったから抜いて泥さえおとせばそのままかじれた。あれもしあわせのひとつだった。

東北で仕入れて来た米、酒、こんぶ、若布、味噌をどう売るか。これも意外に大変。たとえば農家にしてみれば、5キロでも2キロでも袋詰めの手間は同じなので、5キロが主流である。しかし東京で一人暮らしだと米の2キロ買いが普通。5キロの米を運ぶには少なくとも自転車がいる。農家はたいてい自家精米機があるから玄米で売るのがあたりまえ。しかし東京で自宅に精米機を持っているひとは少ない(うちにはあるけど)。だから白米で仕入れて来たのだけど、白米はそう鮮度が持たないので早く売らなくてはならない。

米は現地で5キロ2500円で仕入れた。これは土からつくった無農薬米だから安い。安全な食品を流通させる会などでは4000円クラスのお米。しかし東京では5キロ1800円くらいの米も出回っているので、高く感じるひともいるだろう。なおかつ2500円で売ると、ガソリン代、高速代、レンタカー代などは足が出る。これは行きの別のミッションのためのものだからいいとして、買って来た米をおろし、自宅まで上げ、またおろしの手間が大変だった。ものを売ろうとすればこういう労力や倉庫代のことも考えなくてはいけないのだな。とにかく今回はヤマサキ、安田邸、光源寺、はてなさんなどの協力でどうにか売り切ることができそう。わかめとこんぶは飛ぶように売れたらしい。ありがとう。

明治学院大学の連続講座で荒川さんが「ドキュメント・チェルノブイリ」を上映するので行く。そのあと平和研究所で震災と原発を記録するチームを立ち上げる。そこで角田の米農家面川さんの息子常義くんがいっていた。「東京では原発のことばかり騒いでいる。被災地では生きるだけでぎりぎりなのに。とっても違和感がある」と。私のところにも「原発に近い所ではみなどんなマスクをしていますか」と聞いたひとがいた。瓦礫処理する自衛隊員はもちろん防塵マスクをしているが、南相馬や新地でも住民はマスクなどほとんどしていなかった。それどころではないのだ。面川さんはことしも作付けをするそうだ。「海沿いの田んぼが全部やられたのに角田で米をつくらなかったら宮城は食べる米がなくなる、と父はいっています」と面川くん。正しい判断だと思う。

震災日録 4月20日

2011年4月25日 月曜日

朝早くから区議選の候補者が回ってくる。「未来を作る子供たちのためにがんばります」「安全で安心な暮らしのために精一杯はたらきます」。内容のない空疎なことを拡声器でがなりたてている。

東京駅の古材のスレート瓦を引受けた熊谷産業社長熊谷秋雄さんはクマちゃんと呼ばれている。ほんとテディベアそっくり。でも私もクマちゃんと呼ばれているので兄弟かも。
彼とは10年以上前に一諸にイギリスの茅葺き屋根やナショナルトラストを観に行った。その頃彼は30代だったはず。ものすごく口が悪くて「森さんは運動は上手だが文章は下手」とかね。絵本とマンガを宮城に届けにいった、と言ったら「まさか、森さんの本じゃないでしょうね」。抗議すると「本当のことをいうひとが必要ですよ」と口が減らない。トラストの山本玲子さんも工学院の後藤治さんもイギリスには一緒だった。クマちゃんは民俗研究家・結城登美雄さんとも親しいし、いろんなネットワークが今日のためにできていたようなのだ。

JR東日本にいったとき、「重要文化財と言っても工事はうちがすべて費用を出している。補助金などは一切もらっていない」といわれた。暗に「私企業が独自でやる工事に差し出がましいことを言うな」ということらしい。石巻の現場に視察に来た時も瓦寄進などイベントはやめてほしい、と言ったとか。しかし東京駅が建った時は国有鉄道だったし、東京駅も国の財産だったはず。一等地をどでんと占有して南北行き来のじゃましているのも公共的存在なので許されているはず。しかも駅舎保存は丸の内の他のビルに容積率を移転して、つまり元国有地の空中権を売っぱらって駅舎保存の建設費を出しているんではないか。駅とは公共材、コモンズのひとつでしょうに?

