‘くまのかたこと’ カテゴリーのアーカイブ

ルアンパパンまで船で下る旅
2月4日 バンコク〜チェンコーン〜ワイサイ

2017年4月26日 水曜日

朝早い便のため、泊まった空港のホテルはフロントの感じも悪かったし、蚊もいたし、設備も良くない。外は飛行機の発着でうるさく、朝の5時に目覚まして、5時45分にサンドさん、志保子さん、Duangさんと集合して6時のバスで空港へ向かった。7時半の便でチェンライに飛ぶ。そこからバスに乗って1時間半で国境の町チェンコーンまで行って、そこでラオスの国境を超えた。麻薬を持っていて捕まった女性の写真が大々的に貼ってある。やるなよ、ってことか。

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ラオスの色は紫と黄色とブルーとグリーン。通貨単位はキープで、一万円を替えると80万キープとかある。そこからまたバスに乗った。紹介されたプーキーさんに会う。精悍な顔の美男子だ。NGOの仕事をしていてお父さんは地方公務員で、家でお米を作っている。軽トラに荷物を乗せ、5人乗りでワイサイの彼の家まで行く。Duangさんが荷台に乗る。気持ち良さそう。家の裏の林の中にピクニックランチが用意されていた。これは今まで食べた中でも五本の指に入る気持ちの良い食事である。そこらへんを走りまわっている鶏の焼いたのと魚の焼いたの、それからラタンを茹でて、皮をむいたものが出た。このラタンは苦味があって、歯ごたえも良く、お醤油みたいなタレにつけて食べると大変美味しいし、体にも良さそう。

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最後に菜の花のたくさん入った鶏がらのスープが出た。これは滋養があって安心なので野菜とともども、胃を壊したサンドさもたくさん食べた。ラオスのビールはさっぱりしてて東南アジアで1番おいしいと言われている。お父さんが53でお母さんは40代の終わり、プーキーさんは30くらいだろう。中国人が入り込んできて大規模なビジネスを展開し、カジノまで作ろうとしてると眉をしかめた。プーキーの家ではお米、それも焼き畑で陸稲を作って売っている。お金がないとき、お母さんがラタンを売りに行って12ドルもうけたことがあった。食用ラタンはよい値で売れるそうである。2番目の弟に子供は何人かいて、今日もたくさんの人たちが寄ってきてご飯を食べていた。

おばあちゃんが赤ん坊を抱いている。男の孫同士が喧嘩したらおばあちゃんがしかった。近所の助け合いが生きてるようで、今日はこの畑をやったら次は隣人の畑を手伝う、というような協力関係ができている。そこで3時間も休んだ。鶏スープの鶏は土佐ジローぐらい美味しい。黒い鳥と言って1キロで12ドルする。噛みごたえのあるものでした。お別れを言ってまたトラックに乗る。いい季節で土曜日だし、結婚式をやっていたが、全くの西洋スタイルだった。それからサンドさんが必要な帽子とライターを2つ買って、メコン川の切符を買う。一人2500バーツくらいだった。そして今日泊まるホテルに行って休んだ。

その後町のリバーサイドレストランで夜の食事をした。トムヤンクン、卵焼き、パッタイなどを食べる。ホテルで休んだのだけど、夜中に大火事が起こり、三軒先まで燃えて、これはこっちにも日が来るかもしれないと、荷物をまとめ、逃げ出す用意をしてずっと見ていた。消防がなかなか来なくて、でも死人が出なくてよかった。

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2月5日 メコン川下〜パクペン

2017年4月26日 水曜日

翌日プーキーさんが来て一緒に麺を食べた。とってもおいしかったけど、とても高かった。水も付いて1人100バーツくらい。この国境の町ではキープもバーツも使える。その店には一族が来て朝からお酒を飲んで歌を歌っている。美空ひばりにそっくりな髪の毛アップにして、眉毛を切り替えた女の人がマイクを持って離さない。眉毛を引いて、目張りを入れ、真っ赤な口紅を塗り、髪の毛をアップにして花の飾りをつけたりしているのでひばりそっくりに見える。

