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新内節・岡本宮之助の会「岡本流再興百と一年」なる催しが、2024年11月1日。四谷の紀尾井小ホールで行われた。
私は夏に足を骨折し、杖をついてでかけた。四谷の麹町口を出て、聖イグナチオ教会のわきを通る道は東京とは思えないほど緑が濃い。
文弥さんを継いだ岡本宮之助さんも60代半ば、私が1990年頃、谷中の文弥さんの家に聞き書きに通っていたころはまだ20代の美青年だった。かなり御髪に白いものも見えて,同様に年を重ねた自分を思う。ご祝儀の「宝船」にはじまり、平賀源内作の「嫩榕葉相生源氏(わかみどりあおいのげんじ) ばくち無間・湯ノ山の段」チャリ場「無間地獄」に引き続き、アナウンサーで古典芸能に詳しい葛西聖司さんとの対談があった。
「私のおばあちゃんが文弥の妹で」というのは四代目宮染ことせつ子さんのこと。その娘が羊子さん、そのまた息子が宮之助さんである。宮之助さんは「女の人には優しいですが、私には怖かった」という。私が初めて谷中の岡本文弥さんを訪ねたのは1987年頃、『地域雑誌谷根千』13号に、文弥さんのインタビューが載っている。その後、毎日新聞出版局の吉田俊平さんに頼まれて、谷中の小さなお住まいを二十数回訪ね、一冊聞き書きの本を作った。『長生きも芸のうち 岡本文弥百歳』。のちにちくま文庫に入ったが、今は絶版。
初めてお会いしたとき、私と師匠には59歳という開きがあった。33歳と92歳だと思う。文弥さんは孫のような私にやさしかった。「私が生まれたときにはまだ樋口一葉さんは生きていたんですよ」と師匠は言った。貧しくもけなげに生きて名作を物した一葉を文弥さんは尊敬し、新作をいくつも書いている。「花井お梅は母の友だちで、谷中の家にも遊びに来たことがあります」。花井お梅は箱屋の峰吉殺しで有名な芸者で明治の毒婦の一人に数えられる。そのほか、大杉栄、鈴木三重吉、渡辺政太郎、芥川龍之介、文楽に志ん生、いろんな人を知っておいでだった。
師匠に教わったことはたくさんある。
省みて栄華の日々を持たざりしわが人生を自画自賛する
という歌もある。これも好きだが、
春風やいっそままよのボンカレー
というのもある。文弥さんはカレーライス、いやライスカレーが好きだった。
「藤蔭静枝さんと共演したときに、彼女は出演料をさっとカンパしちゃうんです。あれはいけませんねえ。こっちは出演料でどうにか食べているんですから、そういうことされちゃ迷惑です」ともいった。それから私は市民団体に招かれたシンポで出演料をカンパするときもみんなの前でなく、あとでそっとわたすようにしている。
「富山に流しにいって、駅でずっしり重いお土産をいただいた。やれ嬉しや、と開けるとお弁当ではなく、富山名物の硯(すずり)。がっかりしましたねえ」これも思い出すセリフ。
相手はよかれと思って、「お荷物になりますが」と名物のこけしとか羊羹とかくれるが、旅の者には荷物が増えるだけでほんとうに迷惑。
そんなふうに、文弥さんの話には、人生折々に思い出す言葉が多い。
「文弥は死にたくない人だったんですよ。まだまだやる仕事があると思っていた。かと思うと、お客が私(宮之助さんのこと)を褒めるとなんだか焼き餅を焼いたりして、生涯、現役の競争心を持っていた」と宮之助さん。
もう一つ、思い出す。
「70になったとき、生きているのが嫌になって、仕事にも身が入らない。あのとき人民中国との文化交流団に選ばれましてね。それで何年かいった中国の芸のすばらしいこと、それで生きる元気をとりもどしましたね」というのも、今まさに70の私には切実だ。なんとなく元気が出ず、人生の目標がなくなったような感じ。これを老いというのか。刊行時には何気なく読み過ごしていたところ、こんな風に、かつて書いた本も年を経て気づきがある。
岡本派再興についても私はろくに触れてはいない。あたかも1923年は関東大震災の年、その稲元屋呉服店の二階にあった震災前の4月に、根津の哥音本(かねもと)という席で、岡本派の再興をしたようだ。しかしその寄席は数ヶ月後、震災で倒壊してしまった。
宮之助さんは「明治28年生まれの文弥から、昭和35年生まれの私に直接、藝は伝承され、途中で変化していないのが、岡本派の特徴です」ともいっていた。最後の演目『行倒れ淀君』は文弥の新作、岡本派を盛り上げた岡本宮子という女芸人の哀れな末路を描く。老後に身より頼りもなく、貯金もない女性をいま周りに多くみる。人ごとではない。
江戸にはじまった新内の藝が、こうして古典を踏まえつつ、文弥の新作も継承する、すばらしいことだと思う。岡本文弥は101歳で亡くなった。それで岡本派再興も101年記念というこれも江戸っ子らしい粋な計らいだ。(敬称略)
2024年11月25日 森まゆみ
ご報告。
今年11月2日から9日まで千駄木の旧安田楠雄邸庭園で能登を応援!「七尾一本杉通り 花嫁のれん展」が開催されました。
花嫁のれんとは、国登録有形文化財「七尾の嫁暖簾」の事で、幕末から明治にかけて能登、加賀、越中地域で始まった風習です。花嫁が婚家の玄関先で実家と婚家の水を合わせた盃を飲み干し、仏間入り口にかけられた花嫁のれんをくぐって仏壇の前でご先祖様に挨拶をするというもの。この後に結婚式が行われます。
こののれんは松竹梅や鶴亀などのめでたい絵柄で、実家の紋が染め抜かれ、娘の幸せを願う両親の気持ちが込められて、一つ一つに物語があります。結婚式で一回使われると、各家の箪笥にしまわれるのはもったいないと七尾の一本杉商店街で5月のゴールデンウィークに展覧するようになりました。七尾と交流が出来た森が、東京でののれん展開催の場所探しを頼まれ、コンクリートのビルの会場より和風邸宅の方がいいのでは、2008年、旧安田邸を会場として「花嫁のれん展」(七尾商工会議所主催)が実現しました。
その際、主催者からたくさんの寄付を頂き、それ等によって安田邸応接間の椅子を修復することができました。そのころ、谷根千スタッフはまだ谷根千91号の編集作業をしながら、展示のお手伝いをしたのでした。
現在、仰木は日本ナショナルトラストの所有する旧安田邸の維持管理のマネージャーです。本年1月1日の能登大地震で旧安田邸のボランティア一同、何かできないかと考え、6月に石川県七尾市を訪れ、準備を始めました。今回、明治から令和までの花嫁のれん11点をお借りして飾ることができました。9日間で1400人以上の方が来館。募金箱にも寄付が寄せられました。蠟燭や醤油、暖簾柄の眼鏡拭き、和菓子、七尾の物産販売も好評。七尾の女将さんたちも「声をかけてもらったときは、まだまだ大変な時だったけど、まんでまんで応援してもらっとることで元気が出たんよ」と言ってくださり、長い9日間が終わりました。
来年の5月は七尾に百数十枚の暖簾を見に行きたいと思っています。
旧安田楠雄邸に飾られた能登七尾の花嫁のれん
1998年に作られた比較的新しい花嫁のれん。
家紋は「五瓜に方喰(ごかにかたばみ)」、絵柄は「尉と姥(じょうとうば)」
2024年11月27日 仰木ひろみ
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