2011年7月 のアーカイブ

震災日録 7月22日 防災の専門家

2011年7月27日 水曜日

北里病院へ行って、谷井さんと広尾で話をして、よる、久しぶりに会った友人の防災技術者と話す。

「ブログを見て森さん、よくやっているなとは思ったけど、海の近くに住むのはやめるという意見には反対。行政がどこに住むかを決めることはない。高台だって海が見えるほうがいい。危ないからやめろというのでは谷中や根津に住むなというのと同じ」

「そうね。ただ20メートルの防波堤を作って海際に住めというのには反対。たしかに直後は漁師さんたちも今回だけは駄目だ、と海を怖がっていた。でも復興会議がだしたタイプ別町のプランなんかはよくないとおもう。時とともに被災者の考えも変わるしね。根津辺りのおじいさんは百年に一回あるかどうかの地震のために鉄筋にする、暮らしを変える気はない。いざとなれば焼け死ぬからいいって言ってる」

「でもそういう人でもしっかり逃げるよ。今回だって津波の浸水地域の死亡率はせいぜい3~5%、一番多い陸前高田で十数%、つまりあとの人はじょうずに逃げたということだ」

「なんだかちっとも再建計画がすすんでいないみたいね」

「阪神淡路のときは関西の連中はどんどん勝手にやりはじめた。個人には出ないけど、共同でやれば金はついてくる。東北の人はおとなしいというか、自発的な活動が足りない気がするな。そうすると計画は上からふってくる。それに阪神のときは後藤田と下河辺がいてスピード感もあったし官僚の使い方も心得ていた。いまは政治主導と言って官僚に何もやらせないのに、自分たちにはアイディアも胆力もない」

「復興を手伝わないの」

「行ってみたけど人がいない。それじゃ復興はできない。みんな行政がしてくれるのを待ってる。政府は補償するだけ、金の問題になってる。いっぽう一都市あたり調査に5000万、計画に5000万といった馬鹿げた金をコンサルなんかにばらまいている。土地の人が自分でやる気を出さなきゃどうしようもないぜ」

「谷中でもコミュニティを防災センターに建て替える計画があって」

「本気でやれば備蓄でも貯水槽でも自家発電でも物すごいお金がかかる。でもいざ災害の時にどれだけ有効かは分からない。それより森さんたちのやってきた井戸の水質調査とか、関東大震災の聞き書きとか、食べられる植物の調査とか、日常の研究とそれを通じたネットワークの方が効くんじゃないかな」

みすずの守田さんも来てくれたので3時まで飲んでしまった。

震災日録 7月21日 原発近くの声

2011年7月27日 水曜日

ようやく「映像谷根千」に3本アップした。3月27日の反原発デモは全体を荒川俊児さんが撮り、私はデモの中に入って後ろ向きに歩きながらインタビュー、警官に危ないですからやめて下さい、と言われたが、中に入らなければ撮れないことも多かった。

その後、ゲンパツのある近くに行って住民の声を取ってこい、との映像ドキュメント桜井均隊長の指令により、まず被災地に絵本とマンガを持って行った際、女川町のアリーナに同行者早川真理さんの友人を訪ねると、そのお父様が女川町議会でたった一人(いまは二人)40年間原発に反対しておられる高野博さんだと聞いた。高野町議も家を流され、避難所に生活しながら石巻の共産党仮事務所で精力的に活動されている。それゆけ、とその足で訪ね、追分温泉には7時に行かないと夕食がなくなるので、ぎりぎり40分話を聞いた。

5月には七尾のでかやまのお祭りをみにいったので、能登の志賀原発に反対するお二人、友禅作家の志田弘子さん、町議の堂下茂健一さんのお話を聞いた。といっても事前に志賀原発について調べていったわけでもないので、初対面だしとんちんかんな質問ばかりしてしまった。補償が出るのは漁業者だけで、原発ができたって、それ以外の住民には何も出るわけではない。それでも温泉旅行などアメがくばられ、反対すると村八分と言うムチが来る。「絶対安全だって国も大学の先生も言ってる」「原発がくれば雇用がうまれる」「地元自治体には電源立地の交付金が入る」などで、みんなのこころの外濠うめられ内濠うめられ。そのときから反対して来た方たちは強い!