11時に出発すると言う船が全然出なくて、どんどんどんどん観光客を乗せる。後から後からリュックを背負った若者が来る。まるで船が重荷で沈んでいくようなのが怖かった。儲けるだけ儲けようと言うつもりらしい。結局たくさんのグループ、英語を話す若い兄ちゃん姉ちゃん達を乗せて出発したのが12時。ところがこの若者たちのマナーの悪いことったら大変なもので、ビールを飲みまくり、そのたんびに手洗いに行き、お手洗いは300人の乗客に1つしかなく、いつ行っても5人くらいは並んでいて大騒ぎ。「何人なの?」とサンドさんに聞くと、若者相手の国際ツアーじゃないのかな」と言う。

私たちの席は1番前で良かったんだけど、後から乗ってきた人にどんどん占拠されてきた。川沿いの景色は、豚がいたり鹿がいたり、バファローがいたり、のんびりして代わり映えがしない。緑の中を走り、途中から両岸ともラオスになった。住民で、大きな家具やベッドを下ろして、迎えに来た人達とゆっくり運んでいくのが見えた。パクペンと言う中継地についた。ほんとにひなびた岸辺の小さな村で、泊まったホテルも悪くはない。坂に沿って一本の道しかなく、レストランは船の人たちでいっぱい。味はなんとなくお味噌っぽいというか、トマトケチャップ入れたような濃い味付けだった。

サンドさんはまだ胃の調子がいまいちなので生野菜は気をつけて、あげた春巻きとかスープとかそんなものを食べた。

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2月6日 パクペン〜ルアンパパン

2017年4月26日 水曜日

ゆっくり寝て次の日朝8時半に起きて麺を食べに行く。1番に市場で鳥の焼いたの、豚の焼いたのなどを船の中の昼食のために買い込んだ。ネズミとかカエルとかを焼いて売っていた。おばあさんたちは近くの村から頭に紐でかけて荷物を運んできた。ほんとに素朴な村だった。近代は市場の前にATMの機械が2つあるのだけ。山の上のほうに住んでる家は高床式で草ぶきだった。その日は予定どおり朝9時に出発。昨日の乗客が2手に分かれ、うるさい若者たちはもう一つの船に行ったので、やれやれ。でも船の持ち主なのか、ローカルピープルの女の子達がすごく威張っていて、我が物顔だった。ご飯は最後尾の景色の良い所に行って川を見ながら食べた。朝のうちはかなり寒くてイタリア人で子供三人の家族は寒い寒いと言っていた。前の1等席に座ったけどその分、風が強く寒いらしかった。

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私の席は景色がそんなに見えないけど、寒くはなかった。私もヒートテックの下を履いて、あったかいマフラーも出した。思ったより早く、ルアンパパンに夕方4時ぐらいについて、それでシーロー(トゥクトゥク)に乗る交渉がまた大変、1人25,000キープで4人で100,000キープとか言うからすごく高く感じる。訳がわかんなくて、でも計算すると1人4ドル位。8人載せないと発車しない。そして確かに20キロもないけど、町までは歩いてはいけないくらい遠かった。

私たちが泊まるホテルはリバーサイドの良いところにあるコロニアルの建物だ。中国風のちょうちんがついているのはあまりいただけないけど、部屋も緑の壁で古風な扇風機が付いていてなかなかいい。アメニティグッズや石鹸も今までのところよりずっといい。いつもタオルが白鳥の形にたたんであるのがおかしい。

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夜はナイトマーケットに行って、フンパンさんと言う若いビデオジャーナリストと会っていろんな話をした。彼はLooking Forと言うおじさんと自分の家族のことを作ったショートフィルムを作ったばかり。おじいさんは植民地時代の人なので、フランス語ができてフランス語を学校で教えたそうだ。ルアンパパンは前に来た時よりはるかにいいホテルなので、なんだか印象が良い。夜リバーサイドホテルのレストランでご飯を食べて、春巻きもラオス風のソーセージも、袋茸の炒め物もおいしかった。

