2011年11月 のアーカイブ

震災日録 11月19日 丸森では子どもの甲状腺検査

2011年11月21日 月曜日

パシフィコ横浜で視能訓練師の大会。3000人の大ホールで原田病について語る。後半、井上眼科の若倉先生と対談、視力では測れない、見え方や見えにくさ、疲れやすさ、まぶしさなどについて意見交換。午後、コスモス見にいくつもりだったが、雨が激しくなり、東海道線が遅れ、京浜東北線にまで乗り換える体力がなく結局いかずじまい。
大ホールで話した後に掛け持ちなどできる体力ではないことを肝に命じなくては。
人の多いところへはいかない、まぶしいところ、うるさいところには近づかない、確約はしない、疲れたら休む、義理を欠いても。伊藤信吉さんが長生きの秘訣として「よく寝、よく食べ、義理を欠く」と言っていらしたが。でも、そう長生きもしたくない。
帰って2時間ほど寝たら回復した。丸森の耕野と筆甫では宮城県で初めて希望者の子どもに甲状腺の検査を始めるという。実現するまでに味噌作りの太田さんたちがどんなに努力されたことだろう。

震災日録 11月18日 反原発の女川町議高野さん2位で当選

2011年11月21日 月曜日

朝から5月に行ったいわき市への炊き出しの画像を見ている。この中から「津波の脅威」「天心六角堂消滅」だけはサトコが編集してくれたが、あとは「いわきモスクの炊き出し」を編集中。ほかのお話を書き起こす。『世界』の連載を書く。夕方、東京大学の大学院で講義、さすがにほとんど全員が質問をしてくる。「東京駅は空襲で被災した姿が歴史の証言ではなかったか。復元工事は空中権を移転した金で賄われている。そのため景観はむしろ悪くなったのではないか」という疑問はもっともだ。わたしの中でも結論はついていない。しかし東京駅の復元をお願いしたこともないし、それの提灯持ちをしたこともない。保存運動に関わっただけだ。もし反対意見があるなら、その方たちが復元反対運動を起こし、説得するべきだった、と思う。
この13日、女川でお会いした町議高野博さんは今回、町議選で567票、2位で当選。共産党が2位、3位となり、得票率の22%を占めるという結果。「町民がいかに原発に疑問を持っているかということですね。原発に反対して来た女川漁協の阿部宗悦さんの娘さんも当選し、いっしょに原発を止める活動ができそうです。石巻では初めて共産党の県議が当選しました」。息子さんたちはどうしてらっしゃいますか。「女川体育館に11月6日までいたんですが、やっと8ヶ月にわたる避難生活を経て家族が一諸に暮らせるようになりました」。あの隣りに立派な3階建ての仮設が立ちますね。「きょう30キロの米を届けに行ったのですが、三階まで上がるとひーひーいって。森さんの作ってくれたビデオは私のブログからも見られるので、静かなブームを呼んでますよ」

震災日録 11月17日 祝島の校長

2011年11月21日 月曜日

上関原発に反対している住民の多い祝島の小学校の山本校長が辞表を出されたという。
実態を調べれば調べるほど原子力は安全でないことがわかり、安全宣伝の教科書を配布する文科省にも疑問を抱いた。校長会で「原子力・エネルギー教育について県教委の意見をお聞きしたい」と質問したところ、「TPOをわきまえない発言」と注意された。「校長は中立であるべき」ともいわれたらしい。中立でないのは文部省の方だ。山口県の校長会も県教委も最低レベルなことがこれで明らかになった。
娘によれば福島原発の内部写真公開などはTPPを騒がれずに推進するためのめくらましだという。普天間も八ッ場も原発にそっくりなのに、また事故が起きてからでないと目が覚めないのか。それとも「放射能じゃないから関係ねえよ」というのかな。八ッ場ダムのパブリックコメントを私も経産省に出した。しかし11月3日に130件だったパブコメが4日に5000件になったというのは、どんだけヤラセ? という意見あり。
久しぶりにツイッターをのぞいた。南で谷根千のおいしい店談義、西で高山宏ファンの盛り上がり、東はTPP、北は原発と八っ場ダム。多様性というかヘンというか。
今日は日帰りで千葉へ、地境の確定のため。うらうらするかがやく海を眺め、ビールをのんだらすごくいい気持ちだった。行き帰り、しごと。

