2012年5月 のアーカイブ

やたら人を思い出す四月

2012年5月22日 火曜日

3・11以降、まいにちブログを書いてきた。そんなエネルギーはどこから出てきたのかと思う。1年間で7、800枚ぶんあるだろう。毎日読んで考える材料にしたという人もいた。ドイツにいる小学校の同級生はこれで日本の実情がわかったといってくれた、頭に血が上って書いたラブレターのようなものだ。そのうち読むに耐えないに違いない。3月後半はニューヨークにいって仕事しないでぼーっと町を歩いていた。4月になったらやたら人を思い出す。私も雲の向こうの方に知り合いが多くなってきた。引っ越しまであとどのくらいか。57というと一葉の2倍生き、漱石を8年こえ、鴎外まであと3年。


神保町のブログを読んでいたら黒岩比佐子さんのことを何度も書いている方があった。
その蔵書はちゃんとしたところに収蔵されたという。黒岩さんの本で最初に読んだのは村井弦斎に関する本だった。河内紀さんも伝記を書こうとされていたから、あらら、と思ったが、よい本だった。伝書鳩の本も耳の聞こえないヴァイオリニストの本も面白かった。
あったのは1回きり、国木田独歩について聞こうという小さな集まりだった。黒岩さんはすてきなスーツを着ていた。「初めまして」と挨拶すると、「あら、一箱古本市で森さんの箱から買ってサインしてもらいましたよ」とニコニコされた。それですっかり好きになってしまった。病気になられたときいて、とにかく治ってほしいとおもったのは須賀敦子さんと同じくらい思った。東大病院だと聞いてお見舞いもしたいと思ったが、それほど親しくない身ではそれもはばかられ、ただ祈っていた。読売の書評をよく書いておられ、少しほっとしたり、堺利彦伝のことを心配したりした。彼女の真価を知る方達が周りにたくさんおられてよかったと思う。


その黒岩さんに注目していたのが彷書月刊の田村治芳さんで「あの人はまだまだ伸びる」と注目していた。田村さんの作家評はよく当たる。賞をたくさん取った人のことも「代表作といえるものがない」などと平気でいう。この人は古本屋だから10年後、20年後の市場に生き残って行くかどうかを見ているのだろう。黒岩さんの本は少ないが、どれも歴史に耐える本である。田村さんは「谷根千はやめたら歴史になる。研究が始まる」といっていたが、アメリカの大学からバックナンバーの注文がいくつかあった。日本の大学は東大しかこなかったが。ある雑誌の創刊パーティに招かれ、その新編集長は「小さくてもインパクトのあるメディアを目指したい。広告批評や本の雑誌みたいな」といった。その場に田村さんもいて「彷書月刊や谷根千みたいな」といわなかったね、といって二人で飲みに行った。そんなことを思い出す。わたしは宮城で畑をしていてなかなかお見舞いにも行けなかった。夏にとれたての野菜と無添加の醤油をもって家を訪ねると喜んで2時間くらい話した。白いゆったりしたシャツを着てひげが伸びて韓国のおじいさんみたいだった。葬儀の日は地方で仕事を引き受けていて行けなかった。息子の次郎ちゃんの育成室で先生をしていた娘が「いいお葬式だったよ」といったが、田村さんといっしょに、ある楽しい時代がどこかに消えてしまったようだ。


最近若くしてなくなる女性学者が多い、とネットの記事にあってお茶の水女子大の菅聡子さんがなくなったのを知った。驚いた。まだ40代なはず。すてきでかわいい名前とぴったりの印象の方であった。一回だけお会いしたのは女性作家人名事典が出たので、対談したのだ。本当に頭が良くて、勉強熱心で、気を使う方だった。そのあと妹さんが博多織をしているからとテーブルセンターを送ってくださった。恐縮したし、うちにはもったいない絹なのでまだ大事にしまってある。それから韓国に女性史の旅をするから、参加なさいませんかとメールをいただいた。それが最後で、本当に残念だ。


新聞で萩野靖乃さんがなくなられたのを知った。NHKでドキュメンタリーの仕事をしていた。わたしは『密航』というすごいドキュメンタリーをネオネオ座で見たのが最初だ。
玄界灘の小舟にすっくとたったままレポートする萩野さんは大島渚の若い頃のようにかっこ良かった。じっさいの萩野さんもすてきだった。それから私たちの映像ドキュメントの会に来てくださったり、横浜で飲んだりしたけど、いつも含羞の青年のようだった。
お酒が弾んで三十三年までの赤線の話など出て、私は面白く聞いたが、後で下品なこと行っちゃってと気にしておられた。樺美智子と同級生で、彼女の伝記がでたとき、あの頃を知っているとちょっと違うなあという感じですよ、と本を送ってくれた。少年のような方であった。


近代文学館の広報誌が来たので、読んでいるうち、宇治土公三津子さんのことを思い出した。文学館の館員をながくつとめられて、パーティでお会いしたのが最初だった。「小堀杏奴さんのお子さんから聞きましたが、森さんの伝記は公平で暖かいと杏奴さんがおっしゃっていたそうですよ」という一言はとてもうれしかった。林芙美子の相棒のことを調べていらしたがそのお仕事はまとまったのだろうか?


