2012年2月 のアーカイブ

震災日録 2月28日 寄田さんからメール

2012年2月28日 火曜日

放射線の影響がどの程度のものか? よくわからない。
陸前高田の材木を燃やすことや、岩手県の瓦礫処理までヒステリックに反対する人たちにはうんざりする。
子どもが小さければ注意するのは当たり前だが、いますぐ福島から逃げろ、逃げないヤツは馬鹿だ、というような文言にも違和感を感ずる。
当面、私自身はウクライナ基準くらいのものなら食べる。一bqも出ちゃいけない、というのは現実的に無理だ。福島でも群馬でも栃木でも必要ならいく。
友人の馬の調教者でホースセラピストの寄田勝彦さんから。許可を得て公開します。長文だがぜひ読んで欲しい。
彼は沖縄や粟島で福島からのこどもたちのキャンプを行い、しかも福島にあたらしく牧場をつくることにしました。福島にこどもたちがいる限り。

「僕は原発に反対です。
世界にある、全ての原発がなくなれば良いと思っています。
低線量被爆もなくすべきと考えています。
特に自分で選択出来ない子どもたちを大人が守るのは当然の事なので、命を基準としたルールを作ることが重要だと考えます。
分からない事は安全サイドに立って考えるべきです。
そして、命のボトムラインはお金ではありません。
お金を基準に命を計量することは許しがたい侮辱です。

これが僕の思考と行動の前提であり、原理です。

さて、ここから原理を超えた現実の話になります。
ある人が定住に繋がる支援はやってはいけないと語ります。
これは、原理主義としては賛成です。
しかし、原理主義の問題点は、切り捨てられるものが多すぎるという事です。
ゆえに、原理主義はファシズム的にならざるを得ません。

考えてみます。

定住に繋がる支援と、定住に繋がらない支援、二つの支援は何が違うのでしょうか?
定住に繋がる支援とは、その場所で暮らす人の暮らしの質を高めるという事でしょう。定住に繋がらない支援とは、今暮らしている場所からの避難して別の場所で暮らす為の支援を指すのでしょう。

この二つの活動を明確に分類し、かつどちらかの活動が悪であるという判断は非常に危険です。
それは、分断を生み出します。それだけではなく、「暮らす人により添う」という内在化された支援が不可能となります。

「私たちは福島です」ここから始める事が重要です。フクシマではありません。

政府や報道が正確な情報を流さないという話とは別の次元です。
正当な市民の権利として正確な情報を獲得する権利があります。なので、政府は正確な情報を提供する事が責務です。その意味で、現在の状況が正確な情報によって生み出されているとは全く思えませんし、政府の発表を信じる気持ちには未だに全くなりません。
しかし、だからといって、暮らしを二分化した価値観で判断するのは間違いです。

逃げたいと考える人には、誠実に対応すべきです。
もちろん必要な支援を受ける権利を失うことがあってはいけません。
残って暮らしたいと考える人にも誠実に対応すべきです。
残る権利もやっぱりあるのです。

凄く環境の悪い地域で暮らしている家族が複数います。
100キロ離れたところに、とても環境の良い暮らしの場所があります。
ある人がやって来て、家族に言いました。
ここから100キロ離れた場所に家を建ててあげるからそこで暮らしなさい。
全ての家族にそのチャンスを与えますと言いました。
でも、やっぱり全ての家族がその提案に参加するわけではありませんでした。
数家族は生まれ育った環境の悪い地域で生きることを選びました。
ある人がいいました、こんな環境の悪い場所に残ると判断する人間は、親として失格だから、何の支援もしません。もし、君が改心したら、新しい場所で新しい暮らしを準備しましょう。
バカはだれか?

スラム街で暮らす子どもたちがいます。
この子どもたちがスラム街から出るという条件を満たすなら、支援をしましょう。
しかし、スラム街で暮らし続けるならば一切の支援をしません。
それは、スラム街での暮らしを認める事になるから。
スラム街を出るしか解決方法はないのですから、支援は条件付です。
これは良いのか?