NTTも千駄木の本来国有地であったところにマンションを建てて売り飛ばしているし、駅前には密集市街地に巨大情報サーバービルを建設中だし、ほんとうに民営化って何だったのだろう。井上ひさしさんがご存命あったらなんておっしゃるだろう。
NTTについても東京電力とおなじ大スポンサーのため、マスコミは東京新聞をのぞいて報道していない。東京新聞、原発についてもよくやっているな。

東京新聞(4月16日)は駅舎を「復興のシンボルに」と書いたあと、デスクメモで「『ご利用のお客さまにはご不便、ご迷惑をおかけしております』。JR東日本のホームページは慇懃無礼だ。地震や計画停電で客を駅から閉め出し、振替輸送も定期券の2割払い戻し(五日未満)もしない。『なにとぞご理解、ご協力をお願い申し上げます』という前に、誠意を見せてほしい」と書いている。
正論だ。11日には早々に終日運休を決め、コンコースも閉じてしまった。都営地下鉄が一番復旧が早かったと覚えている。
コンコースをはききよめ、寝袋を配って、帰宅困難者をお世話するくらいのことはやるべきだった。インドの駅構内なんて巡礼者に開放してみんな床に寝てますよ!

都市ジャーナリストから来たメール。

「私は14~15日に仙台からいわき市まで行ってきましたが、JRは常磐線のいわき-仙台間が完全復旧するのを断念すると推察します。
 三陸沿岸の不採算路線も同様です。
 こうした社会的責任に背を向けるJRに対して、募金で支えるより、姿勢を改めさせることが優先すべきだと思います」

全国の鉄道ファンよ、いまこそ動いてください。絶景路線ももう絶景が見られなくなるかも!

震災日録 4月19日

2011年4月25日 月曜日

5時に寝たのに8時に起きてしまった。なんだか不眠症。
どの御手洗いも使えない、という夢を見て目が覚めた。避難所の御手洗いは多く故障中だったから。お礼や報告に一日追われる。これ、ブログでなく日記になっているな。でも原田病のため、記憶がどんどんこぼれ落ちてゆくので、書き留めておこう。
昨日、お米を仕入れた面川さんの息子常義くんからメール。大学生だが帰って農家を継ぐつもり、一緒に東北の記録をしようと約束した。

森さん
 この間父が山元町に消防団の応援に行き、その時の写真を見せてもらいました。
 そこには建物などそこにあるべきものが何もなくたってしまった瓦礫だけの空間が写っていました。
 もうこれではいくら復興しても、もとの街の姿には戻れないでしょう。
 ですが森さんが書いていたように、その人の心のなかにある思い出や風景を記録していくことは、ものすごい意味を持ってくるのだと思いました。
 私もそれこそ5年10年のスパンで、震災を受けた人たちが復興に向かって立ち上がって行くさまを記録し伝えていけたらと思っています。
 それに加えて、自分が志している農業の有り様も伝えたいです。
 今実際に家の手伝いをしているのですが、この震災の後でさえ、季節の流れに逆らうことなく、その時にやるべき事を淡々とこなしている。
 それこそ想定外など言い訳も言わずに。
 そこにあるのは、人の生きる糧をつくる誇りなのだと思います。

すてきな文章だと思う。私たちは谷根千・記憶の蔵という活動拠点を持っている。
アーカイブとは穴蔵、貯蔵庫、記憶のドラム缶、あるいは人々の涙の壺なのだ。
東北の失われた記憶。壁のしみも、背を測った柱の傷も、大黒柱も、松林も、大漁旗も、コンバインも失われた。雄勝支所には拾われた御位牌やアルバムが並んでいた。
昔映した集落のお祭りやお花見の映像も集めなくてはならない。NHKにはいっぱいあるはずだ。みんなの視聴料で映したものだからみんなに返せ。地域に返せ。それが地域の肖像権というもの。八ミリも集めよう。お年寄りの記憶を紡いで、絵図も作ろう。

JR東日本は東京新聞によれば「始めから国産材を使うつもりだった」とのこと。JVが悪者にされている。中受けとはつらいもんだな。12日の段階でゼネコンの人からメール。