巣鴨にあった青鞜社のあとを久しぶりにあるいていた。4半世紀前に調べたときとはかなり違う。らいてうの実家のあたりはマンションになっていたし、巣鴨の家のあたりも立て込んでしまい、昔をしのぶよすがは跡形もなかった。


自転車で駒込病院の前を通った。
そしたらここに入院していて、「ごはんたべようよ」と電話をかけてきた倉本四郎さんのことを思い出した。健康に詳しく、私の体も気功で直してくださったのに。おしゃれな名前で書く本のタイトルもおしゃれだったので、あったときはあんまりざっくばらんなのでびっくりした。横浜で飲んで、別れるときにはハグしていた。倉本さんが残してくれた友達。河野万理子さんや北川健次さんのことも思い出すだけで懐かしい、あの逗子の庭。


上野でおりて、不忍池に曲がる角の菊屋にはじめて入ってみた。洋食が何となく食べたくて。海老フライとハンバーグが時々食べたくなる。このお店は古い店で、須賀利雄というもと上野のれん会の会長だった方がご主人だった。須賀さんは東京大学の美学をでた方と聞いていて、いちど上野桜木町のお宅にお邪魔したこともあったのだが、最近、新潟の粟島にいったら、楠木正成の銅像に関する須賀利雄さんの戦前の論考に出くわし、なんでこんなところで、とびっくり。さっそく「うえの」の真辺さんにご連絡して、須賀さんの論文を紹介しながらして随筆を書かせていただいた。


池の端中町を久しぶりに通ったら、増田静江さんのことを思い出した。彼女もこのへんの地主さんで、台東区が池之端仲町にパンダ通りとかピエロ通りとか名前を替えようとしたときに、私のところへ「そんな下品な名前、許せますか」と連絡をくださった。たしかに仲町はよくありそうで、江戸の一番の繁華街で、参勤交代に来た侍が母や妹の土産に櫛や手柄を買ったところなのだ。池波正太郎の小説にも仲町の日野屋とかでてくる。増田さんはその後、那須にニキ・ド・サンファルの美術館をオープンし、一度来てください、と何度か誘われたのに、行かなかった。女性実業家であるとともに、情熱の女性だった。旦那さんの増田通二さんと対談したとき、「どこで奥様とお出会いになったのですか」と聞いたら「本郷の坂で拾ったんですよ」と照れた。かっこいいなあ、と思った。パルコを創業した増田通二さんも今はおられない。

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橋本文隆さんのことも思い出す。建築家で江戸川アパート育ちであって、江戸川アパートの保存再生に尽くされたがうまく行かなかった。銀座で三遊亭鳳楽師匠を招いて「いやなら寄席」というのをなさっていた。そこで日建設計の林昌二さんに紹介された。林さんも気さくな方で橋本さんは「森さん、はやく話を聞いといた方がいいよ」といわれたが、そのままになってしまった。林夫人の林雅子さんは女性建築家の草分けで、村松伸さんがその設計した家にお住まいなはずである。

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地下鉄に乗っていたら携帯が鳴り、兵庫三田の陶芸家石田陶春さんがなくなられたのを知った。愛媛の亀岡徹さんや由布院の中谷健太郎さんとともに何度楽しい夜を過ごしたことか。頼れる姉ちゃんのような存在で谷根千を何かと気にして枝豆や寒天やいろんなものを送ってくださった。最初お会いしたときはたっぷりふくよかで、作務衣がお似合いだったが、お会いするたびにほっそりなさってゆく。しかし弱音や愚痴はいっさいいわない方だった。この20年、谷根千を支えてくださった地方の友達は多いが、その筆頭であり、彼女の個展が三越で開かれるたびに、東京でもお話ししたり、飲んだりしたのにである。
そのとき買ったお皿は毎日使い、だから毎日思い出す。もちろん、ぐい飲みなどいくつもいただいてそれも愛用しているのだが。

まだまだ思い出すけれどとめどない。自分としても50すぎたらもうけもの、だと思っている。そのことばさえ、原発事故のあと若者の前ではいうのが申し訳ない。「もうしかたがないや、あきらめた」と若者はいう。亡き人を銘記することに意味があるのは、後に続く世代を信じられるときである。地球が保つか保たないか、それすら危ういときではあるが、望みをつないで、書き留めてみた。