強制的で暴力的な移動でない限り人は、完全にまとまることはありません。そしてもし、強制力によってまとまったしても、幸福とはほど遠いです。
必ず残ることを選択する人がいます。
そのぐらい歴史や文化は重いものです。時として命よりも重くなってしまいます。
ゆえに、この状況においては、人々に分断が生まれます。
残る人はバカで出て行く人が賢い。
残る人は情報が不足しているのであって、啓蒙が必要である。
残る人が無責任で、出て行く人が責任のある行動を取っている。
この分断と侮辱を増長させるのが、このファシズム的支援です。
これはやってはいけない。
その流れは啓蒙的にならざるを得ず、内発性を排除し、ファシズム的になります。

全ての命は輝く権利を持っています。
その権利は権利を超えて尊厳です。
この尊厳を奪うことは誰にも出来ません。
そしてその尊厳を尊重し認めるという責任を僕たちは負っています。
その尊厳に対して必要な支援を提供することは辞めてはいけません。
何よりも必要な支援なのです。
この尊厳に対する支援は、外部と内部の関係では構築出来ません。
「より添う」という事がどうしても不可欠です。
いかなる命にも寄り添うこと、それは私たちが内部として生きている事に他なりません。
この事がとても重要なのであり、このことがボトムラインなのです」

震災日録 2月27日 越後の粟島

2012年2月28日 火曜日

並行して新潟の粟島の聞取り調査をおこしている。いまも独立自尊の合併しない誇り高い島だが、昔のはなしを聞くと、涙が出てくる。「学校をつくるため、島民はせっせとアワビを採ってその収益をあてた」。過疎地対策費で立派な校舎をたてたりはしないのだ。
「自家発電を最初にしたのは昭和27年、それも夜だけ。テレビが見られるようになったのは昭和44年だった」「診療所をつくってもなかなか医者がいつかなかった。いまは高速船があるからいいけど、むかしは屈強な若者が20人くらい、病人を乗せて早船で岩船までおくった」。みんないっしょうけんめい生きてきた。
アイルランドの絶海の孤島、スケリッグ・マイケルもかくやと思うばかり。あそこにはマンクスミズナギドリもいるし。いや違うな、アラン島だな。海藻を肥料にするあたり。でもあんなに平らじゃないか。

震災日録 2月26日 お風呂とビール

2012年2月28日 火曜日

日曜日なのに。1日仕事。岩波『世界』からゲラがきたので、あちらも仕事なんだなと連帯感湧く。今回は「東京も被災地だった」と根津山の湯や谷中コミュニティセンターの建て替えについて書いた。これも進行中のことだからなかなかうまくいかず。
もちろん、そのうち藤倉さんなりなんなり、それぞれ詳細に論文でも書いてくれるだろう。3月4日午後1時半から、コミセンで。
午後は午後で、みんなで考える「谷中防災コミュニティ」
http://www.yanesen.net/topics/detail.php?id=479

午前中は谷中・千駄木の歴史の会、1945年のこの日、谷根千は空襲でやられ、谷中で70人以上、千駄木でも60人以上なくなっている。
http://311.yanesen.org/
とにかく前のように集中力もたず。サトコが帰って来たので「お風呂行こうか」と富士見湯へ。そしたら今日は100円だった。得した気分で「ビール一杯飲もう!」と薬師坂の「なかや」に。立ち飲みだけど初めてはいった。たくさんの純米酒が安い。このつぎね。

震災日録 2月25日 頭は青鞜

2012年2月28日 火曜日

『青鞜』の冒険を「こころ」に書く。ちょうど平塚らいてうに奥村博が戻って来て、2人で赤城にいっちゃって、留守番の伊藤野枝が獅子奮迅のところへ、木村荘太からラブレターが来て動揺する。今までのと違い、私は谷根千との比較をしながら雑誌編輯としての『青鞜』を地誌にからませて書いているのだが、なんでも個人的なことを『青鞜』誌上に書いてしまうところはすごいなあ。ひとからきたラブレターも、結婚に当っての伴侶への質問状も、親にあてた独立宣言も。そのうえ、会ってもいないのに妄想で求愛するオトコとか、恋人たちの間に割り込んで俺をないがしろにするならみんなばらすぞと脅迫するオトコとか、大正ってへんなのがおおいなあ、とあきれながら書いた。疲れるたのでヒロシと野池さんにお寿司を食べに行った。そしたら若いころから知っているケンちゃんも立派な旦那さんになられたので、「苗字はなんて仰るの」ときいたのだけど、「『昔通り、ケンちゃんでいいですよ』と言ってくれた。うれしいな。そのあと、ペチコートレーンで甥のヒコベエたちのライブ。窓のそとに谷中を楽しむ人たちが通るのもいい。ここのママ、アキオさんに世話になった若い人はおおいなあ。みんな覚えているよ、いつまでも。