2月7日

2017年4月26日 水曜日

朝食はホテルで。トーストと目玉焼きとコーヒーとフルーツなど。川の見えるバルコニーで。

街を歩き回る。世界遺産になって二十年、この町は前に来たときよりも良い方に変わっているように思える。一番、植民地時代の建物が多い高台の通り、ほとんど綺麗にリノベして高級ホテルやレストランになっている。町歩きを楽しみ、お寺もずいぶん見た。お寺の壁画は戦争についてのものが多い。ヘリテージセンターに行くと、世界遺産の範囲はもっとずっと広く、沼や水辺もある。伝統的な家を教えてくれて行ってみたが閉まっていた。ミュージアムも見る。昼は20,000キープであまり美味しくない麺を食べた。カオソーイだと言ったが、タイのイサーンで食べるカオソーイとは全く違う。夕方、フンパンさんの家に招かれ、ビールを飲みながら彼の作ったヴィデオを見た。ちょっとドキュメンタリーとは思えない、ノスタルジックな劇場映画のようだった。

彼は広い庭の居心地の良さそうな家に二人の子供と住んでいた。祖父の死に際し、一時お坊さんになったという。

夜は、フランス料理とラオス料理のフュージョンの店に行った。かなり洗練されて、見栄えも良かったが、素朴さはない。しかしここはラオスの若者を飲食店で働く人に育てるという使命を持っている。Tシャツの背中にはティーチャーとかスチューデントとかアルファベットで書いてある。若者の教育と自立を促すレストランで面白かった。

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2月8日

2017年4月26日 水曜日

ホテルの朝ごはんを食べないで、高台の美味しい麺やさんに行く。ぴったり8時に店の人が現れ、湯を沸かし、お皿を積み重ね、野菜を切り、肉を湯がき、麺を茹でる。その手順の儀式のようなすばらしさに見とれる。とても美味しかった。午前中はクッキングスクールに参加。ジョルダンは料理が好き。英語をよくしゃべる、冗談ばかり言うインストラクターが、まず市場に連れて行ってくれる。買い物をして、緑あふれる蓮池のほとりのスクールで、5種類もの難しい料理を作った。バッファローのサラダとか、レモングラスの中に鳥のひき肉を詰めて蒸したものとか、魚を葉っぱで巻いて蒸したものとか、お米はカオニャウという私の大好きなもち米。参加者はドイツ、スイス、ブラジル、オーストラリアなどの白人ばかりで、弁護士や医者がいた。スイスの人は私のつけている病人ヘルプマークが赤十字とハートマークなのだが、「スイス大好きってことでしょ?ありがとう!」などと話しかけてきた。確かに。これで席を譲ってもらったことは二度しかないけどね。

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午前中かけて調理。そのあとビールで試食、欲張ったけど食べきれない。
腹ごなしに山に登る。そこからの景色は素晴らしい。夜、空いているレストランがなくて、またリバーサイドの中国料理で、前に食べなかったものを頼んだ。ナイトマーケットはどこも同じようなものばかり売っている。イサムノグチみたいな竹ヒゴのランターンとか、切り紙残ったのとか。ただし、裸電球で目が眩しく先に帰る。

2月9日

2017年4月26日 水曜日

朝のバスで陸路、タイのロエイという町まで乗る。7時間かかる。

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バスはオンボロで、休憩のランチも化学調味料で閉口したが、ドライバーが実に頼りになりそうないい顔をしていて、これなら事故も起こさないだろうと思えた。あっという間に7時間が経ち、ロエイのバス停に初めて会う佐伯馨さんが待っていた。佐伯さんはいろんな仕事をしたのち、かなり前にルアンパバンの語学学校で日本語を教えていたことがある。Duanngさんとも長い友達で、ロエイまで迎えに来てくれたのである。この町にも佐伯さんの友達がいて、その一家で今日は晩ご飯をご馳走になる。とっても美味しかったが、何を食べたかまでは記録しなかった。それより、家族の楽しそうな暮らしに驚いた。お父さんやお兄ちゃんが、庭の隅でドラムを叩いてギターを弾いて、歌を歌って、ビールを飲んだ。こんな生活ができるなら最高!