「海にそうて歩く」番外編6 金華山‐鮎川まで

2012年5月21日 月曜日

どうにか空が持って雨が降らずに女川までついた。鹿又旅館の入り口は立派だったが通された部屋は暗い。古くても由緒があればいいが、戦後の鉄筋の薄汚れ、雨のしみなどが出ているのは悲しい。暗くて仕事ができないので部屋を替えてくれと言ったら替えてくれた。台風でキャンセルが出たらしい。
マグロの刺身、かにと鯛のしゃぶしゃぶ、鳥の唐揚げ。まあ贅沢を言わなければいい量。夜、足りなくなった原稿用紙を買いにいく。台風の目前で文房具店はしまっており、強風の中を傘をさして遠くまで歩く。波がうねる。
ひとは昔海からきた。海に帰りたがるのは本能であり、浄い。高村光太郎の詩が刻まれていた。
一夜明けて台風一過。空は真っ青。9時発の金華山行きに乗る。マルナか汽船に行って切符を買うが、係の女性が聞いたことに応えもせず、うるさそうに、そこに全部書いてありますよ、と言う。いい服を着ているから社長夫人かも知れない。
江島ゆきのフェリーもある。いいところですか、と待っている人に聞いた。「いいですよ。民宿もあります」と老婦人。「急に行ったって泊まれないよ」と船員。髭のハンサムな男が2人男の子を連れてやって来た。島に別荘を持っているのだそうな。コウトウですか、エジマですか、と聞くとエノシマですという答え。
金華山行きは大揺れ。波の上、波の下、ジェットコースターみたいにスリルがあってみんなキャーキャー言う。この様子を見るだけでもおかしい。右手に女川原発が見えた。なるほど人目に付かないリアス式の山陰につくるもんだ。
しかし金華山には神社があって鹿がいるだけだった。観光地であるがほかになにもない。土産やで帆立焼を頼み、ビール。うらうらと時を過ごす。民宿をやっているが客が来ないので叔母さんと嫁さんでワカメや昆布を一生懸命売っている。お嫁さんは都会的な美人である。どんな気持ちでこの島に嫁いできたのだろう。
11時の鮎川行き帰りの船はもっと立派だった。ほんの15分。上がると小駆動の男がマイクでがなり立てる。『五百名様収容の大レストラン』だと力説するが、船で着いた客は2、30人、なんの役にも立たない。ホエールランドとやらを観に行く。動物愛護で操業を禁止された船が廃船のように陳列されている。なかでは捕鯨の禁止がいかに不当か、せめて毎年50頭は取らせろ、などと書いてある。
フィルムをみると鯨は昔、手足を持つほ乳類だった。赤ちゃんはオッパイを飲み、海の上に顔を出して空気を吸う。実におもしろい生物だ。シロナガスクジラは私の体重の2500倍あり太っていることを瞬時忘れられた。

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外は食堂が並び、混雑。ウニ丼、いくら丼、アワビ、ミンククジラなどの字が躍る。くじらの珍宝子というのが陳列されていたっけ。
鯨の寿司を出すという店を教わり、歩く。桟橋を少し外れるともう人はいない。ひっそりして懐かしい町並みに小倉寿司はあった。
「今年は冷害、地震、台風とさんざんですわ。うちも大きな鏡が両側からの圧力で割れ、扉にとんで突き刺さり、あのときお客さんがいたらとぞっとしました」
鯨の寿司は上に白い脂身をお札のようにのせて海苔でまいてあり、さっぱりしておいしかった。
「調査捕鯨で50頭取ったぶんが少し回って来たんです。だいたいは自衛隊とか学校給食とか役所関係で消費したようですが」
イクラ、ウニ、タコ、アワビ、ハモ。
「うちのハモ、食べてみませんか?」
と押し付けがましくない応対がいい。
あっという間にバスが来た。
鮎川から石巻までは一瞬だった。ずっと居眠りしたのである。バスが揺れてはっと目が覚めると、他の客も久しぶりの日差しに疲れたのか、みんな寝ている。降りる段になって千数百円の払い、1時間半乗った実感がやっとわいた。

石巻は大都会、ここにもおいしい寿司屋があるらしいが、観光は断念して奥松島に早く行ってのんびりしたい。どこで降りるのか、まったく見当つかず。民宿桜荘に電話すると降りる駅は野蒜だった。センゴク線ですね、というと、センセキ線です、と私はまたよみ間違えた。
桜荘に4時につき、右も左も海と小島という絶景の集落を散歩する。かづま石とやらいう小石を混ぜ込んだ美しい青みがかった石の家が多い。1階を石造りにして、2階に下見の木の家をのせている。「波除ですか」と聞くと左官仕事をしていた老人が「いやおしゃれのつもりでしょう」といった。この前の地震でひび割れを起こしたところを直しているらしい。「これからスレートや瓦はやめてトタン板の屋根が増えるでしょうな」たしかに軒がわらがずれたり、落ちかけたりしている。
桜荘の料理はすごかった。これだけ有名な民宿はひとが溢れているかと思ったが、地震で鳴瀬町の名がでたためキャンセルもあるらしい。「とくに県内の方がね。地震は全国どこでも起きることなのに」と無念そう。

