「海にそうて歩く」番外編4 雄勝の千葉茂さんと再会

雄勝町町役場の千葉茂さんが迎えに来てくれた。町の産業振興課にいたころ、私たちの赤煉瓦の東京駅の保存運動を知り、連絡を下さった。そして雄勝や登米からはたくさんの保存賛同署名をいただいたものである。その時のお礼に登米や雄勝にはうかがいたいとずっと思ってきた。同い年なのでカーステレオにはユーミンやタイガースが入っていてなつかしい。天気さえよければと雄勝へと車を出してくれた、
「うちの親父はマグロ漁船に乗っていましたから子供のときはいないことが多かった。その後、養殖に転じました。雄勝は唐桑と並びカツオ漁船の基地で、カツオに懸けている人が多い。20何軒で船は30艘40艘あるでしょうか。農業をやっているうちは10軒ぐらいですか。僕がこどもの頃も母親たちは大変でした。地域の付き合いや、家のことや子育てや。さびしくて他の男とどうにかなる人もいたし、じっと待っている人もいた。ベーリング海にスケソウダラを追いかけて行ったときもあるし、ホヤやワカメの漁もある。アワビは2、3月かな、浜によって漁期は違うし、いまは産卵期なので獲らせないんです。ウニは昆布を食べにくるから、かご漁、たも網ですくう方法もあります。ウニはお盆前にみんなで獲って食べる。たまたまきのういただいて、海のホタテも食べました。建設課になってから台風、地震、津波がいやですね」
「昭和30年代は、中卒男子の半分は船乗りになりました。私のころでもクラスで5人はカツオ船に乗っています。子供のとき、竹竿で一升瓶を釣る練習をしたものです。私の学年でも海で死んだのが2人いますよ。私はカツオ船より大きなマグロ船に乗りたかったんですが、役場へ入ってしまいました。大きなマグロ船なんかに乗っていた人が帰って来て家の前で釣りなんかしてうっかり海に落ちてなくなることもあった。
津波は明治29年、昭和8年が有名ですが、私が覚えているのは昭和35年のチリ津波です。小学校へ入る前でしたが、朝飯を食っていた時に波が入って来て高台に逃げました。大人たちは波が引いた後に魚やウニが残ってたのを拾っていましたね」
「雄勝は葭原が有名で、シジミも採れます。雄勝はもと12000人いたんですがいまでは5000人、スレートの職人はほとんどいなくなりました。前は杉浦さんて、NHKにも出た人がいましたがいまは体調を壊されてます」
私たちはまず硯会館に行った。スレートと同じ石玄昌石でつくる主要産品で、江戸時代から続く。阿倍英峰さん、「いま十数人います。石を取るひと、彫る人、売る人、いろいろです。これは料紙彫りといいます。胸にのみをあてて彫ります」。私は手に入るくらい小さな硯を買った。
ホテル雀島からの景色がいいと連れて行ってもらった、そこから荒浜へ向うとコールタールを塗った不思議な小屋がいっぱいあった。
「これ屋根で昆布を干すんです、この軒下にはウニやホヤを取る道具があります。この前この湾にイワシが大漁に入り込んだんです。最初は取って食べていたが食べきれなくて、結局業者に頼んで600万もかけて捨てました。
荒浜は知られざるいい浜なんですが、その名の通り波が荒くて、泳げるのは7月からお盆前まで。そのあとは土用波でおよげない。学校まで40分かけて通ったなあ。道草くって歌を歌いながら。その学校も7校が5校に、5校が3校になっていまは車で送り迎えです」

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