震災日録 2月24日 元商社マンの意見

2012年2月28日 火曜日

聞いて来たことをすぐ起こさないと、メモは使い道がなくなる。かなり疲れて来たけど、石巻の話をまとめる。4時に赤坂でひょんなことであった人。退職した商社マンです。「ロンドンにいたとき確信したのは、福祉がよすぎるとひとは働く気がなくなる。生活保護の方が働くよりいいと働かない」「社会はピラミッドだから不公平があっていい。みんな平等ではなりたたない」「我々サラリーマンは税金をばっちり取られるから。消費税1本にした方がよっぽどフェアだ」「大阪の橋下はいいと思いますよ。ああいうのにやらせればいい」一緒にいた恵美ちゃんともどもむかつきながら反論するのも疲れ、さっさと帰って来た。未だにああいうひと、いるんだなあ。

震災日録 2月23日 元のところに家を建てちゃいけないの?

2012年2月28日 火曜日

石巻周辺の被災地をみて来て感じたこと。みなさん、食べ物、着るものはもう十分あると言っておられました。瓦礫の処理もかなり進んでいました。
しかし仮設の人には赤十字から家電6点セットがくるが、自宅を直している人や、二階に住む人など、仮設・借り上げ以外に住む人には何も来ない。といった不満も聞きました。
瓦礫の片付け、物資支援、炊き出しなどの終わったあと何をすべきなのでしょうか?
町づくりだと思います。それぞれ高台移転と現地再建でゆれています。仮設単位で説明会をしても住民の意志は見えてきません。かつての集落単位のコミュニティを大事にすること。集落ごとの新聞を出して遠くに身を寄せている仲間に伝えること。ちりじりにならないように。行事や祭り、伝統芸能などを大事にすることも、コミュニティ保全につながります。
集落ごとに話し合い、いっせのせで高台に移る必要もないかと思います。
どうせ行政が金をかけすぎて高台を造成するころには、結構な家族が都市部に腰を落ち着けてしまうのではないか。八ッ場ダムの代替地のように。「高台ができるのをまっていたら死んじゃうよ」と賃貸の復興住宅に入った方がいっておられました。
また海際は再建築不許可にする動きもありますが、「もとのところに戻りたい。津波がくればこんどこそすぐ逃げればいいんだ」という人も居た。根津のおじいさんが「地震が来たらこの長屋で潰されても本望だ」といっていたのを思い出しました。どこで生きるのも、どこで死ぬのも憲法に保障された自由ではないか。

震災日録 2月22日 最初の読み手

2012年2月28日 火曜日

『建築士』という専門雑誌に石巻の復興村のことを書いた。そしたら編集長の建築家井出建さんからメールがきた。
「広域合併のこと、熊谷さんが重要な役割を果たしていることへの言及、そしてとりわけ入居者の小山さんの聞書きに引込まれ、一気に読み進みました。
被災した人の生活、生活設計、地域が行当たっていることありありと感じられました。
使い捨て、ゴミをつくる横柄な方法でなく、『夢のような話―手造りで美しい試み』真っ当な方法で僅かといえども、10棟も実現しつつある報告、書いていただき、とてもうれしかったです」
こちらこそこんな感想を聞けて嬉しい。送っても「2行多いです」「明日までに校正してもどしてください」なんてだけ書いてくる人が多い中で、井出さんは建築家が本業だけど、ほんとうに今どき珍しいまっとうな編集者だ。3月号、読んでください。

