2016年8月 のアーカイブ

筆まか勢

2016年8月18日 木曜日

2013年の秋から「神宮外苑と国立競技場を未来へ手渡す会」の運動を始めてしまい、私としては不慣れなフェイスブックやツイッターを、状況の告知や賛同者を増やすためにも使わざるを得ませんでした。そのため、ブログを書く暇が持てず読んでくださった皆様には、本当に申し訳ありません。環境に負荷の大きい旧案を白紙撤回させたことは喜ばしいことでした。しかし、神宮外苑の木はすでに2000本も切られ、今も巨大競技場の建設は進行中です。
一旦、運動に区切りがつきましたので、これからまたブログも書いていきますが、これからは書きたいことがある時に書くということにしたいと思います。
お詫びを兼ねてこの間のフェイスブックから、少し長めの記事を拾ってご紹介します。

〇特急の遅れについて。2016年8月1日

2016年8月18日 木曜日

今日、夜5時40分のスーパーあずさで小淵沢から新宿へ帰る予定でした。「岡谷=塩尻間が豪雨のため列車の運転を見合わせております」とのアナウンス。天災だから仕方ないと大人しく待っていましたが、ホームに駅員は来ません。みんな寒いし、雨が降りかかります。私は87歳の母にできるだけ服を着せて、まともなアナウンスもないので、駅員室に行きました。
雨もかからない安全な場所で駅員たちはむやみと右往左往していましたが、不鮮明なアナウンスをするだけでホームには誰も来ません。ホームに待合室はないのですか?「先頭にありますが、エアコンが入っています」切ればいいでしょ。今日中に新宿につかないこともあるんですか? 明日お葬式があるのですが。「なんとも言えません。なんの情報も入ってこないので」小海線で小諸経由、新幹線という選択肢はないんですか? 「わかりません」小淵沢から高速バスもあるようですね。「こちらはJRなのでバスのことはわかりません」
1時間待って、普通列車が来ました。やっと駅員がホームに来て「これに乗って甲府まで行けば始発のかいじがあります。特急券は払い戻しのはんこをおします」じゃあ、どうやってかいじに乗るんですか?「かいじに乗ってから車掌にお尋ね下さい。特急券の買い直しになります。」その駅員はハンコを押す朱肉をパニクって3度も落としたので私は拾ってあげた。
甲府駅では、私たちの乗るべきスーパーあずさが2時間近く遅れてくるらしい。そしてカイジより先につくらしい。それで乗り込んで、正当な指定席に座るとアナウンス「この列車では車内販売はありません。甲府で降りてしまいました」爆笑するしかなかった。車掌は一度も来ない。新宿駅に着いたのは2時間4分遅れ。着いたホームの反対側からお茶の水駅に着いたら、聖橋口には駅員がいない。乗降客は多いのに。やっと探してきた。「2時間以上遅れた場合のみ返金しますが、2時間遅れたかどうか、わかりませんので問い合わせ中です」
このコンピューター時代に君は何をやっているのかね。
「2時間4分の遅れだと確認が取れましたので、証明書を出します。緑の窓口が空いている時間に払い戻しをしてください」そっちのせいで緑の窓口がやっていない時間に着いたのですよ。うちから緑の窓口のある駅は遠いんですよ。ここで返金するか、駅まで行く交通費を出してください。と押し問答の末、「御茶ノ水橋の方の改札に行ってくだされば返金するそうです」ということになり、疲れ果てた老母を連れて、やっとの事で返金させた。駅ねっとのカード決済で買ったのなら、そこに返金すればいいじゃないですか?「そういうことはしておりません」といった駅員3人とも、「不手際で申し訳ありません」とは言わなかった。危機管理能力ゼロ。そして未だに国鉄。