奥松島桜荘は無事だと風の便りに聞いた。また行ってみたい。

今日飛び込みできた客は名古屋の呉服屋さん、気ままな1人旅。
「テッレビや雑誌で言ううまい店だのいい宿だのの99%はウソ。ええころかげんなことをいうもんだで」彼によると阿倍も福田も竹中もええころかげんなことしかいわないそうで。「でもここの刺身はこりこりしてほんもんやな」とご満悦だった。
一段落したご主人の話。
「このあたり120戸ありますが、本当に漁師だけで食べているのはそうありません。仙台も石巻までも1時間かからないから勤め人が増えて、前は海苔やってた人が60人いましたが、いまは13名です。いまは牡蛎が多い。私は5人兄弟の長男で、会社勤めしながら朝仕事にアワビをとったりを続けていました。あわびはここを境に6、7月いっぱい。寒いときは水の透明度が増します。冬は餌の食いが悪くてしょっぱい。密漁の監視もします。農業は米だけで黒米、赤米、古代米を作っています。
「民宿は親の代から30年、季節季節13品は出ますし、特別料理など頼まなくても充分ですよ。漁師のこだわりで地物の白身魚を出しています。勤めていた頃は景気が良かったから民宿だけで保つかと思ったが、思い切ってやめないと民宿に全力投球できないので。さいわいこどもたち3人とも石巻商業で野球をやって素直に育ちました。宮城は育英、東北、仙台商業と競合が多くて3回戦ボーイだけど、いまだに友だちが多くて毎年みんなで旅行したり飲んだりしているようですよ。
お客さんは週末に集中していますから、たしかに早く予約をいただくとラクですね。手伝いを多く頼んで、宿はいつも清潔にしています、気を付けないと一晩でクモの巣が張ったりするからね。舟盛りとか作って出せばもうかるけど、そういうのはあんまり。
なにが出ますか、という人がいるけど、ナニがデルかわかりません。ウニも市場で買ったのは薬かかっているでしょ。あくまで海の都合ということで」
ホントウに食べきれないくらい、そして一品ずつがおいしかった。
翌朝、結城登美雄さんが奥さんの運転で迎えに来てくれる。旧知の主人は牡蛎もって行きませんか、とくれた。
私たちはそこから長面浦の坂下清子さんのところで和船を見せてもらったり、熊谷産業にいって北上川の河口の萱場をみたりしたのである。石巻の陶器屋さん観慶丸は1階が波がはいったがまだあると思う。