ほかにも4月末には浜岡原発を、6月末には上関原発計画に反対する方たちの声をとって来た。私は眼の病後なので自分では編集できず、若い木崎さんの力を借りているが、ゆっくりアップしていきます。いままで作ったものは映像谷根千でご覧ください。

じっくり集中すれば、どの方もすごいこと言ってます。http://yanesen.eizoudocument.com/

まず電源立地三法をなくすこと。安全だと一回でもいった学者は学者の名前に値しないから大学を去ること。広瀬隆さんたちが、東電会長や原子力保安院の班目委員長らを刑事告発しはじめた。広瀬さんの『あおる』語調は好きになれないが、誰かがこれをしなければならないから見守りたい。

震災日録 7月20日 本をよむ

2011年7月27日 水曜日

3人以上で飲むと話が割れ、二つの会話が混ざるともう何も聞こえなくなる。特に女性の高い声は頭に触る。BGMがあれば最悪。食器や鍋の音もひびく。電気はまぶしい、クーラーの音もつらい。もう外では飲めない体。

だから家で本を読む。クーラーは足が冷えるから、保冷材をタオルにくるんで頭寒足熱。桐野夏生『ナニカアル』。ホラーやミステリーは恐いので読まないが、『東京島』はおもしろかった。この小説は林芙美子が従軍作家として南方を旅するうちに船員と切羽詰まった不倫をしたり、年下の記者と恋をして子供を宿したりする話。「ほんまかいな」と思うが、あってもおかしくない。林芙美子は実子を持たず、泰ちゃんという養子をかわいがって育てた。小説は実はそれは芙美子が人知れず産み落とした子だという。「ありえない」と宣伝をみて敬遠していたが、図書館にたまたまあったので。小説はその辺が主なのではない。軍に協力し、軍に監視されながらも、戦場を観ずばおかじ、かかずばいられない作家の業。それを責める恋人の記者だって、戦争協力する新聞社から給料と取材費が出て南方で芙美子と会っている。出口なしの自虐。筆力のある小説に引きずり込まれた。

「ヤノマミ」も本でも読んだ。清潔で若々しい筆。ノンフィクション作家の臭みがない。しかし何か故意に隠されていることがあるような。セスナ機はどこにおりたのか。そこから集落までは何でどう行ったのか。つらくなると逃げ出す保健所までは歩いて行ったのか。車はないのか。映像では毎日狩りにいっているように見えるが、本では男たちはナマケモノで、昼寝ばかりして、いよいよ食べるものが底をつくとようやく狩りに向う。映像と本はこんなに印象が違うものか、驚いた。

震災日録 7月19日 ロゴスなき国 

2011年7月27日 水曜日

北上町に五感を研ぎ澄まし、自分で身を守れる子どもを育てる学校をつくりたい、といったらH先生は即座に「無理ですね」と言う。教えられる先生なんていまの日本にいませんよ。なんせキッシンジャーに日本人に論理は分からない、と言われたくらいですから。大学でわたしが論理の話をしていたら、女性の教授が「論理以上に大切なものもある」なんて言いだしてね。あなた、学問はロゴスでしょう、ソシオロジーとかバイオロジーとか、いったい何教えているのと言いたくなりました。

西洋にしてもキリスト教を布教する時にはロジックがいる。それで研ぎすまされて来たんです。イスラムもしかり、中国だって中原を制するにはそれなりのロジックがいりますよ。だから開国したって、こんなロゴスの通じない国と外交が通商だと向うは相当苦労したでしょうよ。オバマだって旧約聖書に誓った。日本は共通の規範がないからみんな違う基準で原発でも生命倫理でも討論して、結局どこまで行っても結論は出ません。

問答無用、以心伝心、切り捨てごめんなんてなにも論理ないじゃないですか。武士道とは死ぬ事と見つけたり、わかったようなわかんないような。でもすくなくともサムライまでは責任をとって腹かっさばいたじゃないですか。いまはそれすらしないでしょう。太平洋戦争でも東京裁判ではさばかれましたが、自分たちで自分たちの責任を追及しなかった。あれは勝者による裁判だなんて文句言いますが、なら敗者は敗者でちゃんと責任を追及すべきだった。いまは責任を追及している場合じゃない、なんていつもごまかす。住専だって年金だって、そうやってうやむやになりました。みてて御覧なさい、いまは戦犯探しはやめようなんて言ってるうちに原発だって誰も責任取らないから。

