2013年3月 のアーカイブ

2月28日

2013年3月11日 月曜日

八ッ場ダムの遺跡を守るアピールを国交省と文化庁に出しにいく。国交省は手渡しだけ、科学者の会の要望に文書で答えるかどうかもこれから検討する、とのこと。文化庁は一室を取って説明してくれたが、「すべての遺跡をまるごと保存はむずかしい。記録保存も立派な保存。地元がやる気があって、保存の態勢もとれるようなら文化庁としても応援していきたい」とのこと。つまりダム推進の長野原町、群馬県にやる気がないなら無理だ、ということか。
思い出す。東京駅もいまでこそJR東日本ははじめから保存復元の予定だったみたいな顔をしているが、文化庁に保存の相談にいったとき、「いかんともしがたい。市民運動など広範な国民が動かないと文化庁としては残せともなんとも言えない」と言われた。「うちの予算で東京駅前の土地がいく坪買えると思っているの」とも。それで必死になって署名を集めた。
ここからは余談。東京駅の保存が決まったとき、当時の松田会長は「復元なったあかつきには市民運動があって残ったことをプレートに刻まなくては」といってくださったと記憶しているが、それは反古にされて、赤レンガの東京駅を愛する市民の会の事務局を長らく守って来た前野先生や多児貞子さんさえグランドオープンに招かれなかった。これは歴史上ホントウのことだから、JRにいくら嫌われようと書いておかなければ。
公共工事が時代に合わなくなったときはやめる、という『時のアセスメント』を建設省は1999年に言い出した。だけどそれからそれでやめた例はあるのか。アメリカにはサンセット法がある。いったん行政が決めた公共工事を見直す法律はぜひ必要だ。

2月27日

2013年3月11日 月曜日

23日に浅草で「沖縄大問題」という集会に参加。辺野古、高江、大浦湾、泡瀬潟などからの報告が続いたが、「本土のマスコミはまったく伝えていない」「沖縄県民の怒りを結集して」といった十羽一からげの発言が目立ち、この論法では敵をふやすだけで味方は増えないのではないか、と思った。長らく基地を押しつけられ、いくら抗議しても無関心、黙殺に出会ってきて、こういう表現になるのもわかるが。
沖縄に行っても一方的に怒りを表明されるだけで、あなたは誰で何をしているの、と聞かれたことはない。関係はイーブンでなく、「あんたら本土の無関心が私らの苦しみを生んでいるのよ」「一回来たぐらいでわかる問題じゃない」としかられる。沖縄が好きで、なにかできないかと思って来たのになあ。この集会には自分の運動の宣伝に来た人もいれば、セクトの新聞も配られて、これもいい感じがしない。「政府は世界自然遺産登録を基地の隠れ蓑にしようとしている」という発言もあったが、国交省、防衛庁、文化庁をそれこそ十羽一からげにしないで、分断して各省庁内の対立も利用して、その隙をつくことこそ戦略というのじゃないかなあ。

2月26日

2013年3月11日 月曜日

私が信頼しているコンサルタントの賛同者より。
「思えば、今から40年近く前に、川原湯温泉湯元旅館主が町長となって、八ッ場ダムの調査の依頼を受けた経験があります。当時、福田派と中曽根派がそれぞれの立場から沼田ダム推進と八ッ場ダム推進の立場になり、川原湯温泉地域は、福田派に付くという政治的な環境もありました。
東京都は利根川フルプラン(水供給計画)にもとづいて、八ッ場ダムを整備しないと、水飢饉が予想され、早期実現を旗印にしており、私たちは、水没する前に地域の資源を整理して、ダム建設による損失などを整理した報告書を提出しました(そのほとんどは農地や農業の衰退による問題が主でした)。調査団を組んで、1週間川原湯温泉に滞在し調査(現地調査及びヒアリング調査)し、最終の日に調査団長(故山崎不二夫東大名誉教授、日本科学者会議代表幹事)等の調査にあわせて調査結果をまとめ報告し、検討した経験があります。
その当時は、地域の方たちはすべて八ッ場ダム建設反対の立場でした。東京都の水飢饉を持ち出しながらも、多摩川等の整備により、八ッ場ダムが出来なくても、乗り越えてきた経過もあります」
今までの経緯ももういちど、検証しなくてはならない。

