2011年10月 のアーカイブ

震災日録 10月14日 福島県産の米

2011年10月20日 木曜日

世田谷の放射線量の以上に高いところが見つかったのは、福島原発のせいでなく、そこの屋敷になぜか古い放射性物質があったかららしい。人騒がせな。でもこまめに計ったらこんな場所がたくさんあるのかも知れぬ。こわいねえ。
福島県知事はきのう県内すべての米は基準値以下だったと胸を張ったが、1キロあたり500ベクレル以下などという大雑把で高い基準をクリアしたからって食べる気にはならぬ。数字を公表すべきだろう。うちは丸森の森ガーデンから新米を送ってもらった。セシウムだけでなく、残留農薬はじめ細かい項目が2ページに渡って調査済であってすべてND。これでこそ安心して食べられるというものだ。この米、じつにうまい。母、妹、弟のところにも5キロずつ分けた。そしたら山形の長井の菅野さんもお米を送ってくださるというので、嬉しく、こちらは玄米でいただくことに。3人で1日2合ずつ焚くと、だいたい2週間で5キロはなくなるのだ。

秋深し隣りの米はどこの米

震災日録 10月13日 大安亭商店街

2011年10月20日 木曜日

神戸市のコミスタとか言うところで生涯学習の講演。行ってみると体育館に300人もの方が見えていた。与謝野晶子とシベリア鉄道について話す。近くに大安亭商店街といういい感じの通りがある。元になった大安亭という劇場はもうないのだそうな。神戸でも震災にならなかったところはあるんだな。こんな所に住んでみたい。なでしこジャパンの合宿所が近く選手たちはここで買物をしていたそうだ。隣りが賀川豊彦の記念館。徳島でも記念館を見たがずいぶん前。神戸で成人し、大正の震災で東京の中之条、大平あたりで被災者支援や貧民街の改良に取り組んだ。こんなえらい人とは知らなかった。

震災日録 10月12日 神戸へ行く

2011年10月20日 木曜日

神戸へ。宝塚近くのフルーツ・フラワーパークへ行く。神戸市がつくったハウステンボスのまがい物みたいな施設だが、ホテルのバイキングときたら前代未聞のまずさだった。サービスもひどい。庶民がやっている店の悪口は営業妨害になるので書かないが、税金を使ってこんな食事を出しているところは見たことがない。1時すぎにいったらほとんど何もなし。げっぷがでるような揚げ物が多い。これで神戸市の文化度を測られるとしたら、私が市民なら憤死しちゃうな。バブルの遺産でいまやお荷物なのであろう。夕方、絵描きの友だち太田さんと涌井さんと元町の庶民的なカレーライス屋さんに行って口直し。なんだかどっとつかれた。

震災日録 10月11日 神楽坂

2011年10月20日 木曜日

夜、神楽坂で来年、三遊亭円朝の長い作品全段に取り組むという古今亭志ん輔師匠夫妻と平野甲賀・公子夫妻といろいろ話す。なんとも楽しい夜だった。

震災日録 10月10日 イスラムの人々の被災地支援

2011年10月20日 木曜日

午後、東京大学弥生講堂でムスリムの方たちの被災地支援のシンポジウム。20分の話を頼まれたのに全部で5時間。行ってみてわかった。途中、ティーブレイクがあり、ゆっくり話し合う。名刺交換や写真撮影、中にはお祈りをする人も。それに決められた時間より長く話す人がいる。質問したい人が多い。それで長くなる。あんまりカメラのフラッシュが炊かれすぎで目が痛くなった。池袋のパキスタン料理店で打ち上げ。
エジプト国籍のロンドン在住の先生が話すが、日本人と全く違う断定的な力強い話であった。日本人は遠慮の塊だ。控えめ、謙虚、断定を避ける、どっちがいい悪いではないが、いろいろ考えるところがあった。
男女席が別々なのでイスラム圏の人と結婚した日本人女性などに話を聞いた。ムスリムは豚を食べないのはどうして?「それは神様が決めたことで理由はありません」お酒があきらめられないからなあ。「天国では大変おいしいお酒の川が流れています。そのときに飲めばいいのです」。それでも煙草は吸いますね。「本当は煙草もいけないんです」。何時も女性は長袖で頭にも被っています。「顔と手先しか見せてはいけないのです」。暑くありませんか。蒸れませんか。「なれればこんなものかと思います」いつも男女別に坐るんですか。「そうです」。男性同士は抱き合ったりしますが、女性はあれはできないんでしょうね。「そんなことをしたら大変です」。イスラム圏の男のひと何か問題は?「時間にルーズということかしら。のんびりしています」。いろいろわかった。「森さんはなぜムスリムになりませんか?」。まだ知り合ったばかりで誤解を解いている段階です。

震災日録 10月9日 岡本文弥没後15年祭

2011年10月20日 木曜日

NHKの人からイスラムの被災地支援について番組を作るのだが、初期のころの活動の記録がないので、おにぎり握り隊そのほか貸してくれと言ってきた。ウーム、またかと思ったがマザーテープを貸してあげた。今日、せっかく提供いただいたのですが、レポートが短くなったこともあり、使わなかったとメール。ウーム、またか。
夜は岡本文弥没後15年祭。上野奏楽堂立錐の余地なし。きのうからテープを聴いて準備万端しただけに最近になくちゃんと話せた。秋草のようなオトコと言われたい、と文弥さんはいっていた。あの夏、わたしは男は文弥1人でいいとさえ思いつめた。今日、母は昔のボーイフレンドと来てくれた。その上、永六輔さんや朴京南さんも来てくださって、帰りに根津で永さんにご馳走になった。いいんですか、という私に「上を向いて歩こう、がいま売れてますから」と永さんは仰ったが、もちろん私に気を使わせまいというやさしさ。でも、たしかに震災後、この歌を口ずさむことは多いなあ。