〇伯母、近藤富枝死去

2016年8月18日 木曜日

伯母が亡くなりました。94歳になる手前でした。
母方の生まれた家は錦物問屋、日銀のあたりで商売していたとか。本家の長男水島三一郎は学者になって家を継がず、分家の当主水島亀之助は昭和恐慌で没落しました。そのため一家離散、母と伯母は一緒に育っていません。伯母は祖父母に育てられ、東京女子大を卒業後、文部省で教科書を編纂していました。伯母がのちに「王朝継ぎ紙」を復活させようと展覧会を開いた時、同級生が激励に来ました。中央公論の島中夫人、岩波書店の岩波夫人、城塚登夫人、福田恒存夫人などが同級生でした。そして瀬戸内寂聴さん。
伯母に連れられ、「青鞜」をテーマにした舞台を見に行き、出家なさる前の瀬戸内晴美さんに紹介されたことがあります。
伯母は戦時中、男のアナウンサーが払底したので、NHKに移って、天皇の玉音放送の時は、その場にいたと言います。空襲の中を通い、陸士の軍人だった伯父と結婚しましたが、戦後は軍人に仕事がなく、千葉で農業をしたり、田端で毛糸屋をしたり大変でした。家庭を捨てて作家になった瀬戸内さんを羨ましく思いながら、伯母は防衛庁戦史室に務めた伯父について転勤をし、子供二人を育てました。「私の8月15日」という朝日新聞の随筆募集で一等となり、昭和40年代は婦人雑誌のリポーターとなって活躍。着物を着て炭鉱事故や飛行機事故の取材に行きます。「飛行機乗るのが怖くて、どうしよう」という電話がかかっていたのを思いだします。
伯母の大学時代のノートを見たことがありますが、十二単を自分で描いて彩色したり、ものすごい勉強ぶりでした。一家離散した姉妹は長じて出会い、親戚づきあいも濃くなり、伯母は自分に似ている姪として可愛がってくれました。鎌倉の谷戸にある不思議な家を見て、私が「かくてもあられけるよ」と言うと「徒然草だね」と手を打って喜びました。万葉や源氏や文学は伯母に教わりました。母は歯医者でもっと合理的な考えをする人でした。
私は政治学に進み、伯母は生涯文学にどっぷり浸かって、耽美派でした。最初に書いた本が「永井荷風文がたみ」というので、荷風命でした。それから水島家と親戚にあたる「本郷菊富士ホテル」を書き、それが評判を呼んで「田端文士村」「馬籠文学地図」を書き、文壇資料三部作として今も中公文庫で生きています。他にも地味ながらいい本をたくさん書いたのですが、文壇に属さず、本人も「偉い人のお髭の塵を払うのはやなこった」という江戸っ子気質のため、エラくはなりませんでした。でも好きな着物について書き、東本願寺三十六人集に感動したことから王朝継ぎ紙を復興させ、自宅で源氏物語を講義し、武蔵野女子大の教授を務め、弟子たちに囲まれ、幸せな人でした。昨年、昭和の生き証人として13回もテレビで戦争の悲惨を語ったのが、晩年の花でした。
今年の2月に私が伯母の話も聞いておこうと、ビデオを回した時はまだ元気でしたし、長患いもせず、苦痛なく旅立ったのは羨ましい限りです。「一葉のきもの」という本を共著で出せたのも嬉しかったですが、その時も着物や髪型、装飾品、下駄に至るまで、伯母の知識に太刀打ちできませんでした。その知識の受け売りで、私はBritish Columbia、ミシガン、オーバリン、南カリフォルニア大学で講演して回ったのですからいい気なものでした。その時の編集者、渡辺史絵さんがその後も、伯母と付き合って10冊近い本を河出書房新社から出してくださいました。「着物で読む源氏物語」はじめ、名著だと思います。皆様のご厚情に感謝します。
王朝継ぎ紙は娘陽子、武蔵野大学での仕事は姪の堀井恵子、文筆業はまゆちゃんが次いでくれるのよね、と伯母は言いましたが、資料の集め方、文章の書き方を教えてくれたのは伯母でした。極貧の中で子供を産もうか生むまいか迷った時「産まないで女性史なんかできない。子供は小指1本で育てなさい。そして後の9本で仕事をするのよ」と励ましてくれた伯母を忘れません。
追記 1、NHKには男たちが戦地から帰ってきたら女はいられる雰囲気でなかったそうです。守らされるのは銃後だけ。
2、おじ近藤新治は「うちの夫はどこで亡くなりましたか」という問い合わせに防衛庁戦史室で答え続けた人です。のちに土門周平の名で文章も書いたリベラリストです。「朝まで生テレビ」で政治家たちの甘い主張を軍史家として反論しました。
3、伯母は私などよりはるかに文学、美術、建築を愛していた文学者です。朝の「連ドラの主人公」という訃報には憤りを覚えます。
文壇三部作、「花陰の人」で矢田津世子を見出し、「鹿鳴館貴婦人考」は維新の顕官の妻は旧幕臣の娘という仮説を立てました。これは山田風太郎さんより先です。縁あって母校東京女子大の土地を譲られ、信濃追分に家を持ってからは立原道造に入れ込んで「信濃追分文学譜」を書きました。晩年では「きもので読む源氏物語」「荷風と左団次」は大変良い本です。

