震災日録 2月19日 仮設住宅にて

女川と雄勝を見学。坂茂さんのコンテナ3階だて仮設にすむNさん夫婦の話。
夫「うちの家族は大丈夫だったけど、妻の弟の奥さんと娘がなくなった。雄勝にいた姪がまだ遺体も出てこない。妻が脳梗塞をやったので日赤で検査しているところだった」
奥さん帰る。あら、こんな汚くしててごめんなさい。
妻「日赤の看護士さんは優しいものだね。車椅子でそうっと下ろしてもらって桃生町の避難所に一週間いた。そのときは紙コップがよれよれになるまで使って、だから割り箸でもなんでも今でも捨てられない。ちり紙がなくて困ったり、温かいご飯を食べたときは涙が出たし、今までの生活はなんだったんだろうって、どこの家も豊かで何不自由ないくらしで神様が怒ったのかなと思う。女川のうちの周りでも110人のうち、60人なくなったの。そのうちのひとりになったような気がして、いまも生きている気がしない」
夫「娘がいる古川で世話になっていたんだけど、やっぱり女川が好きで帰りたくなっちゃった。それで仮設に申し込んだら最後だったのでこんないいところが当って。残りものに福があったってわけ」
妻「家のあったのはこのすぐ下。だからよくわかっているし、まわりは緑が多くて散歩することもできる。八百屋さんも魚屋さんもここまで来てくれるから買物の心配もない。
とにかく最初からボランティアさんたちが支援してくれてありがたいの。警察の人にがんばってね、なんて言われると涙出たよ。あの人たちも外に寝泊まりして、水道で頭洗ったりしているんだもん。うちのお風呂に入りにきてね、といったんだけど。
写真洗いにきてくれる人もいるしね。アフリカの人が来て太鼓叩いたんだよ。そうしたらリズムに乗って嬉しい感じがしてくるんだよ。人と人がこんなにつながれるなんて。今、私はめざめたの。みんなにこんなに心配してもらって、そうすっとこのへんに生えている雑草だって引き抜いちゃ行けないようなきがしてくる。
それに私車椅子に乗って歩けなかったの。それなのに震災のあとはどんどん元気になって、いまではすたすた歩いてる」
夫「この年になってこんな思いをするとは思わなかった。でも子供なのにこんな怖い思いをした方が可哀想だね。もうこんなつらいおもいはさせたくない。津波てんでんこ、というのは本当だね。ひとを助けようと思って流された人は多かった。
他の仮設よりいいらしいのは、隣の音がまるで聞こえないこと。上の音もそう聞こえないし。結露もしない。断熱もできて温かい」
妻「よくをいえば、ものが増えてすぐ狭くなっちゃった。それと風呂の追い炊きができないのでガス代がけっこうかかるの。衛生面で問題があるというのでどこもそうらしいけど。家賃はないけど電気代や暖房代、ガス代は自分持ちだから。町外の子供のところにいる人なんかにはまったく支援はないのよね」
そのほか、雄勝の硯職人、女川のスレート職人の声を聞いた。熊谷さんの家でつぶしたてのカモをご馳走になった。近所の館山さんが三味線を持って来て「さんさ時雨」を弾いてくれた。