震災日録 2月20日 登米で高橋哲郎さんと再会

「大正10年の生まれで91歳になりました。70年スレート屋根をやっています。もう危ないからやめろと言うんだけども。熟練があるからしたでいいから指導してやってくれと言われて。
私はさいしょ父と一緒にスレート掘りをやったが、のちにおじさんについて屋根葺きになった。私は重要文化財の登米小学校の卒業生です。あれは山越喜三郎という人の設計で、外廊下だし、ガラスばりで寒そうに思うが子供の頃はそうも思わなかったね。わたしは地理と歴史は好きだったな。算数はきらいだった。
スレート山は外貨獲得の手段だった。他から金取るにはよかったんだね。もう一つ自慢は登米の能を伝承していることです。櫻井八郎衛門という人が陸奥仙台藩の第五代当主伊達吉村に呼ばれて来た。釣の七太夫といわれた大蔵正座衛門とこの櫻井を受け継いだのが登米の能です。
天狗に誉められるところで『由々しい』というのがズーズー弁だもんで「ゆゆすす」となっちまう。これを東京でやったら大笑いされちゃった。で、帰って来てもめてねえ。
やっぱり『由々しい』とやらないといかんのじゃないか、とか、いんや、俺だちの土地のことばでいいんだとかねえ。伊達藩だけに伝わる能というのもあるんでがすよ。
『摺上げ原』という戦国時代に磐梯山の麓で伊達軍と蘆名が闘った闘いを歌ったもので、これは伊達の殿様の許可が出なければやってはいけなかった。
しかしこの能というのが屋根葺きと多いに関係がある。葺きごもりといって葺き終わると謡を一くさりというわけさ、式三番と決まっていますがね。
昔はスレート山に入る鉱口のところは人の土地だが、中はどこ掘ってもいいことになっていた。三尺したは国のものだから鉱山局に許可さえ取れば。石だからのみをあててトンカチで叩いて、穴開けて発破つめてその間は外で煙草飲んでまっている。しかし山はいい石が採れるときと採れないときと交互なの。魔石というくず石ばかり出る時もあって金ばかりかかってどうにもならないからすっぱりやめたの。
前にも話したように、明治22年に篠原源次郎という人が雄勝にいい石の山があると見つけて、このときのスレートは今の前の木造の国会議事堂になった。嵐が来ても地震が来てもびくともしないからスレートはたいしたものだとその後、需要が増えた。日本銀行の各支店や法務省はじめ役所の屋根。私がやったのでは日銀京都支店や高松の四国支店があります。まんず威張って葺いてやるって風で、飯場でなく、旅館に滞在して葺いていたね。
それで24歳からは葺く方に回って。終戦後だね。
昭和27年に戦争で焼けた東京駅を葺きに行った。ドラム缶を作るような亜鉛鉄板で応急処置してあったが、機関車の煤とか、ブレーキがレールに軋んですり減ったレールの錆が亜鉛鉄板に飛んで穴があいていた。それでスレートで葺き直すことになった。およそ創建時に戻す余力なんかなくて、そのまま三角屋根で。登米のスレートを貨車で持って行ったんだが。我々は11人いて、八重洲口のガード下、障子会社の倉庫を開けてもらってそこに畳を敷詰めて臨時の宿舎をつくった。45日間で仕上げたの。それも登米と雄勝とどっち使うということになったら、宮城県知事がケンカになるから半々で使えというから。登米のスレートの方が目が細かくて絶対水を通さない。質がいいんだよ。雄勝の方は表面に豆粒みたいな泡があって、その水文字が味があっていいという人もいるが水が染み通って行くんだな。
熱さは2、3ミリでうろこ形に加工した。ウロコにするには金がかかって、そうでない方が水滴もたまらなくていいんだが。
監督は大林組で、国鉄の管理課長が毎日みたいに来てたな。ああいうのは日当でなく、1坪葺いていくらだからがんばればがんばるほど稼ぎがいい。
あの頃はスレートはどんどん来た。その結束に使った藁を古着屋さんが毎日取りにきていた。銭湯に売って燃やすんだって。6尺ほどの山ができるのを荷車で持って行ってその代わりに酒をくれた。あるときは国鉄の組合が強い頃でストライキをやった。そしたら国鉄がさっそく調べて宇都宮まで来ているのがわかったから、それで1日休みになったんだ。それで銀座に行って片岡千恵蔵の時代劇を見たな」まだまだはなしは続きます。