2月25日

2013年3月11日 月曜日

平塚らいてうは岸田衿子さんに似ている。似ていると言われませんか、と聞いたら「そういわれたことがあるわよ」と微笑んだ。衿子さんも岸田国士のお嬢さんとして父の弟子たちに大事にされ、鷹揚で、声は小さく、人の前で話すのは嫌いで、徹底的にセルフオリエンティッドの神秘的な人だった。でもどこまでも続く話はとっても面白いし、人の見方はなかなか辛辣で、正確だった。
八ッ場ダムのことは「これ以上山や谷を傷つけてほしくない」という衿子さんの遺言なのでやっているだけ。
『青鞜』平塚らいてうは戸籍上ははる。明子、はる、ハル、などの表記が入り乱れ、困る。他の人も子がついたりつかなかったり。
子というのはドイツ語でいうchenであって、女性につけるムスメっこといった感じの愛称というか蔑称というか。明治では戸籍名に子がつくことは少ないが、原稿を公表するときや、あらたまって手紙を書くときは子をつけるようになった。
与謝野晶子も戸籍は「志よう」で、原稿署名もしょう、あき、晶子などが入り乱れるが、既に文学史上定まっている与謝野晶子、岡本かの子の子を取るわけにもいかずなやましい。名案ないですかね?

2月24日

2013年3月11日 月曜日

やっと八ッ場ダムが一段落ついたので、次の仕事『青鞜の冒険』のゲラ直し。
平塚らいてうは明治のヒッピーだったと誰かが言ったがそんな気もする。今回、八ッ場の自然保護なので平和、ナチュラリスト、スピリチュアル、代替療法、自然食などの方たちが興味を多くしめしてくださった。平塚らいてうは明治から禅に興味を持ち、中西悟堂と親しく、正食と手当療法を実践していた。女性解放家としてのみ理解して来たが、元祖ナチュラリストとして理解しても良いかもしれない。『元始に帰れ』というのが彼女の念願だったかもしれない。

2月23日

2013年3月11日 月曜日

武谷なおみさんが東京駅のスレートの募金に3万円も送ってくださることになった。ややこしくて不思議な話。
大阪芸大教授でシシリア文学の研究者の武谷さんは故・須賀敦子が残してくれたともだちである。ひさしぶりに上京されて先週の土曜日、一緒にお茶の水でランチをしていたら、2時からのオペレッタ『ベニスの一夜』の切符を持っているお友達が急用で行かれなくなったと電話あり。それで一席余りちゃっかり私がご一緒してしまった。そのオペレッタは陣内秀信夫人の美子さんが公演のお世話をされ、須賀さんの友人の大町志津子さんが衣装をデザインされた。人のえにしを思う。
そのチケット代、武谷さんと私の分をお友達にお払いしようとしたら、受け取っていただけなくて、森さんの東北支援に使ってという伝言があった。そのお友達とはパラディオの研究者の渡辺真弓先生なので、武谷さんは震災後に神戸の谷崎旧居の保存もされた方でもあり、雄勝のスレート産業復興募金にいただくことになった。あと一万円は武谷さんのご夫君(歴史遺産学の研究者)のカンパ。あまりにありがたく不思議なお話なのですみません、書いてしまいました。
というかそのオペレッタのすばらしいことがいいたかった。初めて見たのだが、歌も仕草もセリフ回しもとっても上手で、あちこち笑えるし、楽しいことこのうえない。それなのに日本オペレッタ協会は資金難でこの35年公演でひとまず解散するのだそうな。
文化庁も歌舞伎や能や文楽に補助するのもいいけれど、渡来ものとはいえ、こんな楽しい文化を支えないのはこまるなー。どんなに技術があってもフランス人形では伝統工芸士にも人間国宝にもなれない、と聞いたことがあるが、狭間の分野というのがあるのかもしれない。ポップスや演歌は売れればいいし、クラシックはコンクールも多くて顕彰もされるが、ジャズやシャンソンやファドやカンツォーネの歌手はなかなか日が当たらず、経済的にも大変。

