2011年12月 のアーカイブ

震災日録 12月19日 学校と津波

2011年12月21日 水曜日

谷根千プレゼンツのカフェコパン、朝はおかゆ屋さん。中華粥のどんぶりかと思ったら瓢亭の朝がゆのような上品なおかずも多いものであった。これで500円では足が出ちゃう。昼間はひたすらパソコンに向い、夜7時にまたカフェコパンへ。タイカレー、真理サラダ、ヤマサキ製の豚肉の醤油煮などでビールを飲む。うろうろさん、守本君、赤坂さん、島さんはじめ地域の仲間に会えて幸せ。ヒコベイたちのライブも楽しかった。気を使わなくてよい仲間に忌憚ない話をしながら飲む、こんな幸せなことがあるだろうか?
今日は「世界」や「スバル」「こころ」などの校正。間違いがあってはいけないので北上河口の大川小学校について調べる。もう書きたくないくらい哀しいが、児童108名中、75名が犠牲に、3人行方不明、教師12名中11名死亡、スクールバスの運転手さんもなくなる。なくなった先生方個人個人を非難する気はない。生き残った先生は児童を裏山へ誘導し、命を助けたともいえるし、校長が親戚の結婚式でいなかったのも、とがめられるべきことではない。しかしやはりたくさんの児童の犠牲は無念であり、いろいろ疑問は残る。二度と起こさないために書いておきたい。

*石巻教育委は北上川河口にちかいところでどうして津波を想定しなかったのか。
*オシャレでもなぜ川の状況が見えないような校舎を設計したのか。川より低いところに建てたのか。校庭からも校舎にさえぎられて川は見えなかった。
*2時48分に地震が起きて、なぜ3時35分まで避難を開始しなかったのか。
*点呼を取っている暇は何故あったのか、子どもを保護者に渡すことや点呼に追われるより先にまず高台へ誘導するべきではなかったのか。
*なぜ津波警報が出ているのに高台でなく川の方、橋のたもとを目指したのか。
*裏山は倒木で危ないと判断したというが、私が何度も見たかぎり、倒木もなく、私でも上がれそうな山だった。日頃からシイタケの原木などを置いて児童は山にはいっていたという。なぜ階段など津波にそなえて上がり口をつけておかなかったのか。
*近くの集落から避難してきた住民が「だいじょうぶ」と判断ミスを誘うようなことを言ったという話もある。こういうとき、管理職は地元住民にどういう対応をすべきか。住民対応より児童を守るのが第一にすべきことではないか。
*住民は学校に避難した場合、どう行動すべきか。自分で自分の身を守るのはもちろんのこと、勝手な意見を言わずに校長に従うか、校長を手助けするほうがいい。指揮系統のみだれは避けたいところである。
*しかし事故後の校長や市教委の対応も遅いし誠意がないように感じられる。

二度と起きないように、全員助かった学校の教員の判断と比較検討すべきだろう。インターネットなどに寄れば越喜来小学校では校長が揺れがおさまってからでは間に合わないと揺れているうちから避難を開始、73人全員無事。岩泉小では10分避難開始の判断が送れていたら危なかったと回想、268人全員無事。釜石東中では生徒の自主判断で年少者を助けながら高台から高台へと避難して562人全員無事。広い平野の中にある山元小では高台まで避難する暇はないと判断し屋上で90人全員無事。これらにならって私たちも五感を磨きたい。

谷中コミュニティセンターの防災立て替えでお世話になっている防災都市計画の吉川仁さんから。
「最近の防災のキーワードは「避難」です。が、世間的には、避難=安全なところに移動、という風潮が広まっています。だれかが安全な場所を用意してくれる!?。そうではなくて、自分(たち)で命を守る判断と行動ができる、ということが重要なんではないか、と思っています」
そうだ、安全な場所は誰かが教えてくれるわけではない。