震災日録 2月21日 世の中なんかおかしい

2012年2月28日 火曜日

川本眞理さんのくれたヒヤシンスが咲いた。今年のは白。いいにおい。
手帳をどこかに忘れて来てパニック。「じゃあもういいよ、どこにも行かなくて」とサトコ。それもいいなあ。うちのマンションが大規模改修に入り、ものすごい音で足場を組み、それを支えるために壁に穴をあけている。なんだか虫歯を治すのに穴をあけている感じ。でも大規模修繕なんてまだいらないんじゃないか、と言わなかった私にはいまさら何か言える義理はない。
東京中小企業家同友会文京区支部の小池一貴という人から、4月20日の講演は、別の人にも依頼してあって、お2人から承諾をいただいたが、今回はその人に頼むことになった、なにとぞご了承ください、というメールあり。これはビジネスの倫理を逸脱した下品なやり方だと思うが、こんなことが中小企業家の中ではまかり通っているのだろうか。
共同通信は母親が子どもを殺した容疑者の母子の写真を間違えたが、私のところへは源泉徴収票を私のと山根基世さんのをまちがえて送って来た。しかも留守中に家族にまちがった方を送り返すように伝言したそうである。まちがうことは誰にもあるが、その場合は私ならちゃんと謝りに行くな。前に別の社がまちがった時は対応が丁寧で、あとでお詫びに香水入れかなんか送って来た。今回はあまりに安易なやり方にあきれる。
読売新聞は2年くらいは、といった都内版の連載を半年で打ち切ったうえ、調べたら50万以上の原稿料を未払いだった。なんでこんなことが起るのか。連載中にも担当者は一度も会いにこなかった。一度くらいはお茶でも、といったのに「仕事で忙しいですから」というのは私の連載はしごとの範囲ではないと言うことか。
もうすこし、前向きなことにエネルギーを使いたいので、直ぐに忘れることにする。

震災日録 2月20日 登米で高橋哲郎さんと再会

2012年2月28日 火曜日

「大正10年の生まれで91歳になりました。70年スレート屋根をやっています。もう危ないからやめろと言うんだけども。熟練があるからしたでいいから指導してやってくれと言われて。
私はさいしょ父と一緒にスレート掘りをやったが、のちにおじさんについて屋根葺きになった。私は重要文化財の登米小学校の卒業生です。あれは山越喜三郎という人の設計で、外廊下だし、ガラスばりで寒そうに思うが子供の頃はそうも思わなかったね。わたしは地理と歴史は好きだったな。算数はきらいだった。
スレート山は外貨獲得の手段だった。他から金取るにはよかったんだね。もう一つ自慢は登米の能を伝承していることです。櫻井八郎衛門という人が陸奥仙台藩の第五代当主伊達吉村に呼ばれて来た。釣の七太夫といわれた大蔵正座衛門とこの櫻井を受け継いだのが登米の能です。
天狗に誉められるところで『由々しい』というのがズーズー弁だもんで「ゆゆすす」となっちまう。これを東京でやったら大笑いされちゃった。で、帰って来てもめてねえ。
やっぱり『由々しい』とやらないといかんのじゃないか、とか、いんや、俺だちの土地のことばでいいんだとかねえ。伊達藩だけに伝わる能というのもあるんでがすよ。
『摺上げ原』という戦国時代に磐梯山の麓で伊達軍と蘆名が闘った闘いを歌ったもので、これは伊達の殿様の許可が出なければやってはいけなかった。
しかしこの能というのが屋根葺きと多いに関係がある。葺きごもりといって葺き終わると謡を一くさりというわけさ、式三番と決まっていますがね。
昔はスレート山に入る鉱口のところは人の土地だが、中はどこ掘ってもいいことになっていた。三尺したは国のものだから鉱山局に許可さえ取れば。石だからのみをあててトンカチで叩いて、穴開けて発破つめてその間は外で煙草飲んでまっている。しかし山はいい石が採れるときと採れないときと交互なの。魔石というくず石ばかり出る時もあって金ばかりかかってどうにもならないからすっぱりやめたの。
前にも話したように、明治22年に篠原源次郎という人が雄勝にいい石の山があると見つけて、このときのスレートは今の前の木造の国会議事堂になった。嵐が来ても地震が来てもびくともしないからスレートはたいしたものだとその後、需要が増えた。日本銀行の各支店や法務省はじめ役所の屋根。私がやったのでは日銀京都支店や高松の四国支店があります。まんず威張って葺いてやるって風で、飯場でなく、旅館に滞在して葺いていたね。
それで24歳からは葺く方に回って。終戦後だね。
昭和27年に戦争で焼けた東京駅を葺きに行った。ドラム缶を作るような亜鉛鉄板で応急処置してあったが、機関車の煤とか、ブレーキがレールに軋んですり減ったレールの錆が亜鉛鉄板に飛んで穴があいていた。それでスレートで葺き直すことになった。およそ創建時に戻す余力なんかなくて、そのまま三角屋根で。登米のスレートを貨車で持って行ったんだが。我々は11人いて、八重洲口のガード下、障子会社の倉庫を開けてもらってそこに畳を敷詰めて臨時の宿舎をつくった。45日間で仕上げたの。それも登米と雄勝とどっち使うということになったら、宮城県知事がケンカになるから半々で使えというから。登米のスレートの方が目が細かくて絶対水を通さない。質がいいんだよ。雄勝の方は表面に豆粒みたいな泡があって、その水文字が味があっていいという人もいるが水が染み通って行くんだな。
熱さは2、3ミリでうろこ形に加工した。ウロコにするには金がかかって、そうでない方が水滴もたまらなくていいんだが。
監督は大林組で、国鉄の管理課長が毎日みたいに来てたな。ああいうのは日当でなく、1坪葺いていくらだからがんばればがんばるほど稼ぎがいい。
あの頃はスレートはどんどん来た。その結束に使った藁を古着屋さんが毎日取りにきていた。銭湯に売って燃やすんだって。6尺ほどの山ができるのを荷車で持って行ってその代わりに酒をくれた。あるときは国鉄の組合が強い頃でストライキをやった。そしたら国鉄がさっそく調べて宇都宮まで来ているのがわかったから、それで1日休みになったんだ。それで銀座に行って片岡千恵蔵の時代劇を見たな」まだまだはなしは続きます。