「要望書を早く出したほうがよいとおもいます。
発注者からの指示はとても強いものですから早いに越したことはないとおもいます。
ゼネコンは工期どおりにつくることを何よりも大切にしますからリスクはとりたがらない。
また、屋根はだいぶ出来ているから、すでにかなり昔のスレ-トは使われているのかもしれません。
地震で被害にあった東北を助けるという意義のほうが大きいのであればより、早いほうがよいし、JRに要望を出すことが重要です」

一日工期が遅れると5000万、などという話も別口で聞いた。これ、脅しとしか思えない。どういう計算なの? 原発止めると夏クーラーがつきませんよ、日本経済がだめになりますよ、と言っている連中と同じ発想。これからの世の中まだ、この方式でいきていけるとおもっているのかな。
そう言えば神宮寺の和尚からメールがずいぶん前にきた。

「現行日本のさまざまなシステムの中には、この地震・津波・原発事故によって崩壊するものが出るかもしれません。
ここ数年、何かわからないけど感じていた、閉塞感や、それに伴うイライラが、この
地震によって頂点に達し、同時に、パラダイムの大転換が始まる予感がするのです。

身内感覚優先で他を顧みない既成の組織(政党や行政機関や東京電力、はたまた、相撲協会や仏教界などなど)が生き残りをかけて表出していた、なんとも言えない、いやな閉塞感が、ここ数年あったような気がします。それらが今回の震災で大きく変わる、あるいはつぶれていくような気がしてなりません。
歴史を見ても、大事故や大災害、それにともなう大量死は、社会体制や宗教、文化を大きく転換させています。
そんな視点でこれからの推移を被災地から見ていきたいと思っています。
4月2日 高橋卓志」

そのとおりではないか?高橋和尚はこんな活動をしているらしい。

「13日に福島・川俣町に入り、20日から26日まで諏訪中央病院の医師たちと南相馬の市民総合病院のお手伝いをしていました。
鹿島、新地の避難所にも通い、凄まじい被害の実態と、避難している人々の闘いを目のあたりにしています。
その後、28日から石巻へ。東北人になったみたいな感じです。
1991年1月、鎌田實とチェルノブイリに入って20年になります。そのコンビが
久しぶりに復活しています。
20年間続けたチェルノブイリへの支援から得たものを、行政や市民、そして医療関
係(南相馬市民総合病院)とシェア しようと……」

やることがはやいなあ。見習わなければ。

震災日録 4月17日―――亘理、岩沼、多賀城、石巻、女川

2011年4月20日 水曜日

5時に目がさめるとひろしさんが私たちの朝と昼の二食分のお弁当を作っていた。
きのう、あまり話せなかったのでおしゃべり。
レストラン緑山は壁の小さな亀裂くらいだったが、電気が来なかったので食材はだめになった。塩竈に置いてあった釣り船はあきらめていたら岡に上がったところに見つかり、何度も通ってどうにか海に戻す作業をしている。アメリカ大使館から問い合わせがあったのでびっくりしたら、ニューヨークのおばちゃんが連絡が着かないので心配しているのだった。
「ガソリンがない頃、一人5キロまでしか買えないのを5時間並んで目の前できょうは終わりが二度あった。中で凍死した人もいたらしい」
亘理の自動車学校でも習いに来ていた若い人がずいぶんなくなって経営者が嘆いているとか。山元の幼稚園バスも津波でやられたとか、東京には来ない話ばかりだ。スーパ-は大繁盛、福島産がだめということになったら茨城県産がどっと出回った。卵は飼料が変わって黄身が白くなった。
お店を開けたらみんなステーキを注文する。「よほど肉が食べたかったんだね」
こんな非常時に残念だが、遺体から物を取っていく人、窃盗団、車上荒らしもあるという。お嫁さんがばあちゃんを置いてけないから家へ戻って二人とも流されたり。しのぶさんも聞くと泣くの毎日だという。
ひろしさんは宮城県が放射能量を計測しないので、何度か県や町に実行するように訴えた。町は「県の連絡待ってます」しか言わないし、やっても結局、「健康に影響はない」でしょう。信じられないよ。
「瓦礫のなかにはレジオネラ菌、破傷風菌、アスベストもまじっているから気を付けた方がいいよ」とマスクまで用意してくれた。