「海にそうて歩く」番外編5 木村満さんのはなし

2012年5月16日 水曜日

そこから雄勝天然スレートの木村社長を訪ねた。国産スレートで唯一の会社である。その話がおもしろい。
「うちの初代は木村幸治と言って、もとは船乗りだったが明治17年に創業しました。たぶん江戸の生まれでちょんまげ付けてた人なんでしょう。室町時代からここの石で硯をつくることは行われていたんですが、明治に入ると別の文房具、最初はスクールスレートでした。
山元義平と言う人が雄勝の長沼に遊びに来て、硯石の採掘場の後に入り、ザクザクといいスレートが取れるので石版に使うことを考えた。その人の名は恩人として山本公園にも山本祭りにも残っています。そのころ紙は貴重品で買えなかった。これを学習に使えると、東京の人が発見して合資会社をつくり、石版を取るためにひとを増やしてほしいと国に要請しました。そうしたら宮城県の刑務所から70人ばかり回してよこした。最終的に200人くらいきたそうです。
西南戦争の残党で椎原って西郷隆盛の奥さんの兄さんで総大将だったのが来てた。彼らは政治犯だからほとんど収監されず、刑務所内でも自立的に改良していた。仙台藩とは宿敵だが伊達はだらしないからあまり気にしなかった。
そのころ洋館の屋根のスレートは輸入していたんですが、ここにあるじゃないか、これは屋根に使えるということで、宮内庁の営繕課から何万枚という注文が来るようになりました。その人は篠崎源次郎という人です。関西の人で明治19年に日本の建築家を集めてドイツに連れて行って22年に国会議事堂の屋根を葺いて結局みんなその人から出た人。だから葺き職人は東京にいて、雄勝にはいねえっちゃ。杉山光雄さんが75か、もう体壊されたのでがっかりしました。
西日本工業倶楽部の屋根が傷んで落ちて来て困ると相談されて観に行ったことがある。どこの石かなあと思ったが、なかなかわからない。1枚2枚じゃわからないから量を見せてくれと言った。縦横斜めも関係なく挽いてある。これは職人でない人が挽いたな、と岩手で女の人を採用して挽いた石じゃないかと思う。こんな挽き方をしたら雄勝では職人じゃないといわれる。荒めじゃないから登米でもない。昭和40年代に修復したときの岩手の石じゃないかといまはそう思います。雄勝と同じいい石なんだが。
二代目は金治郎、定助ってお兄さんがいたんですが、内村鑑三の弟子になって跡を継がなかったんです。そのころ三陸には61カ所掘る山があって、家内工業で親父と息子で掘るというような形でやっていましたが、そのなかでは私のところが一番大きかった。うちの近くにも数件あったが、おらホの山は赤くなってた。
登米の山は石が豊かだが粗い。山掘りやって失敗した人は大勢います。トロッコで石を運び出してうまくいっているなあと思ううちに土砂が崩れて3か月仕事ができんようになって。その点、雄勝はリアス式海岸なので山が急なため岩脈が露出しているから掘ってそのまま落せばいい。地表近くにある質のいい岩脈に当たったのでそれをうちでは掘りつづけてきました。
いまはパワーシャベルがあるから掘り出すのも簡単だが、昔は1枚1枚丁寧にはがして、ノコギリで挽いて加工の具合を見た。だいたい石の特徴、建物の時代、ノコの弾き方でどこの石かわかる。志津川や女川でもとれますが、あそこのは中世代三畳紀の白っぽい石、陸前高田にもあった。堆積岩のうちで割れる性格のあるのを頁岩と言い、そのうち粘板岩をスレートと言います。
三代めは鉄郎と言います。私の父です。16のとき、お母さんの顔を鉛筆画でかいたのを残して家出をしたんですが、すぐ捕まった。お母さんはわかっていた。山超えて陸の孤島と言われる雄勝から川沿いに釜谷に出て船に乗ろうというところで船着き場で捕まった。この人も学者肌で、硯の本なんかは書いたんですが現場へは出なかった。
おやじはカツオ船も持っていた。名前が桃丸って言った。ここは宮城県桃生群だからそう付けたの。ロサンジェルスオリンピックのとき、各社の特派員がロサンジェルスから撮ったフィルムを積んで来た。船は海流の関係で必ずこの沖を通る。横浜に入るにはまだ1日2日かかるから、金華山沖を通るとき、それを海中に落とすから拾って陸路で東京に届けてくれればスクープになると、そんな話もあった。朝日だったか毎日だったか。その頼みに来た人も人に知られないよう、普通の服に下駄を履いて来た。
戦前、大東亜戦争までは物すごい勢いでインドに輸出をしていました。最初、インド綿を輸入しにいく船はからでいくと安定しないので水を積んでいったものです。替りにスレートを載せていくようになった。これは具合いいと、ここから神戸までの運賃より神戸からインドまでの運賃の方が安かった。おかげで大もうけしたわけです。あの頃は先進国はみんな石版を作って途上国の教育のために輸出していたんです。スレートの周りに気の枠を付ける。ドイツは手仕事を手放さない国で木工をしていましたから最後までやっていた。戦後アメリカの復興物資をもらった見返りに日本からはベトナムなんかにずいぶんスレートがいっていました。
書いては消し、書いては消す。紙がないから頭で覚える。で、インド人は暗算が強い。ダースで計算しても間違わない。
私が4代目、父が50のときの子で、母も46でしなびたおっぱいを吸って育ったのでこんなことになりました。わたしも写真家になりたかったのですがね。スレート屋としてやった仕事では京都府庁舎、北海道庁、山口県庁、西日本工業倶楽部、名古屋高裁、平成こどもの村、藤森照信先生の守屋神長館があります。
ヨーロッパは屋根が急勾配で、雪も雨もそんなに降らず乾燥しているからいいんだが、日本で無理なことをすると、雪や湿気で雨漏りしたりしますから。有名な建築家が無理な設計でスレート使いたいと言って来たが、絶対に雨漏りしますよ、といったんだが聞かなくてね、案の定、クレームだらけ。木村つとむさんは文建協に勤めながら東大で博士号を取った人だが、山形県庁舎のとき、雄勝の石でなければやらない、と言いました。いま日本は物価が高いので、外から輸入していますが、ポルトガルのは駄目ですね、安いけど10年でぼろぼろ。まえに石屋をやめるのでポルトガル産のスレートを引き取ってくれと言って来た人もあるが、みたら使えるものじゃありません。スペイン産のはいい。
石巻にはいい職人が2、3人はいました。うまい人がそれだけいれば、あとは下仕事の手が揃っていれば屋根葺きは早いんですよ。昔は瓦の穴あけも、うろこ形に切るのも現場でやっていた。切りかたもいろいろありますよ、菱形とか、はまぐりとか、ほかに約物、ハーフサイズ、スターターといろいろあって、組み合わせて使います。今うちでは穴あけは女性たちに教えてやってもらっているけどね。
東京駅の大正3年のときは雄勝の石ででもおらホのところの石だけではない。共同出荷という形だと思います。昭和27年に空襲後の東京駅を直した時には雄勝と登米のいい石を使ったんです。私はそのころ学生で森さんちの近くの小石川駕篭町にいました。後で本郷三丁目に移ったんですが、よく東京駅を観に行きました。うちの担当の人はじょうとうさんといったかな。こんどの修復でも基本的には前のいい石はできるだけ残して使ったほうがいい。尺二の立派なのを使っているからね。個人的には新材もそれでいいと思いますが、いまどうなっているのか。何も言ってこないから、土壇場になって何万枚そろえてくれと言われても困っちゃう」