震災日録 12月18日 花巻の雪景色

2011年12月21日 水曜日

朝、目が覚めるとまだ群青色の町に橙色の灯火がちらつき、白いものが舞っている。
一晩のうちに森も家も雪化粧してこの世のものとも思われない美しさ。花巻は何度か来ているが、新渡戸稲造記念館は行ったことがなかったので、時間を節約するためにタクシーで行って見た。新渡戸稲造は五千円札の顔でもあったのに今ひとつ業績がわからない。花巻は祖先の地、10代でサッポロ農学校に入り、クラークの薫陶を受け、東京大学にはいり、アメリカに留学、かえって一高や東京帝国大学の教授となり、ジュネーブの国際連盟次長をつとめた。若いころはほっそりと美しい。ボストンの名家のクエーカー教徒、メリーと結婚、一男が生まれるが1週間でなくなった。後藤新平とも関係がある。『武士道』を書く。そんなことがわかった。
ついでに宮澤賢治の施設にも行く。雪の道を掃いていたおじさんは「宮澤家はものすごい金持ちで、特にお母さんの実家は今の新花巻の駅のあたりを全部持っていた。土地ではけちの宮澤商店で知られていて、そうでないと金なんかたまりっこない。富士銀行の頭取した人もいたし、いまの代でも花巻の商工会議所の会頭をしています」とか。タクシーの運転手さんは「大きい声では言えないけど、花巻はあんまり被害がなかったし、仙台のこどもたちはいつも会津に修学旅行に行くのが、みんな花巻に来てくれて観光客は多かった。東京からは福島またいでまできませんけどね。それと保険会社が沿岸部の実況を検分しに毎日タクシーを使ってくれて、うんとよかったね」といっていた。
仙台文学館で円朝の言葉、最終回。仙台駅は混んでいてはやてが取れずにやまびこで帰る。途中、はやて2台に追い抜かされちょっとシャク。

震災日録 12月17日 岩手の沿岸へ

2011年12月21日 水曜日

朝、7時の新幹線で一ノ関へ。半農半筆の渡辺征治さんと落合い、一路陸前高田を目指す。三陸でこれだけ海に広く面した平地があるところも珍しいであろう。土蔵の町並みなどもあったと聞くが、瓦礫は処理されて一面の平地が広がっていた。有名になった一本松シルエットが海際に見えるが近づくことはできない。これも塩害でいずれ枯れるだろうとのこと。今回は杉も塩に弱いことがわかったという。途中が壊れながらもみんながよじ上った神社の石段。山ノ上に神社や寺があって救われた命も多い。その下に古い醤油屋さんがあり、黄色いハンカチがたくさんはためいていた。今回、各自治体ごとの犠牲となった率は5%くらいだが、陸前高田は12、5%と突出している。
大船渡は漁港にも被害が少なく、お店や食堂も復興していた。魚は希少で高値がついているとのこと。いかがぴかぴか光っている。そこから国道ではなく海沿いのこもれ日の道を走る。伊能忠敬が測量の縄を下ろした浜は透明な水であった。そこからぐるっと半島を回ると吉浜というアワビ漁の浜、スレート瓦の大きな家の向うに海がきらきら光っている。
釜石では日本製鉄がモクモク煙を上げていた。しかし市街地は建物が残っているものの、中華屋さんと洋品屋さんが一軒ずつ開いているのを見かけたくらい。駅前の市場はにぎわっていて海鮮丼の店には行列で入れず、ラーメンを食べたが、これが極細めんで、漬け物も餃子もご飯もおいしかった。お店の夫婦のお顔もとても素敵。釜石は津波てんでんこで防災教育が行き届き、今回学校にいた児童には1人も犠牲者が出なかった。それどころかこどもたちは小さい子たちを励まし、お年寄りを乗せた大八車を押し、高台へ高台へと自力で逃げ延びたのである。「釜石の奇跡」と言われているそうだ。
時間がまだあったので大槌にも足を伸ばした。ここは高い防潮堤があり住宅地から海が見えない。ここにも店などが並んでいたのだろうな、とコンクリの基礎でわかった。結城さんとは「もう一度ここで」という言葉を考えたのだが、「もう一度ここで生きなおす」には相当の時間がかかるだろう。ビニールで囲った仮設の店で海鮮丼やコーヒーを出していた。岩手大学のボランティアもいたし、地元の青年が黒い揃いのジャンバーでがんばっていた。いわきでは「がんばっぺ」だったが大槌では「まげねぞ」だった。
百聞は一見にしかず、テレビで見るのとは違った知見が得られた。遠野に向う。ここは市長はじめみんなで後方支援にがんばってくれた町。ありがとう!花巻について冷えきった体を台温泉の日帰り湯であたためた。帰りに石やきピザの店があって夕飯。駅前のホテルで渡邊さんと別れる。