朝7時だが宍戸家へいって情報を仕入れる。宍戸さんのところは相馬のご親戚、大きな肉や「鳥久」は無事だった。丸森町立病院もいざという時のために入院患者を一階へおろし、玄関あたりで寝ている人、車椅子のおばあちゃん、大変だった。「大きなガス釜で米を炊いて毎日おにぎり握りっぱなし」と野菜ソムリエ、剣道の達人志津子さん。8時前に出発。

*亘理町吉田中学校
近くで仮設住宅の建設進む。明るい体育館。しきりはなし。ステージの上から職員が「ただいま本とマンガが届きました」とアナウンス。壇上に管理者がいて下に避難者がいると上下関係とか管理する者、される者に別れてしまうのではないかと思う。子どもは集まって腹這いになってゲームに夢中。これからもこの姿ばかり見て心配。入り口に退去者のものなのか、毛布がどっさり積み重ねてある。洗濯機をまわしながら井戸端会議。喫煙コーナーでもおしゃべり、お年寄りは蒲団に寄りかかり目をつぶっている。校庭でサッカーする姿も。

*亘理中学校
最初話した人は趣旨を聞き終わってから「私は練馬からきた支援なのでわからない」という。最初にいってほしい。責任者は「どれくらいの量ですか」という。これからもずっとそれを聞かれることに。「どれくらいいりますか」と聞くと、自分で見て来てください。しかし置きにいくと「皆さん、作家の森まゆみさんが子供たちにマンガと絵本を持ってきてくれました。大人向けの本もあります」とアナウンス。みんなから拍手が上がる。あと自分でも話せというのでほんの短い話をした。

*亘理高校
高台のもと城跡にある。入り口が難しい。どこの避難所も探すのに骨が折れた。
担当の女の人は名刺を渡すと「森さん」と呼びかけてくれたのはいいと思った。「浜の方で家も土地もなくされた方たちです。お年寄りが多いのでなるべく字の大きい本をお願いします」。本はどこにあるのでしょうか、と聞いて指さされたところに行くと小さな台にふるい文庫本がすこしあるだけだった。

*亘理小学校
子供の本のコーナーはあった。そこに少し置いた。ジャンプはぼくも読みたい、と受付の人。そのとなりで柔道整復師がふたり、お年寄りの体をなおしているところ。ほかでもこのようなボランティアは何度も見た。受付の若い男性はかなり疲れている。活力のある人は昼間は自宅に戻って瓦礫撤去などをしているので、残っているのはどうしてもお年寄りが多い。ご飯の時間ですというアナウンス。なんだか病院に似ている。

*逢隈小学校
ここは体育館を1丁目2丁目などと区切って、コミュニティをわけている。明るいが、とにかくこんな天井の高い茫漠とした空間に一ヶ月も暮らすなんて想像を絶する。
「山形から毎週、ジャンプをとどけてくれる青年がいるので、彼の気持ちを無にしないためにもジャンプは一冊でいいです」といわれる。
子どもが4割いるので児童書を多めに。もうすぐ学校が始まり、海側の荒浜小学校とひとつの校舎を使うので大変です。(合併はしないらしい)。畳があるのは珍しいんですよ、と職員は言った。

*亘理は山側はいちご、海側はホッキ飯で有名。いつも松島で釣をして漁果がないと海沿いの真新しい温泉鳥の海で松林を望むお風呂に入り、一階の鮮魚コーナーでミズイカやホウボウ、アンコウなどを買っていた。その回りには寿司や、ホッキ飯を出す民宿など、いっぱいあったのにすべて波にさらわれた。近付くことすらできなかった。とおくに蔵王の雪が白い。なんとも風光明媚なところなのに。曾祖母のふるさと。