震災日録 7月18日 なでしこジャパン

2011年7月27日 水曜日

きのう、本郷鳳明館に泊まるというみんなについて、部屋で宴会のつづき。東向きのまぶしい光りに目が覚めてニュースを見ようとしたらワールドカップの中継中。なんとラッキー。後半戦、同点ゴールのところからみて、延長戦。絶対負けると思ってハラハラしていたら、あらららら、PK戦で優勝。突然、選手達が親しいものとなるのはメディアの魔術、ゴールキーパー海堀の少年のような笑顔、PK最後の熊谷選手の祈るようなかわいい顔、魚屋のおかみさんになっても似合いそうな澤キャプテンの庶民的なガッツ。いいね。みんなのコメントはにたりよったり。みなさんのおかげで、夢のよう、声援ありがとうございます。無理に震災のことを言わないのはよかった。ひとりだけ丸山選手が「自分たちが励ました」といわず「大変ななかをがんばっている方たちに励まされて」といったのもよかった。どっちみちめったにない明るいニュースだ。それにしてもNHKのアナウンサーは中立ではなく、日本びいき過ぎてしらけた。相手のプレーも誉めなくちゃ。それに「アナログ放送終了まであと6日」が画面を占有してみにくかった。余計なお世話だ。

震災日録 7月17日 サンドさん志保子さんと再会

2011年7月27日 水曜日

きょうは2時から本郷の共生センターで、文京区の映像をみる会。ヤマサキやオオギたちが区から委託されている仕事。第一幼稚園の松下和正くんのお母さんが撮った八ミリ。懐かしい山村園長先生。今思えばいまの私よりお若かったのかも知れない。懐かしいスモックの子どもたち。お誕生日会には男の子は蝶ネクタイを付け、お母さん達はみな着物。

もう一本は湯島三組坂上、伊勢利というおおきな味噌屋さんのフィルム。旦那、職人、丁稚、それぞれの恰好。マンサード屋根の大きな倉庫。関東大震災に焼け、ようやく昭和6年頃、すばらしい再建をしたのに、この撮影1年後、B29の空襲でまた焼ける運命だとはだれが予想しようか。帰り、保存運動の仲間と来日中のサンドさん夫妻とスペインのバールで暑気払い。今日聞いた話。「いわき市の避難所はだんだん少なくなって、残った避難者はなんども移動を繰り返させられている。行政としては早く避難所運営をおわりにしたい。まるで掃き集められるように移動させられている」「文京区ではついに保育所の待機児童がいなくなった。小さな子を持つ親が関西や九州に避難したためらしい」

東京新聞で俵万智さんが仙台から沖縄へ子供と避難したエッセイを書いていた。自分はどこでもやれる仕事、母親だけで身軽なので沖縄に来られた、とのこと。前海でのもずく拾いに小学生の息子さんは熱中し、おかあさんは集落での濃い付き合いやゲートボールをやるなど新鮮な暮らし。本当は子育てとは、みんながこうできるべきではないかと思う。都会で出勤時間とにらめっこしながら弁当を作り、保育園に送り届けたりする日常はつらい。うちの末っ子も13歳で沖縄に行ってずっと帰ってこなかったが、「どうしてお母さんは東京なんかで子どもを育てようと思ったの」と何度、なじられたことか。見に行ったら、牧場を自分たちでつくり、犬とかけっこし、馬と泳いでいた。

震災日録 7月16日 千葉・図書館フレンドの会

2011年7月27日 水曜日

千葉市に図書館建設を要求し、実現した以降もサポーターとしてがんばっておられる方達から再度まねかれた。前回もたくさんの方にお目にかかったが、その後、病気で記憶力がなくなったため、覚えていなかったりして失礼しました。実によい読者で、図書館で借りても読むが身銭を切って買うことも大事にし、持って行った本は完売。うれしい。官僚の会で話すことが何度かあったが、本はただでもらうものだと思っているらしく、有償なことがわかると本を置いてそそくさと帰っていくばかり。ほんとうに立場で癖がつくものだな。

