ドイツから清水里美さん、沖津の山梨道夫さん来る。きょうはすわ神社のお祭り。暑いので町歩きというより歩きのみ。まずはそば川村で喜楽長で穴子の天ぷら、鴨、たまごやき、せろり、それから神社、富士見坂、谷中銀座、また暑くて山岸で、うなぎ、鯉のカルパッチョ、肝やきなどでビール、それから須藤公園を抜けてわが工房に案内し、による被災地や福島の記録について、ドイツの脱原発に付いてなど話す。里美さんを千駄木駅に送り、みっちゃんと焼き鳥屋でビール、さすがに飲み過ぎ。
いつも悩むことであるが、『千駄木の漱石』でも女性の名前の不統一が気になる。
例えば夏目鏡子はこの名で本を出している。『漱石の思い出』。一般的には鏡子で通っているが、しかし戸籍名はキヨ、お鏡さんとも呼ばれていたに違いない。『道草』の妻はお住と呼ばれている。子どもも恒、お恒、恒坊などと呼ばれていた。
反対に漱石の母は千枝だけど千枝子なのかもしれない。家系図でも漱石の姉は澤、さわとあって澤子となっていないし、房、ふさ、とあって房子ではない。この曖昧な線引き。漱石の思慕の人も嫂登世、日根野れんは子がついていない。大塚楠緒子と楠緒は両方の表記がある。ややこしい。
森峰はわたしはずっとこの表記を使って来たが、『鴎外・母の日記』は森峰子著となっているそうだ。それはずっとのちに出した人がしたこと。大昔は男性にもかわいいを著す子を付けた。平安時代の宮中では一条天皇の彰子、定子が音読みで読まれた。しかし庶民の女性はみね、さだ、あき、りょう、いく、と二文字が普通で、それは明治になってもつづいた。しかし家族や知識人の女性が「子」を付けることをおしゃれと感じたり、手紙などあらたまった時に付けたりした。樋口一葉もなつ、奈津、夏子などといろいろ署名している。鳳しようが本名の与謝野晶子はしように晶子の名を当てた。
『鴎外の坂』でも峰、しげ、きよを使って喜美子、登志子を使うのはおかしいかったかも。結論、江戸時代生まれの人は峰、明治生まれは鏡子にした。