木村社長はすばらしいスレートで全体を葺いた家で話してくれた。そのあと工場へ行ってスレートの実物を見せて、実際に切ってみせた。
1平米の屋根を葺くには50枚入りが二ついる。ひとつは44キロ。つまり一枚900グラム。尺丸とは尺×六寸。尺二は一尺二寸×6寸

工程は割る、――刃をあててコンと割るとぱりっと割れる。
ドリルで穴を明ける
烏帽子やうろこ形に糸鋸でカットする
たてに立てかける。もとの石を8枚や7枚に割ったのをひとまとまりにしておく。
スターターと最後のしあげ。

クギはステンレスクギ一寸一分を使う。
バブル時代にミサワホームと積水ハウスはスレート葺きを高級と売りにしていた。
兄の木村哲郎宅は和洋折衷が抵抗なくうまくいった例。
帳場は和畳、天井は漆喰折り上げしあげ、脇に応接間、家庭用玄関。
中之島公会堂補修服のときは4・5ミリでなく6ミリのスレートをはってしっかりやった。

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「海にそうて歩く」番外編4 雄勝の千葉茂さんと再会

2012年5月16日 水曜日

雄勝町町役場の千葉茂さんが迎えに来てくれた。町の産業振興課にいたころ、私たちの赤煉瓦の東京駅の保存運動を知り、連絡を下さった。そして雄勝や登米からはたくさんの保存賛同署名をいただいたものである。その時のお礼に登米や雄勝にはうかがいたいとずっと思ってきた。同い年なのでカーステレオにはユーミンやタイガースが入っていてなつかしい。天気さえよければと雄勝へと車を出してくれた、
「うちの親父はマグロ漁船に乗っていましたから子供のときはいないことが多かった。その後、養殖に転じました。雄勝は唐桑と並びカツオ漁船の基地で、カツオに懸けている人が多い。20何軒で船は30艘40艘あるでしょうか。農業をやっているうちは10軒ぐらいですか。僕がこどもの頃も母親たちは大変でした。地域の付き合いや、家のことや子育てや。さびしくて他の男とどうにかなる人もいたし、じっと待っている人もいた。ベーリング海にスケソウダラを追いかけて行ったときもあるし、ホヤやワカメの漁もある。アワビは2、3月かな、浜によって漁期は違うし、いまは産卵期なので獲らせないんです。ウニは昆布を食べにくるから、かご漁、たも網ですくう方法もあります。ウニはお盆前にみんなで獲って食べる。たまたまきのういただいて、海のホタテも食べました。建設課になってから台風、地震、津波がいやですね」
「昭和30年代は、中卒男子の半分は船乗りになりました。私のころでもクラスで5人はカツオ船に乗っています。子供のとき、竹竿で一升瓶を釣る練習をしたものです。私の学年でも海で死んだのが2人いますよ。私はカツオ船より大きなマグロ船に乗りたかったんですが、役場へ入ってしまいました。大きなマグロ船なんかに乗っていた人が帰って来て家の前で釣りなんかしてうっかり海に落ちてなくなることもあった。
津波は明治29年、昭和8年が有名ですが、私が覚えているのは昭和35年のチリ津波です。小学校へ入る前でしたが、朝飯を食っていた時に波が入って来て高台に逃げました。大人たちは波が引いた後に魚やウニが残ってたのを拾っていましたね」
「雄勝は葭原が有名で、シジミも採れます。雄勝はもと12000人いたんですがいまでは5000人、スレートの職人はほとんどいなくなりました。前は杉浦さんて、NHKにも出た人がいましたがいまは体調を壊されてます」
私たちはまず硯会館に行った。スレートと同じ石玄昌石でつくる主要産品で、江戸時代から続く。阿倍英峰さん、「いま十数人います。石を取るひと、彫る人、売る人、いろいろです。これは料紙彫りといいます。胸にのみをあてて彫ります」。私は手に入るくらい小さな硯を買った。
ホテル雀島からの景色がいいと連れて行ってもらった、そこから荒浜へ向うとコールタールを塗った不思議な小屋がいっぱいあった。
「これ屋根で昆布を干すんです、この軒下にはウニやホヤを取る道具があります。この前この湾にイワシが大漁に入り込んだんです。最初は取って食べていたが食べきれなくて、結局業者に頼んで600万もかけて捨てました。
荒浜は知られざるいい浜なんですが、その名の通り波が荒くて、泳げるのは7月からお盆前まで。そのあとは土用波でおよげない。学校まで40分かけて通ったなあ。道草くって歌を歌いながら。その学校も7校が5校に、5校が3校になっていまは車で送り迎えです」