なかに石巻出身の方がいて話を聞いた。「ふるさとには父と母と二人。父は仙台の病院にいまして、母は前の石巻水産高校にみなさんの助けもあって三階までのぼって助かりました。自宅の一階は波が来て、新幹線も通ってないし、夫がバイクで見て来てくれました。地震保険をかけておいたのがラッキーでした。半壊だと半分しかでないのですが、全壊と認められ全額でたお金で、妹の住んでいる塩竈の高台のホームに二人で入居することができました。仙台の父は家が被災したことがなかなか納得できないので、写真をいっぱい撮ってみせました」。被災者の中では、言い方は変だが娘さん達の支えもあり恵まれたケースだと思うが、それでも晩年になって住み慣れた家を失った事実に変わりはない。会津出身の方も二人おられ、会津は今風評被害で観光客が激減して困っていると聞いた。世界遺産になった平泉には人は押し掛けているが週刊現代の記事ではホットスポットがあるそうな。

週刊現代の記者のうち、千駄木の寮にいる人がいるらしく、千駄木駅前の放射線量も高いことが記事に出ている。

震災日録 7月15日 立ち上がる気になるまで

2011年7月19日 火曜日

仙台の結城さんから電話。

「復興構想会議だなんて、まだ何千人も海の中にいるんだし、百か日も過ぎないうちからがたがた騒ぎやがって、うるせえって感じだな。何にも現地を知らないもんが、ちょっとした思いつきを上からいってるだけ。森さん、わかるでしょう。町づくりだって本当にやる気の人がそこにいなくちゃ外から何言っても駄目だよね。立ち上がる気になるまで辛抱強く待つしかない。

あいつら漁業のことなんかなんにもわかんねえんだ。だいたい900万くらい平均の売り上げはあるが、船だオイルだ網だ船小屋だと経費に700万かかって200万しか残らないのがいまの漁業、それでもやってんだよ。何のためか、考えてほしいな」

農家も平均収入130万とかだが、漁業のばあい板子1枚下は海、命がけで年収200万はつらい。酪農の売り上げは4000万とかあっても3000万が飼料代、3人雇ってぱあ、と前に新聞に出ていた。鉛筆と紙、じゃなかった、いまはパソコン1台あれば仕事ができる私には申し訳ない気ばかりする。キリンの工場再開、トヨタが東北を生産拠点にするとのニュースにちょっとうるっとする。

震災日録 7月13日-14日 味村治を忘れない

2011年7月19日 火曜日

1日家でしごと。菅総理が脱ゲンパツ発言をしたって。信じる気になれず。しかし丸山真男は「戦後民主主義の虚妄に賭ける」といったからなあ。虚妄でも菅に賭けてみるか? ヤマサキはいわきに行って来て、話す元気もないらしい。避難所の職員に対して避難者達の話し方が横柄だと書いていた。私もそう思った。

松本元防災大臣が自殺未遂、と夕刊紙に出ていたがガセネタのよう。それにしても「水兵運動の父」を祖父に持つ人がこれだけの財産を作るには何をしたんだろう。枝野さんは家族をシンガポールに逃がした、というのは根も葉もなく、名誉毀損で訴えるとか言ってるらしいが、誰を?『ただちに影響はありません』と言っている人が、実はというところが都市伝説のおもしろさで、目くじらたてることもないのではないか。ただ行ってませんでした、というデータを出すのがスマート。そんなこといったら皇室に関する流布している伝説の数々、いちいち名誉毀損で訴えていたら、皇室の方々は身が持たないだろう。あの人たちは耐えているんだ。皇室の若い人たちだって財界の娘息子だって、かなり国外に行ったんではないか、と思うが、それは悪いことではない。

それより佐賀県知事や玄海町長と九州電力の関係のほうが騒ぐ価値がある。もと電力出身とか、弟の会社が電力からしごと受けてるとか。「なじらない」「あおらない」のは大事なことだけど、責任追及しないから日本はこんなことになった。裁判官で電力会社に天下りした人の名は元最高裁判事、味村治。覚えておきましょうね(東京新聞)。

震災日録 7月12日 ガイガー君と散歩

2011年7月19日 火曜日

伯母近藤富枝のところへ行く。しきりと「原発を止めなくてはいけない」「これからの子が可哀想だ」という。日本橋に生まれ、母方は神田で、田端に育った話を5時間聞く。しらないことがいっぱいあった。「うちは母方も父方も江戸からいるから江戸っ子ってわけ。あんたは森家の宮城の血が入っているから江戸っ子じゃなくて東京人だね」と伯母はいう。従兄弟にガイガーカウンターをわけてもらった。旧ソ連製の武骨なヤツだが性能はいいという。まあ東欧ものマニアが欲しがりそう。家の中は0.06-7くらい。さっそくヒロシはガイガー君と夜の散歩に行った。