震災日録 11月16日 尊敬する農業者

2011年11月21日 月曜日

山形県長井市の百姓、菅野芳秀さんより野菜や玉子が届く。彼言うに「東京のスーパーなんかで売っている野菜は紙みたいなもんだよ」。長井は9万人の人口の半分を占める都市部の生ゴミをすべてコンポストで肥料化して、農村部で堆肥として使い、有機農作物を育てている。NHKの取材で知り合って以来の友だち。「たまには体を休めに湯治に来てください。いい温泉紹介するから」。同じ日、京都綾部の田中ふきこさんからなし、柿、りんご、銀なんなどいただく。田中さんはご主人が農業をやりたいと帰農し、ご主人亡き後も独りで農園を守ってこられた。「豚の子宮に腕を肩までつっこんで赤ちゃんをなんど、取りあげたか」というすごい方。梅棹忠夫先生の妹さんである。東京でも12月にかけ梅棹忠夫展が開かれるという。いかなくちゃ。四手井綱英先生の本を書いたとき「いい本を出して下さいましたな」とおっしゃった声を忘れない。秘書の方の朗読で読んでくださったのだった。そこへ島根の百姓佐藤忠吉さんからも電話。「津波で亡くなられた方の気持ちは私も土石流で幼い次男を亡くしているから少しは分かる。うちも3度やられましたけん。じゃが今度のは町全体やられてなくなっとる。大変ですな。なくなられた方には気の毒だが、というかその方たちのためにも今回のことをチャンスに世の中をかえなきゃいけん。もすこししたら米を送ります」。三人の尊敬する農業者から連絡がきた。TPPなんてとんでもない、というかんじ。今日は中島岳志さんたちと日本橋の団琢磨暗殺現場へ行った。そしたら東京スカイラインとかいう川下りの舟が来たので乗ってしまう。川から見る東京は不思議な感じ。爽快。

震災日録 11月15日 チーズ工場の閉鎖

2011年11月21日 月曜日

石巻旧河北町尾の崎の坂下さんから電話。尾の崎の集落は水に陥没して交通も不便になり、住民はもとに戻れないと思っています。スレート瓦の素晴らしい家々が解体を始めるところだという。どうにかならないか!とおもえどもわれ無力なり。買っても使えないしなあ。
社会福祉協議会の安藤さんからのメール。「先日お話をうかがった丸森町についての記事で、丸森町でチーズ職人をされている方が、チーズ工房を閉じ、ご実家の横浜に戻られるという記事を読みました(毎日新聞夕刊10月20日)。 売り上げ減の原因が、風評被害であること、工房を閉じることが決まった後、駆け込み需要で売り上げが跳ね上がったことなど、震災の影響が直接の被災者だけにとどまらない、被害の広がりをあらためて感じさせられました」。新聞記事は見ていないが知っている人だと思う。夢を抱いて農村にきた人々の夢が次々うちこわされていく。
今日も志ん輔さんの三晩目。幾代餅、文七元結。このまえ仙台文学館で話したばかり。

震災日録 11月14日 浜岡もまだあぶない

2011年11月21日 月曜日

朝、静岡放送の記者から電話が会ったので聞いてみた。「浜岡が止まったといったって冷温停止まではまだ相当かかるんでしょう?」「使用済み核燃料だけでも6000本あるんです。いまなにかあったら終わりです」
奥歯を抜く。それで今日も夜は寄席。志ん輔師匠の夢金と芝浜。落語は博打打ちや遊び人が心を入れ替える話が多い。そして最後はハッピーエンド。石巻では一時金や義援金をカラオケやパチンコで使っちまう話をよく聞く。家も仕事もなくして、捨て鉢にもなる気持ちは分かるが、まだ若い。どうぞ明日から真面目に職を探そう、働こう、と思ってくれないか。落語の出前もいいなと思った。帰ったらちょっと熱っぽい。「歯を抜いた日に寄席にいくなんて、ばか」と娘。

震災日録 11月13日 志ん輔三夜

2011年11月21日 月曜日

朝からたくさんのたまった仕事。志ん輔三夜の第一夜。国立演芸場。掛け取り漫才で笑わせ、お直しで泣かせた。じつに芸達者。歌舞伎から義太夫、新内、三河漫才までこなす。初めてでしたが、ぜひ来年、円朝の累が淵をやっていただかなければ。
こどもたちに原子力の安全性を学習するテキストを作ったり、作文の賞を出したりするお金が電気料金の中に含まれているんだって。それで今年も4200万円もかけて作文の賞を出すのを去年と同じ原子力文化なんたら機構とかいう天下り団体が受注したんだって。こんな話ばかり放送でやる時代になった。ほんと官僚はいい度胸している。
石巻の坂下さんと電話。12月12日月曜日にパリ祭ならぬ牡蠣祭をすることに。