*岩沼渡波小学校
大きな体育館。小さな木の囲いで着替えコーナー、受付コーナーが作られている。受付の人「できるだけ自立してもらうようにしています。炊き出しは自衛隊や地域の方がしてくれています。本はそんなに置くところないんですよ。もっと生野菜がほしいですね、けんちん汁はよく出ますが、おひたしも出したいんですけどね」
後背には被害の少なかった農村部があるのに、なぜおひたしやサラダができないのだろう。東京から米や野菜や野菜ジュースを運ばなくたって、と思うのだがよくわからず。「半壊でも金は出るぞ。家にいないでたまには避難所に来いよ。ここに情報があるんだから」と大声で携帯電話する男性あり。

*荒浜の早川眞理さんの尊敬するもんぺさんこと小幡つや子さん宅。
宮城野区中野。ここら辺の人はまさか津波が来るとは思わなかった。うちのすぐそこまで来て、あらあらと見ていたけど幸い中までは入りませんでした。山登りをするのでいくつものリュックに懐中電灯はいっていたし、ろうそくもあったし、キャンプは慣れているからそう困らなかった。キャンプの経験は子供たちにもさせた方がいいと思う。こうなると近所の人がみんな何でもくれるの。こんなんで被災者では申し訳ないけど行政からも物資をいただくし。
お昼ご飯を使わせてもらい、温かい味噌汁を出していただき、困っている人にあげて、とインスタント味噌汁二箱、手造りのおいしいチョコレートケーキを85個いただいた。http://blogs.yahoo.co.jp/monpebaasan
いっしょに仙台市の避難所を探しにいったが中野小は廃止。キリンビールの工場あたりもひしゃげた車でいっぱい。キリンの缶が流れ出し、拾ってのんだ人の話。瓦礫の処理で粉塵もうもう、「ここにも民家があったはずなのに」と小幡さんがいうが真っ平ら。

*ここで明日会う予定の雄勝天然スレートの木村満社長と連絡とれる。被災され、仙台の娘さんの家へいたが明日は雄勝へ行くと言う。「森さん、覚えていますよ。工場へ来てくれて、スレート切りましたよね。あのときの東京駅を葺いた職人の高橋さんもお元気ですよ。雄勝の千葉さんも支所の方でがんばっていますよ」。びっくり!
2日前のは同姓同名の方がいたための誤報で、旧雄勝町役場の千葉さんはお元気だった。よかった!!それにごめんなさい。

雄勝天然スレートの木村満社長も工場も家も全壊です。右後に写っているのは東京駅のために用意した雄勝産スレート新材。被災しましたがきれいなまま残っていました。

雄勝天然スレートの木村満社長も工場も家も全壊です。右後に写っているのは東京駅のために用意した雄勝産スレート新材。被災しましたがきれいなまま残っていました。

*多賀城の文化センター。国の史跡多賀城址を見学の帰りに寄った展示室も避難所になっていた。ホールは暗いし客席があるのでホワイエに暮らしている。ホールの入り口の取っ手にハンガーがかかっている。テレビでプロ野球に見入る人々。若い女性がおじさんたちにハンドマッサージ。入り口では天下一ラーメンが京都から車を運び、麺は仙台で調達、きょうもボランティアで1000食ふるまったという。本を並べていく。ほとんど本らしい本はないのに、壁際に某大手出版社から送られた書籍の包みがいくつも『返却』と書かれて積み上げられていた。ショック。

*石巻は朝と夕方、自衛隊、職員、ボランティア、見学者の車で渋滞するというので残念だが名取、東松島は通りすぎた。高速からは海のほうがよくみえる。6号線より西と東で色が違う。海側は泥で黒い。
女川町総合運動場へ。丘の上の大きなアリーナに多い時は3000人がいた。
入り口には自衛隊が大きなテントを張り、風呂を運営している。ごった返すという感じ。
岩手のアーク牧場で真理ちゃんが一諸に働いた高野晃さんをやっと見つけた。
食事は一日二回。朝はパンと牛乳とか。すかいらーくが炊きだしに来てる。きょうは讃岐うどんのテント。お姉さん食べてって、といわれ、あの、被災者じゃないんですけど。いいんだよそんな、いくらでもあるんだから。でも食べるわけにはいかない。なかは段ボールで囲って通路を作ってあった。