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ヤンゴンに行けなかったの巻

2017年3月2日 木曜日

1月29日から旧友ジョルダン・サンドさんに誘われ、ミャンマーの首都ヤンゴンの下町の調査に行くことにしていた。とにかく出るだけで精一杯で、本の校正を一週間ですませ、28日の夜にはトランクに荷物を詰めて、と。朝になって、急に、ミャンマーってヴィザはいらないのかな、と疑問になる。やっぱりいるらしい。

前に陸路でタイから入ったときには現地で申請できたので、今回ヴィザを取らなきゃいけないことをすっかり忘れていた。でも当たって砕けろで、羽田に向かう。タイ国際航空でバンコク経由だ。カウンターで早速、「ミャンマー入国のヴィザはありますか」と聞かれて、「ないです、現地で申請する予定です」と言うと、「とんでもない、外交招待状のある人以外は無理です。こないだ来た人も家に帰っていただきました」と言われた。

「今から電子申請したら6時間以内にバンコクに着く頃は出てるんではないか」とか色々言ってみるが、「それも無理です。今日は日曜ですし」という。「じゃぁバンコクまで行ってウロウロしてます。そのあとの調査の予定もありますし」というと、順番に使う格安チケットなので、1でバンコクまで行ったところで2、3のヤンゴン往復が使ってないと4のバンコクから羽田には乗れないと言い出した。片道で買うとどうなるのって聞いたら100,000円はしますと言われたので、もうすごすご家に帰ろうかと思う。それでサンドさんに今回はリタイヤしますとメールしたところ、また戻ってみるとカウンターの女性が、電報打ちます、99%、帰りは乗れると思いますがそれなら行きますかと言われた。「いつもオタク使ってんだから頼むよ」と言ってそのままバンコクまで来てしまった。

羽田空港で河合桃ちゃんにバンコクの知ってる人を1人紹介してもらい、タイに詳しい槇さんに宿を取ってもらった。今までは誰かと一緒だったけど、初めて1人でスワンナプーム空港から空港シティーラインに乗ってペチャブリで降りてそれからMRTと云う地下鉄に乗り換えて北に上がったところのフェイクワンと言う駅に着く。そこからまた遠いので、スーツケースを引いて歩くわけにもいかず、シクロを雇って50 バーツが高いのかどうかわからないけどもKTゲストハウスに着いた。

まだ明るかった。緑に囲まれたとても静かで良いホテルで、広々していて、欧米人ばかり。家族連れもいる。NGOのメンバーも多いという。ただ欧米人がタイ人の彼女を連れているのもいる。のんびりするにはいいホテル。私は205号室で隣がプールだった。早速ドボンと1つ浴びて、これから後5日間、何もやることないんだ。と言っても、来る直前まで仕事ばかりで、風邪もひいていたし、胃腸の調子も良くなかった。これは神様のくれた休暇と思うしかない。

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街に何か食べに行った。かなり遠くの市場まで歩いたけど、あまりこれという店がなくて戻りがけにあった小さな街の食堂に入ったら、まぁ皆さん親切。空芯菜いためてくれと言ったら、これも入れるかといって豚肉を指差して、これがまたコリコリカリカリで美味しくて、ついでにふくろだけも入れてもらって、その炒め物でビールを飲んだ。ビールは大瓶だから全部は飲みきれなかった。それから卵焼きも作ってくれた。食堂の人がみんなまかない食みたいなのを食べてる。一人メインシェフみたいなおばさんがいて、あとは若い女の子たちがTシャツに七分丈のズボンで実によく働く。他にも体動かして働いてる人が多いので町中、非常に健全な気がする。直しやさんとか木工屋さん、自動車の修理やさんとかいろんなもの。家電線がものすごい数、張り巡らされているけど危なくないんだろうか。木の間も通ってるがあまり気にしてないらしい。素晴らしい夕焼けが見えた。あ、りすだ、電線の上張ってて危ないなぁ。

こっちに来て気がついたこと。地下鉄のつり革は真ん中にしかないので立ってる乗客が座ってる乗客の上に威圧的に覆い被さったしないのはいいと思う。みんなきちっと並んで乗るのもいいと思う。年上の人がいる時は若い人が席を譲るのもいいと思う。地下鉄の切符は機械より、窓口で買ったほうがいい。でもスクンビットもペップリーもフェイクアンもなかなか伝わらない。しかし地下鉄とBTSという高架鉄道が同じ券で乗れないのは面倒だ。