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「海にそうて歩く」番外編3 登米を見学

2012年5月16日 水曜日

登米で降り、重要文化財の登米小学校、隈研吾さんが建築学会賞を獲られた能舞台などをみる。鰭武旅館は古い建物で、スポーツ大会に出る高校生で上を下への大騒ぎだった。玄関に運動靴がいっぱい。でも気を使って、夕食はこちらで、と宿に併設された居酒屋でおいしい牛など出してくれた。旅館だけでは立ち行かないのであろう。
翌朝、スレート瓦の家を見てあるく。北上川の土手からみるとたしかにスレートがわらの家が目だつ。

「海にそうて歩く」番外編2 マグロ漁船今昔

2012年5月16日 水曜日

8月8日

朝寝坊して朝ご飯。春菊のおひたしのこの力強さ。卵豆腐、卵焼き目玉焼き、生卵と四つも卵料理があるこの贅沢。

マグロ漁船今昔

8時すぎ気仙沼の港へ行った。高知、三重、岐阜といろんな県の船。網を繕う男に聞いた。
「今日とってきたのはベカ」「うちはマグロ、30日くらい行って取ってくる。帰ってこない船は3、4年も帰らない。こんなきついしごと後継者はいないよ」
海の男は無口かと思ったらノートを広げる私に寄って来て話す。

「これは漁船じゃなくて水産庁の監視船。ほら『水』の字が見えるでしょ。新しく見えるけどペンキをきれいに塗っただけ。こちらは船主さん、水産庁から請け負うわけ。それぞれ漁場があるが、200海里から外れないか、不審な漁をするものがいないか、見張るんだ。マグロ船もいい時に比べると少ないけど、チャンと給料は出るし、らくだわね」

「こっちの船は高知、夜出て明くる日に仕事して朝帰りさ、カツオの群れを追っかけて沖縄からどこまでもいく。気仙沼が北限でここから戻りガツオと一緒に南下する。もう獲れすぎて困ってんの。私ら一本釣だけど、巻き網漁の連中が獲り過ぎたからハマ値が下がってる。いまキロ70円が相場でしょ。獲りすぎると当たり前だが魚がいなくなる。昔、イワシを獲りすぎたわね。それでいわしがいなくなってあんな下魚が高級魚になってしまった。マグロも50年でおおかた獲ってしまった。巻き網漁やめろ、そう書いといて」
若者がおじさんにからかわれ、どつかれている。

「こいつが一番バーカ。うちの船はバカ1人のせてマース」「水産高校中退でーす」「ちゃんと出たやろ」

さっきのおじさんが「船の上はストレスたまるからな。1人くらいかわいがるペットが必要なんや」
大型トラックがそのまま商店になっている。長靴、合羽、下着、軍手など必需品を売る。右半分は喫茶店でテレビもある。
「ここがわしらの憩いの場や。わしは二十八金栄丸ちゅうてな、カネの金、栄えるの栄、35年乗ってるけど景気どん底だべ。カナダ、スペイン、世界中回ったよ。漁師にパスポートはいらない。どこもフリーパスだ」
長椅子を日なたに出して、日焼けした大きな瞳のきらきらした若者たち。
どこからきたの?「インドネシア」インドネシアのどこ?「ジャワ島」私友だちいるよ、そこに。「ホント!インドネシア語話せる?」テリマカシ(ありがとう)「わーっ、どういたしまして」日本語上手ね。「まだまだ」通訳できるよ「ホントウ?」
隣りに座っていたおじいさんも入って来た。
「うちの船は宮崎の日南でカツオを獲る。1日目のは急速冷凍で鮮魚でいく。2日目のはカツオ節になる。インドネシアの子たちが入って来たのは8、9年前からかな。人が足らないけど条件が悪いからな、日本の若いのはやらん。組合主宰でインドネシアに若いのを探しに行く。ボーナスでないし、歩合だしよ。1年目が月に2万、2年目が3万、3年目が4万、3年で一人前だ。持ってると使うからな、それと同じだけ本国のお母さんに送金してくれる。親孝行になるわけよ。それだけありゃあ、じゅうぶん向こうじゃいい暮らしできる。日本人はオレみたい年寄ばかりよ」
若い子に聞いてみた。初めて船に乗って恐くない?
「ううん、でもエンジンの音うるさい。寝られない。でももう慣れた。かんぺき」
おじいさんが補足する。「あさ夜明けに起きて、暗くなるまで釣る。陸の2倍は働くな。8月からは戻りカツオを追ってハワイまで下ってゆく」
枝幸丸にライトバンが横付け。米袋を女の人が重そうに運ぶ「3ヶ月分です」
キイキイ鴎が鳴く。お前たち、いいなあ。働かないのに食べられて。