*女川町議で40年、原発に反対して来た高野博さんにあって話を聞く。
「地震の時は本会議中でした。家に帰ったけど入れる状態じゃなくて、女川第二小学校に孫を迎えに行きました。そのうちゴーッと音がして津波がくるぞ-というのでもっと高台の運動公園に避難した。雪が降り出してビニールシートを子供たちにかぶせた。津波には警戒していたが、あんな大きなのが来るとは思わなかった。家のあたりは海になっていた。100人の集落の那珂で55人が亡くなりました。小学生は無事でしたが、卒業で早く帰っていた中学生が2人なくなりました。
大学を出て、それこそ女川第一小学校の先生を二年やったあと共産党から町議になりました。それは昭和43年ころ、木村力という町長の時ですが、原発が計画され、議会26人中誰も反対しなかったので、お母さんたちの願いで私が出ることになった。議員になっても反対は私1人でした。東北電力はうまいんですよ。浪江町と誘致合戦をやらせて競わせた。反対したのは漁師さんです。女川漁協と雄勝漁協と。でも議会や市民と手を結べず稼働しはじめたのは昭和59年だったかな。今思えば漁師さんたちが正しかった。
私は議会で毎回、三つのうちひとつは原発のことを質問して来た。でも東北電力も誠実な答えをしたことはありません。今回の地震のあと、停電になり、電話もつながらず、ラジオで福島で事故がおきたことはわかったが、女川のことが心配でただ祈るだけでした。
チリ地震の時もマイナス6メートルまで波が引いたので海水から冷却のための水が取れなくなるのではないかとヒヤヒヤしました。私は8期やって1回落ちたんです。共産党から2人出すのに失敗して。それで返り咲いて今反対は2人いますが、事故の後、町民にアンケートを無作為でとったら6割は原発に反対、賛成は2割しかいません。
女川は東芝が作った原発ですが、しょっちゅう事故を起こしています。それに電力会社も町も真摯に対応してこなかった。電力支配下の町でなかなかはっきり物がいえませんがこれを大きな力にしていきたいです。

女川原発に40年反対しつづけた高野博町議

女川原発に40年反対しつづけた高野博町議

もう6時20分、追分温泉まで真っ暗な道を走る。到着後、荷物もおろさずすぐに夕食。ここは温泉だが避難所にもなっている。当初60人くらいいたがいまは30人、混ぜてもらって夕食。ここへは前にも来た。そのときは食べきれないほどの海の幸だったが今日は焼き魚、韮の卵とじ、カボチャの味噌汁がほっとする。
食後、お茶ではなしをする。ご主人の横山さんは、
「この辺は岩盤がよく被害はなかった。津波は見ていないし、そのあとも見る気になれない。100人以上のひとがここに逃げてきた。さいわい宴会が中止になったので、すぐ避難民を受け入れ、食材はあったので作って出しているうち、避難所に指定された。寒かったけど食材の保存のためには助かりました。ここから丹前を運んだり、おにぎりも握って届ける毎日でした。食べ物あっての宿ですから、農業や漁業の復興がないうちに観光なんてありえない。それにこのことがあってから、人の情けというか、前にいらしたお客さまが全国からいろんなものを送ってくださいます。もうこのままずっと避難所でもいいやと思うくらいです」
30人の避難の方たちは風呂掃除や配膳など自主管理している。他の体育館の避難所をたくさん見た目には、部屋はちゃんと天井や壁があり、近所の仲間と避難して静かな雰囲気が保たれ、お風呂にも入れるし、いいところだと思った。

 追分温泉旅館を避難所にしてしまったご主人の横山宗一さん。そこに最後の5箱を置かせてもらいました。30人の避難者が暮らし、一日300人にタダでお風呂をふるまっています。

追分温泉旅館を避難所にしてしまったご主人の横山宗一さん。そこに最後の5箱を置かせてもらいました。30人の避難者が暮らし、一日300人にタダでお風呂をふるまっています。