tomie_kondou_right

〇私の新刊「昭和の親が教えてくれたこと」大和書房 1500円

2016年8月18日 木曜日

今日はなんだか寂しくて、雨の中をまりちゃんのところにおしゃベりに。
岡山の黄ニラのそうめん、美味しかった。バジル入りのサラダも塩麹漬けの豚焼きも美味しかった。
あ、今、蚊をたたこうとおもったら五十肩、ぎく。
ハムスターがいるんで、蚊取り線香炊けません。いい1日。
可愛がっていた子がハムスターを置いていってそれきり会えなくなりました。タンという名前で、前にはハツとかカシラというハムスターを飼っていたそうです。早速「ハムスターは1、2年で死ぬから覚悟を」なんて言ってくる人がいますが、子供たちの小さいときハムスターは何度も飼いました。といか、犬や猫はとても飼えなかったのです。日中寝てばかりいて夜中になるとガリガリ大暴れ、運動が必要で、水気が必要です。
さてようやく、今年になって初めての本、「昭和の親が教えてくれたこと」が大和書房から出ました。南伸坊さんが素敵なイラストをたくさん書いてくださいました。親が教えてくれたたくさんのことが私のところでストップしている。子供たちに伝わっていないっということから書いてみました。心のしみついていることわざや、下町の言葉、山手の言葉、戦争だけはしちゃいけないというみんなの口癖。説教臭くならないようにしたつもりですが、森さんも保守的になったなあ、と言われるかも。私は就寝や道徳を国家に押し付けられるのは嫌ですが、家庭のしつけは大事だと思っています。ぜひお読みになって感想をください。また私はこんなことを親に教わった、という体験談もぜひ。

shinkan_shouwano

〇「惜櫟荘だより」岩波書店

2016年8月18日 木曜日

もう文庫本になっているらしいけど大変良い本です。時代小説でベストセラー作家の佐伯泰英さんが、たまたま求めた別荘の下に、すごい建物が売りに出ていた。その学術書の岩波書店の創業者の別荘を買って修復することになったいきさつ。ご自身のがん。昔闘牛などの写真家であった頃、作家堀田善衛さんの運転手をしていた頃の思い出などが混ざり合い素晴らしいエッセイです。堀田夫人に「佐伯」なんて呼び捨てにされてこき使われたりね。もちろんこの別荘は吉田五十八の作品。その番人を自称する佐伯さんの謙虚な思いと所々に出てくるクールでコモンセンスに溢れるお嬢さんの姿が好感持てます。何か賞とっても良かったはずのエッセイ。あ、これで建築学会文化賞をお取りになったのでした。

sekirekisou

〇今年の誕生日。7・10

2016年8月18日 木曜日

今年の誕生日は参院選当日でした。またフェイスブックではたくさんのお祝いのメッセージをもらいましたが、私はあまり人の誕生日をお祝いしません。なので申し訳ないやら重荷なので、フェイスブックから誕生日の情報を消しました。冥土の旅の一里塚ですものね。不在者投票をして京都へ抜け出していましたら、いちにち遅れの誕生日会を京都の奥、鞍馬の奥の美山でしてもらいました。それがサプライズもいいとこ。暮らすように泊まるかやぶきの一棟貸し施設をやっているのは、地元の若手のかやぶき職人です。カウンターでお寿司を握ってもらいました。握ってくれたのは、「きぐすりや」という昔薬屋さんだったに違いない料亭の若旦那。美山には国の伝統建造物保存地区があり33棟の茅葺があり、そこにはアーティストも多く住んでいます。しかしそこにはちゃんと専属の茅葺職人さんがいるそうで。そこで伝建意外に散財する茅葺のお世話を始めました。すると持ち主から滅多に使えないからどうにか活用して欲しいとか、維持費ばかりかかるという悩みの声が。そこでこれをお借りして、建物に手を入れながら、活用する道を考えて、お宿にしたのだそうです。コンセプトはふとん&朝ごはん、暮らすように泊まる。
建物を取り、景観を守り、技術を守り、雇用を守り、ゴミを出し、地元にも還元するすばらしい里山ビジネス。
今回の京都滞在も盛りだくさんで、北白川あたりを建築巡りしたり、京都工芸繊維大学の松隈洋教授の前川國男に関する授業を聞きに行ったり、同志社大学にベーシックインカムについての講演を聞いたり、その上、鞍馬の川床と鴨川の床にデビュー。近くのお寺の手作り市でちりめん山椒や麻のブラウスを買ったりと、本当に楽しい滞在でした。竹茂楼という高級料亭にもお誘いがあり、行ってまいりました。