震災日録 12月16日 石巻河北の経験

2011年12月21日 水曜日

石巻河北新報の復興写真コンクールの審査。いったい今年はいくつ審査をしたことだろう。でもこれはぜひともいきたかった。見るだけで熱いものがこみ上げる。ホタテをむくおんなたち、牡蛎をあげる漁師の笑顔、モクモクと煙を吐く石巻のシンボル日本製紙、泥のなかの写真を乾かす少女、河北新聞を読んでいるように見える幼児。
石巻河北の桂さんから聞いた話しでは当日、道をゆく人を3階に上がれと呼びかけながら、窓から撮った写真を新聞に載せた。新潟日報の機械を借りて印刷し、女性たちは炊き出しをし、全国の新聞社からは支援物資が届いたという。またいくつも体験を聞いた。「津波で流されてたまたま人のうちの玄関に入り込んだので、すぐ2階に駆け上がって、悪いけど人のアノラックを着込んで屋根から脱出して助かった」「新築したてのうちの2階だけ外れて波間にただよったが、階段の方が浮いていて、気密性が高かったので浸水もないまま、流れてきた他の人も引き上げて11人で漂流して全員助かった」まるで冒険談のようである。夕方、スレートを40年とり続けている写真家の菅野さんにあっていろいろ教えてもらった。そのあと3・11以来会えないでいた結城登美雄さんにあう。「もう一度ここで生きる」がテーマだな、といっていた。
仙台はいつもより早く定禅寺通のイルミネーションをはじめ、復興特需もあって景気はいいようで、繁華街もものすごい人出だった。

震災日録 12月15日 津波てんでんこ

2011年12月21日 水曜日

JTBの交流文化賞の審査。作文部門と活動部門がある。毎年全国の町づくりの新しい波を知ることができて有意義。しかし長い1日だった。サトコの友人はリテラシーを高めるために新聞をとることにしたという。どういう意味と聞いたら「新聞がどんなに嘘を書いているかを見抜く技量をつける」のだそうだ。本当にみんな大メディアを信じなくなったなあ。いいことだ。ヒロシに「津波てんでんこ、地震の時も私を助けようなんて思わなくていいからね」というと、「今なら逃げられそうだから一諸に駆けるけど、これが80で病気だったら悪いけどおいて逃げる。その前に育ててくれてありがとうというから」という。「そうそう、生き延びて社会のためにお役に立ってちょうだい」そんな話をするようになった。一生を津波てんでんこを伝えることに費やした方がなくなったという。意義のある一生だ。

震災日録 12月14日 軍都東京

2011年12月21日 水曜日

中島岳志さんと5・15事件、2・26事件の現場を歩く。犬養首相は官邸にいた。私は22歳のとき、溜池の出版社に勤めていて、いつも国会議事堂駅から首相官邸の脇を通って通勤していた。今は新しいガラス張りの官邸ができているが。警備の人に聞くと、野田首相はここに住んでいるとか。5・15の首謀者たちはタクシーに乗って官邸に乗り付け、簡単に中にはいっている。今日はハプニングで国会の衆議院を見学してしまった。天皇の貴賓室は淋しそうだった。天皇皇后お揃いで来ても部屋は別々らしい。
板垣退助が功労者として銅像があるのは解せない。あとは伊藤博文と大隈重信、これは分かるが。赤坂のTBSは近衛歩兵三連隊、高橋是清邸の近くに第一師団司令部と麻布連隊司令部、青山中学がもとの陸軍大学校、その近くに乃木大将邸、赤坂プリンスは李王邸、と軍都東京の姿を知ることができた。4時に東京駅で日本ナショナルトラストの被災文化財保護のための募金キャンペーン。しかしマイクを握って離さない観光庁長官がほとんど文化財と関係ないことを言って道行く人にはあまり伝わらなかったのではないかと思う。その上揃いのジャンバーのいわき市観光関係者が来てパンフなど配ったのでますますわからくなった。松方弘樹さん、辰巳琢郎さんは簡潔でさすがに的をえた挨拶をなさったが、こんどは通行人の方が黒山の人だかりで携帯撮影会を初めてしまい、一緒に写真を取ったり、握手をするために100円入れる人が多く、文化財保存の思いなどはほとんどなかった。4半世紀前、東京駅の外で署名を集めた時は誰も有名人は来なくてもじっくり話し、向うも聞いてくれて署名が集まった。有名人を頼んで金を集めるという方法はもう古いのではないかと思った。