前にあった大内さん夫妻からも、ノアの箱船のように屋根に乗って漂流した人の話。津波が来るとわかってから元気な漁師が海の上のほうが安全だと舟を出して波を乗り切った話。浜ではみんなそれを見て泣いていた。首まで浸かった93歳のおばあさんが助かったけどカイロ何枚張っても温まらなかった話。御産寸前の人を助けた話。流された話はつらくてここに書けない。児童の7割が流された大川小学校の話も。「まあ夢であればと思ったの」「映画見てるみたいだった」。ため息をつくばかりである。お風呂に入って寝る。

*丸森の友人宍戸克己さんは消防署の幹部で、何を聞いてもすぐ答えが返り、適切なアドバイスをしてくれ、必要なところにすぐ電話をかけてくれた。やっぱり火事場で鍛えた人は違う。私が文京区役所に電話してもそうだが、事務職の公務員は、私の部署の管轄ではありませんとたらい回し、責任をとらず、大過なく事なかれで勤め上げるという感じの人が多い。そう言うタイプは避難所などではまったく役に立たない、という話を多く聞いた。

震災日録 4月16日―――相馬、山元、新地、丸森

2011年4月20日 水曜日

きょうから3日間、東北へ絵本とマンガ、大人用の本を届けにいく。
朝6時に編集者の滝川修さんがハイエースを借りて、7時に家へきた。最後の石巻への雨合羽(光源寺さん経由)、『古着でも何でも持ってきて』という北上町(いまは石巻だが広域合併でなにがなにだかわからなくなっている)の熊谷さんの言葉に甘えての古着を一番奥へ。箱の胴体にどこからいただいて何が入っているか書いておいた。
うらうらした土曜。東北道を安全運転で行く。那須インターで妹分の早川真理ちゃんと合流。
彼女は運転はできるし、地図は読めるし、東北中の道路を知っているし、機転はきくし、体はよく動くし。那須町のしごとを始めて間もないのでお願いするのは申し訳なかったが、どうしても来てもらいたかった。彼女のお知り合いも被災地にいるし。

絵本やマンガを積んで出発

絵本やマンガを積んで出発

今回は東京ではほとんど報道されない北福島、南宮城を重点的にくばっていく方針。
といって突然持って行っても断られる場合もあるとか。
相馬は馬の関係で知り合った川嶋舟さん(中村神社)がつないでくれるはずだったが東北道が通行止めになり、来られなくなった。

*はまなす館(避難民450人)に社協の只野さんを訪ねる。
支援物資の段ボールがものすごい量積み上がっている。避難者のいるところはホールで暗い。ボランティアなのか、大勢の若者が出入りする。本を読むような情況ではないなあ、と思いつつ、段ボールで運ぶ。『あ、ジャンプだ』と叫ぶ子あり。

*旧相馬女子高校は南三陸町から避難された方。
二回のキッズルームに置く。しかしここも明日には閉鎖。廃校だからいてもいいのだが設備が古く耐震性に問題あるとか。家に帰る人、飯坂温泉に第二次避難をする人と分かれる。子供たちは小さな教室の中で落ち着いて遊んでいた。絵本を渡す。

*よく遊んだ海のほうも見たいと思う。おいしい魚料理のたこ八や斉春も「中が抜けて」いた。家財は波に流されてがらんどう。土地の人は『死んだ』『なくなった』と言う表現を使わず『流された』といっていた。サイディングの金属がはがれちぎれて風に吹かれている。なんというか、町にはってある「ピースボート」のチラシみたいに。

山元町辺り、海まで何もありません

山元町辺り、海まで何もありません

*宮城県山元中学校
ここは素晴らしかった。渡辺校長が修了式の終わった3月11日から避難民を受け入れ校長室に陣取って一度も家に帰らない。浜の方から全壊・半壊で避難して着た順に教室に入ったが、そこでコミュニティが生まれ、その29の室長会議、そのほかに10人のヘッドクオーターをつくり、すべて自主運営。避難者が掃除も炊事もしていた。なんかなごやかな雰囲気で、それぞれ笛や津軽三味線や民謡や、特技をもちより他の避難者を慰めたり、部屋ごとに夜はこれからの町づくりを話し合ったり、次ぎの避難も部屋ごと引っ越したいといっているという。
あたたかい雰囲気の校舎建築もいい関係を生むのに一役を買っている。これからは災害時の避難所を視野に入れて学校を設計するべきかもしれない。本はさっそく校長先生がきれいに本棚に並べてくれた。学校だから児童書はあるので、大人の人が見にきた。
山元もおいしいピザのパピハウスがあったあたりの松林なぎ倒された模様。