hb

〇「暗い時代の人々」亜紀書房ウェブ 「あき地」をお読みになってください。

2016年8月18日 木曜日

暗い時代の人々 – 古在由重と唯物論研究会(上) | ウェブマガジン「あき地」
参院選と誕生日が重なってしまうなんて。選挙結果がおそろしいですが、抵抗の手段はまだあります。
昨日、丸山真男と古在由重の対談を読んでいて、戦前、無産政党がいくつもできて、お互い誹謗中傷しあって、統一戦線ができずにみんながうんざりするところが出てきました。今と同じだな。
東京選挙区でトンデモ候補を担いだ社民はもうおしまいです(もうとっくにおしまいになってるか)。
特攻隊の青年を「モッタイナイ」と書きましたが、同じようにもったいなかったのは、侵略戦争に反対するため自覚的に戦って、虐殺された岩田義道、小林多喜二、獄中死した戸坂潤や三木清です。特攻隊賛美をよく聞くのに、こちらは忘れ去られているかに見えます。それで亜紀書房のホームページ「あき地」に「暗い谷間の人々」について書いています。読んでいただければ嬉しいです。
他に反軍演説の斎藤隆夫(ゴルゴ13じゃないよ)、山川菊栄、竹久夢二、山本宣治、フランソワと土曜日など書きました。
最近は山宣のファンです。性科学者というのが前は解せませんでしたが、今はわかります。彼は労働者の学習会の講師を務める中で、いかに多産多死に、貧乏人の子沢山に、苦しんでいるかを知り、避妊法を普及したいと思った。日本は少子化ですが、資源を考えると、これでも人口は多いと思います。三人も産んですみません。
歳を自覚しつつ、ゆったりと老いていく……。
そうしたいです。このパソコンも古くなってすぐ、作業マークが出てきちゃうんですが、まるで自分みたい。あれこれ一緒にやろうと思うとすぐ混乱して、パニクる。はい、再起動して、一つずつ片付けます。これから京都。走って行って新幹線に飛び乗るのはやめて、トランクはエレベーターに乗せて、慎重に歩きます。

〇ワセドキュで、ドキドキ

2016年8月18日 木曜日

私は早稲田大学ジャーナリズム研究所の特別招聘研究員を務めております。日本の優れたジャーナリストのほか、マーティン・ファクラーさんやジャン・ユンカーマンさんも同僚です。さて、ここで大学の持つ小劇場、早稲田どらま館がタダで借りられるので、若い人に優れたドキュメンタリーを見てもらおうと、いうことで、六月末から七月頭、私も企画実行委員として毎日通いました。以下のドキュメンタリーが上映された。

6月30日
樹木希林さん登場。東海放送製作、戦争を考える各局の6本のドキュメンタリーを軸に、樹木希林さんが旅をする。
満州の日本人残留孤児、日本に残留孤児となったアメリカ人、戦後抑留して帰ってみたら家も土地もなくアカと言われ、また開拓、特攻隊に行った自由主義者、沖縄で最初の捕虜はその後日本軍に処刑される……戦争は庶民にいいことは一つもない、それが父母の口癖でした。
知覧の特攻平和記念館(これって形容矛盾だけど)、よく考えて、素敵な若者たち……「もったいない」と希林さんが漏らした言葉はそのまま私の気持ち。
明日も続きます。明日からは原発がテーマ。
それこそ人数が少なくてもったいなかったけど、各局ディレクター、「日本の原発」の木村結さん、なんと平松洋子さんもいらしてました。
一階のクレープ屋さん、隣の油そば屋さんも美味しい。キッチン南海もあります。でも久しぶりに行くと早稲田も変わったなあ。懐かしい麻雀早苗の一階がおしゃれなカフェになってた。