駅にはバイクの黄色いジャケットを着たお兄ちゃんがいて、どこまででも乗せてってくれる。にいちゃんはヘルメットをかぶっているが客はかぶってない。こっちは20 バーツ。1日10回人を乗せて200バーツ、百回で2000バーツ。バイクは恋人どうして乗ってるのもいい。

またソイという横丁沿いに運んでくれる乗り合いのトクトクのようなものがある。少し余分に出すと荷物を家までお届けてくれたりする。これも便利な交通手段。

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部屋は650 バーツ、エアコンを使うと690 。あー、12時間も眠って膀胱炎になりかかっていたのも治って風邪も少し良くなった。

1月30日

2017年3月2日 木曜日

9時になったらもういいかなと思って、前にお世話になったNさんの友達のKさんと言う方に連絡した。Nさんは旦那さんがこちらで広告会社を経営していて、息子さんはチュラロンコーン大学生のものすごい美男子だった。チュラ大というのは、バンコクにある東大みたいなものだ。イタリアンでランチして、3時間もエステをして、ジム・トンプソンのアウトレットに連れて行ってもらったりして、バッグパッカーの私はバンコクにこんな優雅な生活があるとはと驚愕したのだった。そのNさんもすでに東京へ帰られたという。

そのまたご友人のKさんと、MRTに4つ乗ってBTSに乗り換えて1つのファランボーン駅で待ち合わせした。とても要領の良い教え方なのでいけると思う。

伺った話では、Kさんは関西出身で、旦那さんは建設会社のオーナー。彼はバンコクで生まれたそうだ。戦後にご両親がこっちに来て仕事を始めたそうだ。

旦那さんは日本で勉強したのでその時知り合って、こっちに来てもう30年以上いるという。娘さんと息子さんが高校も大学も東京、ご自分の親も東京で行ったり来たり。でも旦那さんのお母さんにしてみれば、もう60年以上住んでいるので、バンコクを離れる気はないらしい。

私が650 バーツの宿にいるって聞いたらのけぞっていた。朝は35バーツ出街角の麺屋で食べたと聞いても驚いていた。その屋台もすごくきれいなお姉さんとおばあちゃんと2人でやっていてすごく親切でおいしかった。

「私はそういうところには行ったことがないからほんとにバンコクの狭い社会での中で生きてるだけなのよ」とKさんは言った。「特にボランティアとか何か社会的文化的な仕事してるわけじゃないし」。

チェンマイの奥地のラフ族の話をしたら、「ほんとにそういう話を聞いてびっくりするわ」という。正直な方だ。それでこれからお友達と一緒にご飯を食べましょうよと言うので、エンポリアムの下のホテルで待ち合わせした。この辺は駐在員や日本人在住者の多いところ。その中の1人はこのホテルの最上階にお住いだとか。3回目の駐在というSさんはマッサージも好きだし、ジムトンプソンの家でボランティアガイドをしていていろんな情報を教えてもらった。それからもう1人は小柄で綺麗な人で猫が病気になったので心配をしていた。もう1人は艶やかで、大柄で優しかった。

皆の服はカジュアルだけど、どっかに光物のベルトとか指輪とか銀色の靴とか履いていて、おしゃれでバックはみんなプラダとかヴュトンとかブランド品を持っていた。せっかく日本人が来たんだからと言って、ちょっとおしゃれな郊外の1軒家のタイ料理に連れてってもらった。割ったら300 バーツだからそんな高くはなかった。1000円位。適当にいろんなもの頼んでもらったけど全ておいしかった。特に憧れの茄子のたたきが食べられた。私はスイカジュースを飲んだ。そこに来ているタイ人は裕福そうで、みんな尊敬されていた国王の死を悼んで黒い服を着ていた。