震災日録 2月19日 仮設住宅にて

2012年2月28日 火曜日

女川と雄勝を見学。坂茂さんのコンテナ3階だて仮設にすむNさん夫婦の話。
夫「うちの家族は大丈夫だったけど、妻の弟の奥さんと娘がなくなった。雄勝にいた姪がまだ遺体も出てこない。妻が脳梗塞をやったので日赤で検査しているところだった」
奥さん帰る。あら、こんな汚くしててごめんなさい。
妻「日赤の看護士さんは優しいものだね。車椅子でそうっと下ろしてもらって桃生町の避難所に一週間いた。そのときは紙コップがよれよれになるまで使って、だから割り箸でもなんでも今でも捨てられない。ちり紙がなくて困ったり、温かいご飯を食べたときは涙が出たし、今までの生活はなんだったんだろうって、どこの家も豊かで何不自由ないくらしで神様が怒ったのかなと思う。女川のうちの周りでも110人のうち、60人なくなったの。そのうちのひとりになったような気がして、いまも生きている気がしない」
夫「娘がいる古川で世話になっていたんだけど、やっぱり女川が好きで帰りたくなっちゃった。それで仮設に申し込んだら最後だったのでこんないいところが当って。残りものに福があったってわけ」
妻「家のあったのはこのすぐ下。だからよくわかっているし、まわりは緑が多くて散歩することもできる。八百屋さんも魚屋さんもここまで来てくれるから買物の心配もない。
とにかく最初からボランティアさんたちが支援してくれてありがたいの。警察の人にがんばってね、なんて言われると涙出たよ。あの人たちも外に寝泊まりして、水道で頭洗ったりしているんだもん。うちのお風呂に入りにきてね、といったんだけど。
写真洗いにきてくれる人もいるしね。アフリカの人が来て太鼓叩いたんだよ。そうしたらリズムに乗って嬉しい感じがしてくるんだよ。人と人がこんなにつながれるなんて。今、私はめざめたの。みんなにこんなに心配してもらって、そうすっとこのへんに生えている雑草だって引き抜いちゃ行けないようなきがしてくる。
それに私車椅子に乗って歩けなかったの。それなのに震災のあとはどんどん元気になって、いまではすたすた歩いてる」
夫「この年になってこんな思いをするとは思わなかった。でも子供なのにこんな怖い思いをした方が可哀想だね。もうこんなつらいおもいはさせたくない。津波てんでんこ、というのは本当だね。ひとを助けようと思って流された人は多かった。
他の仮設よりいいらしいのは、隣の音がまるで聞こえないこと。上の音もそう聞こえないし。結露もしない。断熱もできて温かい」
妻「よくをいえば、ものが増えてすぐ狭くなっちゃった。それと風呂の追い炊きができないのでガス代がけっこうかかるの。衛生面で問題があるというのでどこもそうらしいけど。家賃はないけど電気代や暖房代、ガス代は自分持ちだから。町外の子供のところにいる人なんかにはまったく支援はないのよね」
そのほか、雄勝の硯職人、女川のスレート職人の声を聞いた。熊谷さんの家でつぶしたてのカモをご馳走になった。近所の館山さんが三味線を持って来て「さんさ時雨」を弾いてくれた。