震災日録 11月12日 疎開の思い出

2011年11月21日 月曜日

朝、ご飯の時にあった同宿者は、浅草の田原小学校出身、おうちは鯨やというラシャ問屋だったが、3月10日の下町の大空襲にあって母方のふるさと津和野に疎開。「第二のふるさとですよ。浅草のごみごみしたところで育ったから自然の中の中学の2年間は本当に印象深い。のんびりしていじめもなくみんな優しかった。東京へ帰るのはいやだったな。浅草には戻らずいまは世田谷です。でいまも津和野の友だちとつき合って、時々来ます。きょうは永明寺でコンサートがあるので」と楽しそう。
乙女峠にお詣りに。ここは浦上のキリシタンが明治維新後、お預けになって拷問の末、多くなくなったところ。森鴎外はそのことに一切触れていない。そのあと永明寺に森鴎外のお墓参り。かえりにヨモギの葉を沢山摘む。オキナワでそばにいっぱいいれていておいしかったから。十時から安野先生解説のプラネタリウムを見る。星と暦、天動説など興味深くわくわくした。これを見るだけでも入場料の値打ちがあるし、これを見なかったらもったいない。帰ってヒロシと久しぶりに外食。リークック。

震災日録 11月11日 ひらけ、ゴマ

2011年11月21日 月曜日

グリーンリッチホテル浜田駅前というホテル(6200円)は温泉つきの駅前ホテル。
黒っぽいデザイナーズホテル風だが、必ずしもインテリアに成功しているとは思えない。フロントは家族的。しかし9階まであるのにエレベーターが一基しかなく、自動販売機までわざわざ水を買いにいくのがおっくうで水道水を飲んだが結構おいしかった。
今年も流行語大賞の時期、「まるまるもりもり」などはどうでもいいが、今年はなんと新しい言葉を覚えたことであろう。私の頭にはシーベルト、ベクレル、タービン建屋、溶融、メルトダウン、メルトスルー、天地返し、除染、セシウム、放射線同位体、原子力村、熊取セブン、原子力安全・保安委員会、原子力文化安全機構、エネ特計、もう頭の容量を超えている。
浜田の駅前をぶらぶらしていたら市場があった。そこでおにぎりと天ぷらを買って食べた。「さむくなったねえ」「もうすぐ紅葉かなあ」なんて。暮らしの声が聞こえる。前のスーパーにはおばあちゃんが入っていった。カートの輪っかってそのためにあったのか。ステッキをさすところなのでした。それで自動ドアに向って「ひらけ、ゴマ! だって。そこから海沿いの美しい景色を見ながら益田で乗り換え、津和野に。
6年ぶりか、西周や森鴎外生家をみたが森鴎外の家は当初と90度むきが違うらしい。なるほど南側に窓も縁側もないのはおかしい。安野光雅美術館をゆっくり見て、館の方たちと夕食。アンノ先生の話で盛り上がった。
鳴門親方急死。相撲協会の委員を離れて久しいが、まだいろいろあるんだなあ。

震災日録 11月10日 西周はエピキュリアン?

2011年11月21日 月曜日

島根県立大学に呼ばれていった。きのう羽田から帰ったのにまた羽田へ行く。いままで
三田線で大手町で東京駅、日比谷で有楽町、内幸町で新橋まで歩き、浜松町からモノレールという二回乗り換えでいっていたが、このところ三田で京急羽田線に乗り換えることにした。一回乗り換えだし、歩く距離が少ない。馴染んだ癖を変えるには時間がかかる。京急では間に合わないのではないか、という不安から二度乗り換えをしていたのだが、計ってみるとどっちもちょうど一時間。急行より快速の方が速いとか、三田と泉岳寺の関係が分からないとか、いろいろあったがだんだん京急に慣れて来た。その間、御成門で降りて浜松町まで歩くコースも試してみたが、これは帰りに芝辺りのラーメンやに引っかかってしまうのでよくない。
島根県立大の先生方が夕食会を開いてくださり、政治学や憲法学、環境学の先生方で津和野出身の西周の人となりや業績、福沢諭吉研究の現在、島根あたりの浄土真宗と基督教の普及率、『自主独立農民という仕事』についての感想、大塚久雄のヨーマンリーやエンクロージアについてなど、さまざまな刺激を受けた。なにより副学長の飯田泰三先生はまえに福沢研究会で谷中墓地をご案内したことがあるが、その時いらした萩原延寿、我が師藤原保信、丸山真男、藤田省三などの諸先生についていろいろお話しできたのが懐かしく嬉しかった。