バンコクは暑いが、クーラーが寒いのでみんな席につくとさっさとカーディガンとか羽織るものを取り出す。さすがに長いだけのことはある。私だけ寒かった。観光客は何色を着てもいいそうだ。または黒い喪章をつける。王妃も体調が悪い。来月行われる葬式には退位したがってる、高齢な天皇皇后の見えるという。確かにタイと日本の皇室には長い友好の歴史があった。次の王様のことについては皆あまり話さない。

みなさん、しっかりした甲斐性のある夫を持ち、異国でこういう風に日常を生きていく人達もいるんだなぁと感慨深かった。皆さん親切で韓国エステの店を予約してくれて、3時まで時間があり、ショッピングも興味ないし、別の足裏マッサージの家に時間つぶしに入ったけど、ここは300もとった割にほんとやる気のない女性が何かいやいやもんでる感じで良くなかった。

その後行ったところは1000バーツでものすごくいろんなことをしてくれた。顔に様々なクリームを塗ってほっとく間に足を揉んだり、腰を揉んだり背中を揉んだりするんでもう1時間半でくたくたになった。お茶も出してくれて韓国人のマダムもとても感じがよく、英語も上手でまた来たくなるような店だった。

帰りにダブルダブルツリーのホテルを抜けると、今度はヒルトンに繋がってて、ヒルトンを抜けたらもうエンポリアムがあって、そこから駅に直結してた。でもこんなビル街はあまり興味がない。国王の喪に服してる割には、中国の春節なので真っ赤な飾りがいっぱい付いている。駅はすごく簡素な作りで、暑いから風が吹き抜けて日本みたいに閉鎖的じゃない。BTSは窓口は両替だけであとは機械でコインで買えという。間違って15ですむところを31も払って16 バーツ損してしまった。

駅からまたバイクに乗ってゲストハウスまで帰ったけど、夕方でものすごく渋滞しているところをすり抜けすり抜けていくので、私は何度も隣の車に足を擦りそうになった。少し休んで、近くのイサーン料理の小さな店に行く。表に素焼きのポットが並んでいる。すき焼きと言われたけど、これはどう見てもしゃぶしゃぶ。とてもおいしい。家でもやってみたいが、このみかんの葉っぱとレモングラスと生姜のような香草がないとこんな味は出ない。白菜、空芯菜、春雨、鶏肉も豚肉も牛肉も、さらにイカとエビも入っていても盛りだくさん。東京のコカレストランなら3000円コース。全部卵で絡めてあるので、それを入れると卵がぶくぶくと固まってなかなかおいしい。スープも飲みほしたらお腹いっぱいになった。これとビールで210 バーツ、700円くらい。

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1月31日

2017年3月2日 木曜日

ホテルに帰って、浅田次郎の文庫本を読みながら9時には寝てしまった。夜中に起きてまた2章ぐらい読んで、起きたら8時だった。それで昨日のKさんにお礼の電話をしたところよかったら今日も来ませんかと言うことになり、11時ぐらいに家を訪ねることになった。習字の自習教室をやっているらしい。11時ごろに豪華な名前のマンションに行きました。

古いけどおちつけて広い部屋。夫婦2人で住んでいて8階にはお母様。もうひとりのTさんの旦那さんは台湾の方のようで台湾生まれで、今お父さんが90でバンコクにいるので、動けないし置いても帰れないのでずっといるという。もう1人来ていたAさんの旦那さんも会社のオーナーで、郊外に1戸建ての家にたくさんの骨董品があるので、ミニミュージアムみたいになってる。建設や食品や部品や化学関係で、日本人がいろんな会社を経営しているようなのだ。

皆さん1番心配なのは医療で、「日本人はあんなに安く医療が受けられることを当たり前に思ってるけどそんな国は世界中にない」「ゆりかごから墓場までのイギリスでもがんがわかってもお金がなければ診察は1年先になるので、やっぱりお金を払っていい病院に行く」「タイでも30 バーツ診療とかいうのタクシンがやったけども重病で30 バーツで済む話はない。だから日本から来る時は傷害保険に入ってきた方が良い」などと口々に話していた。

今日は日本人が多いホテルで昼ごはんをしようというので、どんなに高い店かなとちょっと心配になったが、298バーツでめちゃくちゃ何でも食べれるビュッフェで結構おいしかった。