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市場では床に並んだメカジキ、マグロを鍵のついた棒で引っ掻いて調べている。尻尾のところが削ってあって中身の色が見える。漁師とはまた違う商売の人の感じ。
「色と脂と鮮度ですね。きょうはまあまあの感じです」「ここは築地みたいに指は使わない。せりは紙に書いて出す。ほれこのマークが問屋の名。フィジーとあるのは獲れた場所です」「高くて買えないですね、僕ら駆け出しには」「女の人でも凄腕はいますよ」「この時期は長ものが多いから」仕事の合間にいろいろつぶやいてくれる。でも言葉は少ない。りーんとベルが鳴る。緊張が走る。誰に落ちるか、もう話など聞ける状態ではない。

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そこから南気仙沼までボーバクたる街区を歩いた。10時5分、小牛田行き。
いまは山中、いまは浜、走って大谷海岸で途中下車。海から零分の海水浴場で泳いでみよう。ホームの前が海なのだ。貴重品を海の家にあずけ、シャツとジーパンを脱げば下は水着、海にはもやがかかり、水は冷たい。足元がすけて見える美しい海に人影は少ない。
小魚と一緒に泳いだ。そして上がって次の電車まで海の見えるレストランでコーヒーを飲んで体を温めた。

「海にそうて歩く」番外編1 遠野‐気仙沼‐大谷海岸‐柳津‐登米‐雄勝 2003

2012年5月16日 水曜日

(2009年に朝日新聞出版から出した本です。そのなかの牡鹿半島編はたった9枚しか、当時の連載媒体『アサヒカメラ』に載りませんでした。元のメモを起こし、写真とともに被災地東北にお返ししたいと思います。ここに書いた風景は失われてしまいました)

2003年8月7日

遠野を2時15分に出る列車はなかった。あわてて12時45分の快速に飛び乗る。
遠野の駅はレトロで駅舎の2階がホテルになっていた。駅員によれば釜石で1時間待ちということだったが、たった7分で三陸リアス線盛行きがきた。チョコレート色のレトロな2両編成、インテリアはシャンデリアに紫色のシート。この窓から見ると景色も不思議によく見える。車掌さんは20分待ちあわせと言ったが、3分で仙台ライナーがきた。誰もあてにならない。おかげで遠野から5時間覚悟したのに気仙沼まで3時間でついた。

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気仙沼にて
気仙沼駅の観光案内所の女性は親切だった。ここではフカヒレラーメンはぜひと言う、まだ早いから氷の博物館と鮫の博物館へ行ったらどうでしょう、とすすめてくれる。
4時前、魚市場でフカヒレラーメンを食べた。とろとろのフカヒレに細い麺、すんだスープがうまい。氷の博物館とは氷の中にサンマやタイやカニが色あざやかに閉じ込められている。氷点下20度のところに防寒服を着て入るのがなんだかわくわく。そう広くはないが、寒くて長くは居られない。

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サメの博物館は夏休みでこどもたちで大にぎわい。サメの生態や気仙沼の観光フィルムの上映もある。サメに食われて死ぬ人はけっこう多いそうだ。索餌狂乱というスゴイ言葉。血や傷ついた魚を見るとサメは狂ったように獰猛になるのだとか。イカ釣り船、マグロ船、カツオ船の並ぶ浜をぶらぶら帰る。石碑の前に立つと港町ブルースが聞こえて来た。

流す涙で割る酒は
だました男の味がする
あなたの影をひきずりながら
港 都 釜石 気仙沼

とくにご当地ソングとは思えないが、気仙沼の文字だけがやけに大きく彫ってあった。
大鍋旅館は魚町にある。男山本店、両関など古い看板建築の建ち並ぶあたり。旅館ももう7、80年続く。
「昔はこんなもんじゃなかったですよ。この内海に漁船が溢れていました、市場も向うに移ってね。だんだん寂れて」
心づくしの戻りガツオ、サンマ、ホタテ、たこ、ほや、手造り塩辛、最後にフカヒレのスープまで出た。酒は男山の「華伝」。
夕食後少しうとうとし、それから散歩がてら浮き御堂を観に行く。ライトアップされた小亭にカップルがいた。あなたも海の男、かっこいいね、と冷やかすと、「うーん、海の男を俺のサブテーマにしようかな」と笑った。

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