*新地町役場(福島県)
枇杷温灸に丸森から通っていた荒先生に再会。生死を分けたのは第六感だという。本能的な直感と言うべきか。逃げる方向の選択とか、車を棄てるタイミングとか。ここら辺のひとも原発関連で働くひとが前は多く、作業員の体も多く診たという。
荒先生の紹介で新地町役場へいくと、部屋一杯に服、靴、毛布、靴下、洗剤などならべられ、被災者は持って行っていいことになっていた。「これから本も喜ばれるわ」「『ジャンプ』は本屋さんになかなか入らないし」と職員が喜んで受け取ってくれる。
釣師浜へはちかづけず。ここ出身の遠藤新の木綿の家がどうなっているか、確認したかったが時間がない。

丸森境界の鹿狼の湯へ。いつもは6時過ぎると800円が600円になるのだが、いまは一律500円。サウナと露天風呂は壊れていた。でも温かい湯につかれるだけでありがたく、次々客が来る。自衛隊の人も泊まっている模様。車でたちより湯に来た自衛官もチャンと500円払っていた。こういうところは中国と違うな。中国は軍隊や警官など優先的にただ飯だ。「3月中はうちも被災者はただにしていたのですが、主人が議員なもので、売名行為だなんて言われて」と奥さん。

*丸森町筆甫中学校
廃校のあとに南相馬からの避難者100人以上がいる。きた日は250人ほどおり、雪で寒かったとか。3人の職員さんがついて自主運営。「食材の調達が大変でしたがやっと軌道に乗りました」。山奥の小さな集落に避難して心細いだろう。明るいニュースは小学生が7名この春、全校生徒16人の筆甫小学校にはいり、過疎の小学校がにぎやかになったこと。お風呂はあるが、町営国民宿舎あぶくま荘がただで入れ、送迎もある。「本がきたのね」と被災された女性が「手持ちのは読み飽きちゃった。あそこの本棚を持って来てならべましょう」といった。

夜8時すぎ、友人の菊地宅へ着く。玄関まで迎えに来たひろしさんが「上がって上がって! おそいよ。天ぷら冷めちゃったよ」と。菊地家のテーブルにはところ狭しと、焼き鳥、サラダ、牡蛎の串焼き、天ぷらが並び、ビールで再会を喜ぶ。被災地に来てこんなご馳走を食べてよいものか。きょうは泊めてもらう。「いいんだ、支援隊の後方支援ができるなら」としのぶさん。ひろしさんは鄙にはまれなレストラン・緑山のオーナーシェフ。震災以来のいろいろを話し続けるが、ドライバーのタッキーと真理ちゃんはこっくり、バタンキュー。10時半には蒲団にはいる。

*きょう感じたこと。支援物資は大きいところへどっと集まる。私たちもまず子どもがたくさんいるところへ、とむかった。800人いるところに送れば効果的、役に立つと思うのはまちがい。小さくても必要としているところへ、がいい。

*毎日必要なものが変わる、というのも目で見るとよくわかる。下着が足りない、送ってというと、どっと集まって余剰になる。これについてはhttp://fumbaro.org

*岩手県などボランティアを断っていてひどい、と思っていた。しかし受け入れ態勢のない所(地元職員が人を使いなれてない所)へ行くとボランティアはうろうろするばかりで、避難所の落ち着いた雰囲気をこわしかねない。きのう東京から来て、今日は海のほうを見て帰る、というボランティアもいた。そういうごく短気なボランティアをどう使えるかもわからないが。
何かすることはないか、という指示待ちでなく、さっさと瓦礫の中からお位牌やアルバムなど失われてはならない記憶を拾って保管・整理している若いボランティアがいる。あとで効いてくる作業だろう。