それからもう暇なんだしと、近くのワットポーの出店に行ったけど、足裏のマッサージが250バーツ、タイマッサージが300バーツ、合わせて2時間のところ1時間40分しかやってくれない。観光化と流れ作業化が進んでいる。だからチップあげなかった。

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それからまた例の街の食堂に行って、ビールを飲みながら若い女の子が一生懸命切ったり炒めたり煮たりしてるの見てたら、涙が出そうになる。ちょうどバス停の前なのでバスから降りた人も何か買って行く。オートバイの兄ちゃんも買いに来る。みんなビールなんか飲まない。定食のカオパット、炒めご飯を食べている人や、パッタイ、台風の幅広麺の焼きそばを食べている人も、テレビを見上げながら食べて出て行く。

2月1日

2017年3月2日 木曜日

今朝は朝早く起きて、8時にホテルの食堂でパンとトーストとコーヒーと卵を1個食べて出かけた。8時台の地下鉄は混んでいる。みんな整然と並び、無理には乗らなくて次の待っている。

スクンビットでサイアムセンターという古い古い様式の建物のミュージアムにいく。100バーツ。キャベツ畑と呼ばれるスアンパッカード宮殿へ。行ってみると朝香宮邸という感じ。そこはすごく広かったけどもバッチャン焼きと古いものがたくさんあった。以前はキャベツ畑だったそうだが、ビル街になっているのに驚いた。それからサイアムで乗り換えて、ナショナルスタジアムでおり、これで3度目、ジム・トンプソンの家まで、わりと簡単についた。

ものすごい混んでいるが、日本人は私しかいない。中国人とフランス、ドイツ、英語と日本語のツアーがあるらしい。なかなか美人で丸顔の人が日本語で私1人に説明してくれた。その話によれば、ジム・トンプソンはアメリカのデラウェア州の人で、奥さんと別れて、東南アジアに来て、シルクに魅せられて、タイシルクを産業に育てた。もともとは建築家だったので、川に面したこの土地に、家もデザインして作った。いろんな寺の扉とかみんな持ってきちゃって、床には大理石を敷き詰めて、自分の集めた骨董品を飾ってとんでもない家をつくった。雇い人は料理1人とあと2人ぐらいだったとそうだ。

インドネシアやマレーシアも行って、マレーシアで1960年代に行方不明となって、生きているとしてももう100は過ぎているんだからこの世にはいないだろう。昨日会った人は私にジム・トンプソンを書いたら面白いわよ、と言っていたが、吉川勇一が訳した伝記もあり、松本清張が「熱い絹」と言う小説を書いているらしい。

それから気持ちの良い1階のハスの花の池に面したレストランでバジル炒めの豚肉でご飯、シンハビール、これは400バーツも払った。

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それから今度また水路をつたってどこまでも行ってみた。なにせ暇だ。終点で降りたらどうもここから国立美術館は近そう。今日もう3つみたのに、まだ2時だ。何も交通機関がないからトクトクにのったら100 バーツもとられた。最初は200というので、50といったら、タイ人でも100 はもらうんだとか言ったけど、だったら最初から100と言えって感じ。ミュージアムは王様の喪に服すためと修復中で半分位。でもこれだけみれば十分。いろんな仏像があって時代によって顔が全然違う。それから王様の神輿とか、輿とか、みんな見てヘトヘトだった。そのあともバスもわからないし、トゥクトゥクにまた乗るのもシャクだし、とにかくカオサンを抜けて元の船着き場まで戻る。昔はカオサンの200バーツの安宿に何度か止まったが、もういい。だらしない格好で、酒を飲んで、怠惰に生きているだけの連中が沈殿してとぐろを巻いている薄気味悪い感じの街。

生オレンジジュースを飲んで船にのったらすごいきもちよくて、川辺が1番緑が多いと思う。たった11バーツで降りたらなんとペップリーの駅前だった。あと4つ乗ればフェイクアン。そして例のバイクにまたがってホテルに帰った。また例のよく働く少女たちの店で今度は海鮮炒めを作ってもらう。私だってビール、でも大瓶一本は飲まない。