2月22日 江木ませ子は千駄木にいた!郷土史関係

2013年3月11日 月曜日

これから、というか、前からやっているが、谷根千郷土史関係で新たにわかったことはどんどんブログに載せていきます。そのときは赤字で告知いたします。
3月に『むかしまち地名辞典』が大和書房より出ますが、そこには駒込病院、山の湯、大観音、谷中近藤邸、神明町の吉野作造、明治研究会とおでんの呑喜などについても収録されます。
22日、高校の先輩で戦後初の国際女優となった谷洋子について妹さんにお話を聞きました。そもそも谷洋子の母猪谷妙子も奥むめおの片腕で、働く婦人のために尽力した人。なんと妙子は鏑木清方『築地明石町』のモデル、江木ませ子の娘だそうです。江木ませ子は浅草や新橋で江木写真館を経営する江木家に嫁ぎ、夫の農商務省に勤める江木定男が早く亡くなった後、千駄木にすんでいたそうです。ませ子、妙子、洋子三代に渡り絵を描く人で、進取の気性に飛んでいたこともわかりました。とりあえずご報告まで。

2月21日

2013年3月11日 月曜日

朝日新聞広告局よりエッセイの掲載の依頼が来る。よく聞いてみると、灘中の試験問題に私のエッセイが出た、それを見事当てた、というので某塾が広告中で問題を載せたいのだそうだ。ややこしい話だし、受験競争とそれによって傷つく人をふやしたくないので断った。そうすると朝日より、既に版下もできて下版間近なのでどうにか載せさせてほしいと電話あり。忙しいので面会は断ったが担当者の青い顔が見えるようでかわいそうになりしぶしぶ許可。でも手続が逆でないのか? ちなみに出た問題は「おたがいさま」の前書きだが、別に正解例をつけるわけではないらしい。灘中の試験問題に何が出るかは注目の的なのでぜひ報道したい、というのだが、報道ではなく広告だろう。「エッセイが良いのでぜひ載せたいというわけではないんですね」というと、「塾の先生も、灘中の先生も、いい文章だと思ったから問題にしたのだと思います」という。あまり売れずにマイナーだから問題になったのかな。
このまえも朝日新聞社は私に断りもなく、肖像写真を3万円で某出版社に貸し出した。記事の取材で撮った写真を他の用途に貸し出しているらしい。歴史上の人物ならともかく、肖像権は私にあるのだし解せない。すくなくとも気に入らない写真は削除してもらう。若いころのほおのこけた写真などもあった。びっくり。

2月20日

2013年3月11日 月曜日

きょう賛同アピール締め切りの日。文化関係者に限る賛同をメールで集めるという手法はよくなかったと反省。だれでも参加できるものだけにインターネットを使うべきでした。すみません。でも封書なら分厚くなる量の資料もカラー写真も一瞬で送れ、情報が共有できるのは便利だなあ。
天明は江戸でもとても天変地異の多かった年間。飢饉、火事、地震、そして浅間山の大噴火。いままたプレートがおさまりきれない地震列島の上に行きているわれわれに警鐘を鳴らし、天を恐れることをおしえてくれる遺跡だと思うのだが。ダム湖観光などに来る人より、フィールドミュージアムのほうがずっとおおいとも思うのだが。サックス奏者、坂田明さんから賛同、酸性の吾妻川にミジンコはいるかな、と返信したら「どんなところでもいって調べて見ないとわかりません」とのこと。

2月19日

2013年3月11日 月曜日

町の食べられる景観を一緒に調べた千葉大の木下勇さんも、八ッ場ダムについて力づよいメールをくれた。
「川原湯温泉も今は4軒とは、何ともやるせない地域の方々の怒りと無念さが推し量られます。遺跡群と温泉等の資源を活用したフィールドミュージアムの構想を支持します。脱原発で水力発電の重要性をといってもダムの適地、不適地もある。火山層で地盤が脆弱等、今日いろいろな科学者の関わりでも様々な疑問が提起されている中で、これだけの文化遺産が存在する地域を、50年近く前の計画に固執することは愚かな行為と思います。地元の長年の反対を権力によって押し切り地域をずたずたに破戒してきた行為が、人々の心理面にどんな影響を与えたかを想像するに難くない。今の政権の公共工事による経済再生といってもその効果は今日かなり疑問だが、そんな政治的判断の道具にさせてはならないと思います。
 フィールドミュージアムには川原湯温泉はじめ、地域の生活や文化がいかにこの開発計画によって変化したかという「大規模開発計画と地域の生活史」のような記録も紹介するのも企画として考えられるのでは。そして、これだけの話題で多くの人が関わったからには、その地域の再生に多くの人が関わり、それも記録して現在進行形の参加型のミュージアムの展示資料とするような。それだけの文化人が関われば、今世紀型の地域の再生が可能かと思います」