7月1日 古居みずえ監督をお招きして「飯館村の母ちゃんたち」
私が畑をやっていた宮城県丸森町から5キロ行くとそこが飯舘村。
福島原発からはかなり遠いのに、風に乗って流れた放射性物質のため、ここはホットスポットとなり、全村計画避難地域になった。
そこに暮らしていた菅野栄子さん、菅野芳子さん、親戚の二人の仮設住宅での支え合う日常を描く。
近くに畑を作り、長い百姓の技術を生かし、成果物をよく食べ、凍み餅や味噌作りを遠くまで教えに行ってついでに飯館村の現状を語る。栄子さんはしっかりした考えを持って、発信力もありよく笑う。
おとなしくて優しい芳子さんもそれにつられてにっこりする。
でも心の中では血を流し、泣いているに違いない。
阿武隈のなだらかな山並み、青い空、そこで暮らし、死んでいけると思っていた安らぐ大地が放射能に冒され、埼玉の避難所で芳子さんの舅・姑は亡くなり(原発関連死)、栄子さんの子供も孫も新潟に避難してバラバラ。
国家がとった間違った政策で生活をズタズタにされ、帰るあてもない住民。一昨日見た、満州移民、残留孤児、混血児、特攻隊、すべて同じ構図。
6000人いた住民がいなくなった村では今6000人以上の作業員が除染を進め、数千億かかるという。「みんなで村に帰る」という村長の考えは正しいのか? 除染は可能なのか? 4年間通い続けて暮らしを描いた古居みずえ監督に拍手。
欲を言えば、私には懐かしい飯舘弁は見る人にわからないだろう。
女性でも「おれ」「こいつ、食うか?」と言い、「おらほ」「わがい」は「私の家」「じゅうねん」はエゴマのこと、食べると10年命が延びる。少し字幕でサポートしても良かったと思う。
伊達東の仮設住宅とふるさと飯舘の距離も補ってほしい。松川の仮設ってどこにあるのか、その距離感が大事だと思う。
あと、飯舘の大豆で味噌作りをするところ、これは2010年収穫の放射能に汚れていない豆だと思う。ちょっと補足がほしい。福島県の農産物が売れない、それは悲しく悔しいことだ。でも「食べて応援」もまた問題の解決にはならない。このような原発事故の補償をちゃんと東電にさせる。二度と事故が起きないよう、故郷を追われる人を出さないよう、選挙で、原発政策を推し進めた政党に鉄槌を下す。今熊本あたりで地震が起こっているのに、原発を止めない連中を落とす。それしかありません。

自分の締め切りがあるので、すでに見た亀井文夫「生きていてよかった」「流血の記録砂川」は見なかった。

7月2日15時より「プルトニウム元年」3、広島放送、1993年
これもすごかった。浜岡原発で働いていた島橋伸之さんは出血しながら死んでいった。ご両親の無念、しかし彼の放射線管理手帳には異常なしが並ぶ。架空の医療機関のデタラメ検査。広島原爆の後のABCCの隠蔽とそっくり。疫学調査のデータを集めながら、それは被曝者を助け、治すことには使われなかった。
本作品は原発の問題に真正面から取り組んだ極めて珍しい作品として「地方の時代映像祭」のグランプリを受賞しながら、その後、中国電力の「スポンサーを降りる」という圧力により、ディレクターや部長は営業に配転、番組制作には関われなくなったそうだ。
ハイビジョン特集「ヒロシマの黒い太陽」2011、渡辺謙一監督
原爆開発の歴史をたくさんの映像や証言で追っていく。アインシュタインの原爆推進、イギリスも原爆製造を狙っていたがロンドン空爆などで余裕がなくアメリカに研究成果を譲渡、アメリカはオッペンハイマーをトップに、秘密裏に原爆製造を遂行、ウランはベルギー領の植民地から、アメリカの産業からはヂュポン社やモンサントが協力、日本でいよいよ使うことを決める。投下翌日のアメリカの新聞に「10万人のジャップを殺す」という見出しがあったのには驚いた。大戦後の対ソ政策もあり、トルーマンは原爆投下を指令したが、これは人道的でないと止めさせようとした科学者やもいたし、フーバー元大統領も批判。戦後、意気揚々と本人が本人を演ずる「原爆製造映画」まで取られていたとは・・・
後者は政策トップのエリートの動きを膨大な資料をつなげて見せていて勉強にはなったが、なにぶん情報量が多くて一回見ただけでは頭に定着しない。内容を活字にしてほしい。前者は、普通の人々の苦しみがインタビューで出ていて映像ならではの作品。好感を持った。映像にしかできないこと、活字ができること、いろいろ。