震災日録 12月13日 ムール貝の洋風調理法

2011年12月21日 水曜日

朝、千駄木のブリックワンに泊めていただいた坂下さん夫婦に朝ご飯らしきものを届けに行く。昨日作れなかったムール貝のトマトソースも作って持って行った。「牡蛎は生が一番だ。ムール貝は潮汁が一番だ」といいはる坂下健さんも「案外これうめえな」と言ってくれた。清子さんにレシピを伝える。「フライパンにオリーブ油を入れみじん切りのニンニクの香を出してムール貝をざっといれ、安い白ワインをふり、ざく切りのトマトとみじん切りのパセリを入れ、貝の口が開いたら身がふっくらしているうちに皿に移す」というじつに簡単な料理です。潮汁は貝の味が汁に出るが煮込む分、どうしても貝は身がちっちゃくなる。「カラスガイなんて金とッて食べさせるもんでない」と清子さんたちは思っているようだが、ベルギーのガンやブルージュではぴかぴかの銀のバケツにムール貝をただ茹でてパセリをちらしただけのが名物料理だった。きりっと冷やした白ワインによく会う。なんならのんびり村で私が作りましょうか、というと「やってみようかな」ということに。とれとれの魚を刺身で、というだけではなかなか人がこない。あたらしい洋風のメニューも開発した方がいいと思う。健さん「しかし森さん、客はうめえうめえと食べるだけだが、あれだね、主宰者ってやつは大変だね」とねぎらってくれた。海を見ていないと駄目なオトコ、健さんは私の東京見物のお誘いも断って、10時過ぎには愛する長面浦へ向けて出発した。
きょうは夜、コミュニティセンター建て替えの仲間の忘年会なので残った牡蛎を30ほどもっていき喜ばれた。料理じょうずな酒井さんはニンニクとパセリとパン粉を混ぜて殻つきの牡蛎にのせ、焼いた。ペシャメルソースではないこんなグラタンもおいしい。

震災日録 12月12日 復興支援牡蛎まつり

2011年12月21日 水曜日

いよいよ北上河口尾の崎復興支援奇跡の牡蛎まつり。11時集合。余計なことを話している閑はない。ヤマサキの指示どおり会場作り。手伝いは数名いるが1人ずつが繰り返しにことを聞き合って、それに応えるのが手間で、東京が被災したら私もパニックを起こすんだろうなと思う。ドタキャンの人もあり、そのぶん来たがって断ったひとに電話したり。
朝日新聞の菅沼さん(学生時代からの友人)3名、毎日新聞の中島みゆきさんら、北上を応援してくれる人たちも「地域の人を優先して!」といってくれたのであるが、連絡すると来てくれた。
1時のはずが扇橋たもとで渋滞のため、2時近くに到着、さっそく浅田、山崎チームは山崎宅でカキフライとグラタン作りに。私たちは牡蠣むき。3時のお客さまにどうにか間に合った。石巻辺りで写した映像を壁に流したり、北上チームのお話や清子かあさんの牡蠣むき教室も大人気。3回とも満員御礼、表での大内さんを中心とする米やわかめの販売も好調、夜中の1時半に後始末をして帰ったが、18万円を売り上げた。飲み屋ならたいしたもんじゃない? といってもみんな支援だと思ってかなり率先してお金を使ってくださったみたい。イスラエル医師団をヘブライ語で通訳した福地波宇朗さん、石巻出身のダンサー桜井ことのさんも来てくれたし。本当にいろいろな方にお世話になりました。

震災日録 12月11日 久しぶりに千住

2011年12月21日 水曜日

足立区の千住図書館で「おたがいさま――昭和30年代パラダイス」を話す。
帰り、森鴎外旧居を見たりして、ぐったり千住駅前で一人で飲んでしまった。もらった花束を明日のためカフェコパンへ持っていく。毎日、時間通りに北上の牡蛎が届かなかったり、余ったり、足りなかったりの夢を見る。だいたいコパンさんにあわせて25人も入れるのか?

震災日録 12月10日 図書館ラジオ

2011年12月14日 水曜日

朝、虫歯を治す。痛いけど被災地の方たちのことを思えば我慢できる。昼に川口へ。
川口メディアセブンでは図書館内地域放送という試みをしている。図書館は本を貸し出すところ、だけではなく、地域資料の収集、起業の応援はじめたくさんの事業が広がっている。震災もあってラジオ放送の有用性(テレビは電気が来なくなると使えないが、ラジオは電池がはいっているかぎり使える)、世田谷ママや神戸鷹取教会の地域FMのマイノリティへの母語放送の話などする。できたら50万都市川口で地域FMが図書館から発信できたらおもしろい。地域のまだメジャーでないバンドの曲を流すなどもやっていきたいという。そこへ年配の婦人から、図書館でいびきをかいているひともおり、学生に席は占拠され、自分がレシピを写したり、病気について調べたりする場がない。これ以上税金を使って図書館でラジオなんかやる必要がどこにあるのか、という意見が出る。図書館の古典的利用者はそう言うのだろう。しかしすでにリタイアして余暇を趣味に過ごせるゆとりある世代は、正規の職もなく貯金もない若い世代のやることを毛嫌いせず応援してみてもいいのではないかともう。若い世代もコンテンツとかリソースのシェアなどといった横文字を使わずに高齢者の理解を求めて共存していく必要がある。
おたがいさまかな、これも。11時、屋上へ皆既月食をヒロシと見る。さぶ!