震災日録 10月8日 冬へ向う被災地

2011年10月20日 木曜日

秋の一箱古本市と芸工展を観に行く。団子坂のエスプレッソファクトリーから見る団子坂はいい。道灌山から見る動坂方面もいい。
被災地はだんだん寒くなってきている。石巻の避難所はようやく閉鎖になったようだ。
いわきでは仮設住宅には日赤から5点セットも配られたし、炬燵やストーブの配布があるが、一般の斡旋住宅にはいった人にはない。これも格差だと思うが、光源寺からは毛布、バスタオル、タオル、炬燵、ほっとカーペットなどを集めて送るという連絡があった。

震災日録 10月7日 被災地の話

2011年10月20日 木曜日

昼、福祉協議会の人が来る。陸前高田、大槌町、南三陸などに支援に行き、涙なしでは聞けない話ばかりだったと言う。この春、学校に上がる女の子がランドセルも何も用意してあったのに津波で流された。なかなか見つからず、やっと見つかったのが上がるはずだった小学校の校庭だったとか。おばあさんが一晩中、高校生におぶわれて高台に逃げ命を拾った。だけどヘリコプターで年齢順に救出されるときに離ればなれになり、その後お礼を言いたくても言えないでいる、とか。

震災日録 10月6日 居住の自由

2011年10月20日 木曜日

谷中コミュニティ・センターのことでいろんな人に会う。なんで町会を通さずに意見を言っていけないのか、民主主義者としてはわからない。
今回の震災でコミュニティの大切さばかりが強調されているが、むしろコミュニティが抑圧的に働いたことの方が大きかったのではないかと、あまのじゃくの私は考える。
フクシマの水素爆発、あれは核爆発だという人もいるが、あのときアメリカ大使館などは80キロ圏からアメリカ人を退避させた。日本という国家もそうしていれば、今のようなこと、そして5年後に起こるであろうことは防げたと思う。牛だって馬だって放置せずに山を越えて山形県や新潟県に非難させればよかったのだ。福島の人々はそれからも逃げていない。家族がばらばらになるのはいやだ。ふるさとからはなれたくない。まわりの人に逃げたと言われたくない。老母を置いて行くわけにはいかない。これだけ手をかけて改良した農地なのに。すべてわかる。よくわかる。しかしそんな愛郷心が子供たちの未来の生活に影を及ぼすとすれば……。ノマドとなったほうがいいのかも知れない。
自分が逃げないことを選んだなら少なくとも逃げた人の悪口は言わないほうがいい。日本国憲法は居住の自由を認めているのだから。

震災日録 9月25日 丸森

2011年10月3日 月曜日

きのうのうちに丸森へ来て、なつかしい佐藤岩雄さんや緑山の菊地しのぶさん、ひろしさんと会った。今回は放射線値の話に終始した。やはりいま丸森の方たちが悩んでいるのはその問題で避けて通れない。役場前のコンクリートの上で計ると0.14。これは東京団子坂下で友人杉田望さんがはかっているのと大差ない。しかしある中学校では0.66、ある児童館では0、53、ある地域センターでは1.07といった数字も出ている。最後の数字に24時間x30日(ひと月)x12(ヶ月)かけると、この数値のまま戸外にずっといるとすれば、外部被曝だけで年間8ミリシーベルトくらいになる(政府の許容量は年間1ミリシーベルト)。みんなほとほと困っているらしい。
「牛の糞なども堆肥にしかね、おいてはあるがどう処分していいかわからない」「牧草からセシウムが出たので、外国産の草をわざわざ買って与えているが、自分のところの牧草はまいておいておくしかない」「校庭の除染をしてもその土は集めて青いシートをかけておくしかない」「東京電力本社へ持っていけ、なんて言っているひともいる」
処分に困っているのは使用済み核燃料だけではない。「日本はおわりですよ」そう思いたくないけれど、東北へ行くとサルトルではないが出口なし、という感じがする。

震災日録 9月26日 ロンゲラップ
急に秋です。冷えて夜中に毛布をかけました。そろそろ衣替えもせねば。部屋を整理していたら石川逸子さんからいただいた『ロンゲラップの海』の美しい小冊子が出てきました。

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ビキニから180キロ離れた
ロンゲラップに
さらさら 雪のように降りつづけた
白い粉
死の粉ともしらず その粉を競って集め
無心に あそんでいた 子どもたち

退去命令は58時間後だった
おれたちは人間モルモットにされていたのだ
いや 3年後
「安全宣言」されての帰還も
その一環だったとは!

ようやく故郷の島にもどって
はしゃぎ 踊った ひとびとの姿が
昨日のことのように甦る
「なんといってもおれらのヤシガニは最高さ」

あのとき ようやく
先祖伝来の暮らしにもどれた! と安堵した
まさか 魚も ヤシの実も
死の魚 死の実に変わっていようとは!

体内にとりこんだ放射能によって
ひとびとは やがて つぎつぎ 死んでいった
老人の息子 レコジも
ジョージも 妻のミチュワも 死んでいった

1985年 ついに ひとびとは 
ロンゲラップを脱出する
先祖伝来の暮らしを捨て   
墓を捨て
思い出を捨てて

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まるでサーガのような長い詩です。少しだけ引用させていただきました。これと同じことがいま日本でも起こりつつあるのではないでしょうか。