7月3日、日曜日
3本の優れたドキュメンタリーを見た後で、ディレクターたちと金平茂紀さんと。
1本目はNHKスペシャル「チェルノブイリ、隠された事故報告」七沢潔ディレクター、1994年。現場作業員のミスから起こったとされる事故が、実際は原子炉の構造的欠陥にあったことを証言により暴く。ソ連政府は知りながら隠蔽、IAEAもアメリカも黙認する。グラスノチを目指すゴルバチョフの譲歩、ソ連の軍産複合体制も明らかになる。死んだ作業員たち、消防士たち、本当に気の毒。
2本目は同じくNスペ「ロシア・小さき人々の記録」鎌倉英也ディレクター、2001年。独ソ戦、アフガン帰還兵、チェルノブイリの犠牲者、ベラルーシの作家アレクシェービチは国家の都合で人生を翻弄された人々のかそけき声を拾ってきた。「勇気を持たなければ、どこも隠れるところはないんだから」というチェルノブイリ被爆二世の少年の言葉が心をえぐる。
三本目はBSプレミアム「赤宇木」大森惇郎ディレクター、2016年。福島県浪江町の赤宇木というところ、極端に線量が高い。その集落の区長は今、100年後も帰れないであろう村の歴史を書き残すべく、避難したバラバラの人たちを訪ね歩く。同時に今の村と線量を記録し続ける。天明の飢饉、満州移民、戦死者たち、戦後の苦しい開拓、出稼ぎ、歴史に翻弄されながら生きてきた村の人々をまた今、国策である原発がめちゃくちゃにする。
本当に素晴らしい3本。NHKにはこれほど優秀な製作者がいながら、どうしてそういう人ほど制作現場から外されるのだろう。もったいない。そして巨費と人材を投じて作られた映像は放映ののちお蔵入り、オンデマンドで検索してもそれほど見たくない旅ものやドラマが多い。見たい人は横浜のフィルムライブラリーまで行かなければならないんだって(お見逃しの方はインターネットにタイトルを入れるとみられることもあります)。
この三本とも編集した鈴木良子さんの話も聞いてみたかった。鈴木さんへの信頼と尊敬をたくさんのディレクターから聞いている。ディレクターが撮ってきた膨大なフィルムをどうやって料理するのだろう。
「記録されないものは、忘れられてしまう」、アレクシェービチのやってきたことは私の思いと仕事にも近い。しかし彼女は最後の独裁者ともいうべきベラルーシのルカシェンコの下で弾圧を受けながら記録してきた。自分はまだまだ甘いなと反省。

wasedoq

〇コメントは怖い

2016年8月18日 木曜日

ちょっと前のことですが。毎日新聞6月17日夕刊に舛添知事について聞かれてついコメント。正直に思うところを述べたつもりですが、舛添ばかり叩かれて甘利や下村の問題をそらす、石原慎太郎の罪は百倍重い、というあたりはカットされてしまいました。
結果、舛添バッシングに手を貸したことになったかと反省。家にはテレビがないので、ワイドショーによるここまでの「血祭り」とは知らなかった。でもやっぱり、舛添さんはやめるべき人だと思う。
しかし、同じ欄で小田嶋隆さんは「辞職の必要はなかった。文科省が新国立競技場に都の負担を求めても堂々と抗議した」とコメントしていたのには唖然。都知事は448億もの税負担を約束、その他、都営住宅住民や野宿者を追い出し、公園を潰し、その都の土地を新国立に無償提供とか、裏で取引している。
これもコメントなので、真実はわからない。コメントは怖い。

〇今年も湯布院文化記録映画祭へ

2016年8月18日 木曜日

毎年、楽しみにしてスケジュールを空けて待っている。
一日早く行って、庄内町の友人の家に泊まる。彼らは鎌倉から庄内に引っ越して農家になってしまった。たくさんの種類の野菜や果実、お米も作って、納屋を改造して住まいにし、とっても美しくて楽しそうに暮らしています。
それから新江さんの「山椒郎」も楽しみ。
いよいよ映画祭始まる。ここに来ることで私はどんなにたくさんの人と出会うことができたか。土本典昭さん、松川八洲雄さん、時枝監督、原一男さん、感謝しかない。