「海にそうて歩く」番外編5 木村満さんのはなし

そこから雄勝天然スレートの木村社長を訪ねた。国産スレートで唯一の会社である。その話がおもしろい。
「うちの初代は木村幸治と言って、もとは船乗りだったが明治17年に創業しました。たぶん江戸の生まれでちょんまげ付けてた人なんでしょう。室町時代からここの石で硯をつくることは行われていたんですが、明治に入ると別の文房具、最初はスクールスレートでした。
山元義平と言う人が雄勝の長沼に遊びに来て、硯石の採掘場の後に入り、ザクザクといいスレートが取れるので石版に使うことを考えた。その人の名は恩人として山本公園にも山本祭りにも残っています。そのころ紙は貴重品で買えなかった。これを学習に使えると、東京の人が発見して合資会社をつくり、石版を取るためにひとを増やしてほしいと国に要請しました。そうしたら宮城県の刑務所から70人ばかり回してよこした。最終的に200人くらいきたそうです。
西南戦争の残党で椎原って西郷隆盛の奥さんの兄さんで総大将だったのが来てた。彼らは政治犯だからほとんど収監されず、刑務所内でも自立的に改良していた。仙台藩とは宿敵だが伊達はだらしないからあまり気にしなかった。
そのころ洋館の屋根のスレートは輸入していたんですが、ここにあるじゃないか、これは屋根に使えるということで、宮内庁の営繕課から何万枚という注文が来るようになりました。その人は篠崎源次郎という人です。関西の人で明治19年に日本の建築家を集めてドイツに連れて行って22年に国会議事堂の屋根を葺いて結局みんなその人から出た人。だから葺き職人は東京にいて、雄勝にはいねえっちゃ。杉山光雄さんが75か、もう体壊されたのでがっかりしました。
西日本工業倶楽部の屋根が傷んで落ちて来て困ると相談されて観に行ったことがある。どこの石かなあと思ったが、なかなかわからない。1枚2枚じゃわからないから量を見せてくれと言った。縦横斜めも関係なく挽いてある。これは職人でない人が挽いたな、と岩手で女の人を採用して挽いた石じゃないかと思う。こんな挽き方をしたら雄勝では職人じゃないといわれる。荒めじゃないから登米でもない。昭和40年代に修復したときの岩手の石じゃないかといまはそう思います。雄勝と同じいい石なんだが。
二代目は金治郎、定助ってお兄さんがいたんですが、内村鑑三の弟子になって跡を継がなかったんです。そのころ三陸には61カ所掘る山があって、家内工業で親父と息子で掘るというような形でやっていましたが、そのなかでは私のところが一番大きかった。うちの近くにも数件あったが、おらホの山は赤くなってた。
登米の山は石が豊かだが粗い。山掘りやって失敗した人は大勢います。トロッコで石を運び出してうまくいっているなあと思ううちに土砂が崩れて3か月仕事ができんようになって。その点、雄勝はリアス式海岸なので山が急なため岩脈が露出しているから掘ってそのまま落せばいい。地表近くにある質のいい岩脈に当たったのでそれをうちでは掘りつづけてきました。
いまはパワーシャベルがあるから掘り出すのも簡単だが、昔は1枚1枚丁寧にはがして、ノコギリで挽いて加工の具合を見た。だいたい石の特徴、建物の時代、ノコの弾き方でどこの石かわかる。志津川や女川でもとれますが、あそこのは中世代三畳紀の白っぽい石、陸前高田にもあった。堆積岩のうちで割れる性格のあるのを頁岩と言い、そのうち粘板岩をスレートと言います。
三代めは鉄郎と言います。私の父です。16のとき、お母さんの顔を鉛筆画でかいたのを残して家出をしたんですが、すぐ捕まった。お母さんはわかっていた。山超えて陸の孤島と言われる雄勝から川沿いに釜谷に出て船に乗ろうというところで船着き場で捕まった。この人も学者肌で、硯の本なんかは書いたんですが現場へは出なかった。
おやじはカツオ船も持っていた。名前が桃丸って言った。ここは宮城県桃生群だからそう付けたの。ロサンジェルスオリンピックのとき、各社の特派員がロサンジェルスから撮ったフィルムを積んで来た。船は海流の関係で必ずこの沖を通る。横浜に入るにはまだ1日2日かかるから、金華山沖を通るとき、それを海中に落とすから拾って陸路で東京に届けてくれればスクープになると、そんな話もあった。朝日だったか毎日だったか。その頼みに来た人も人に知られないよう、普通の服に下駄を履いて来た。
戦前、大東亜戦争までは物すごい勢いでインドに輸出をしていました。最初、インド綿を輸入しにいく船はからでいくと安定しないので水を積んでいったものです。替りにスレートを載せていくようになった。これは具合いいと、ここから神戸までの運賃より神戸からインドまでの運賃の方が安かった。おかげで大もうけしたわけです。あの頃は先進国はみんな石版を作って途上国の教育のために輸出していたんです。スレートの周りに気の枠を付ける。ドイツは手仕事を手放さない国で木工をしていましたから最後までやっていた。戦後アメリカの復興物資をもらった見返りに日本からはベトナムなんかにずいぶんスレートがいっていました。
書いては消し、書いては消す。紙がないから頭で覚える。で、インド人は暗算が強い。ダースで計算しても間違わない。
私が4代目、父が50のときの子で、母も46でしなびたおっぱいを吸って育ったのでこんなことになりました。わたしも写真家になりたかったのですがね。スレート屋としてやった仕事では京都府庁舎、北海道庁、山口県庁、西日本工業倶楽部、名古屋高裁、平成こどもの村、藤森照信先生の守屋神長館があります。
ヨーロッパは屋根が急勾配で、雪も雨もそんなに降らず乾燥しているからいいんだが、日本で無理なことをすると、雪や湿気で雨漏りしたりしますから。有名な建築家が無理な設計でスレート使いたいと言って来たが、絶対に雨漏りしますよ、といったんだが聞かなくてね、案の定、クレームだらけ。木村つとむさんは文建協に勤めながら東大で博士号を取った人だが、山形県庁舎のとき、雄勝の石でなければやらない、と言いました。いま日本は物価が高いので、外から輸入していますが、ポルトガルのは駄目ですね、安いけど10年でぼろぼろ。まえに石屋をやめるのでポルトガル産のスレートを引き取ってくれと言って来た人もあるが、みたら使えるものじゃありません。スペイン産のはいい。
石巻にはいい職人が2、3人はいました。うまい人がそれだけいれば、あとは下仕事の手が揃っていれば屋根葺きは早いんですよ。昔は瓦の穴あけも、うろこ形に切るのも現場でやっていた。切りかたもいろいろありますよ、菱形とか、はまぐりとか、ほかに約物、ハーフサイズ、スターターといろいろあって、組み合わせて使います。今うちでは穴あけは女性たちに教えてやってもらっているけどね。
東京駅の大正3年のときは雄勝の石ででもおらホのところの石だけではない。共同出荷という形だと思います。昭和27年に空襲後の東京駅を直した時には雄勝と登米のいい石を使ったんです。私はそのころ学生で森さんちの近くの小石川駕篭町にいました。後で本郷三丁目に移ったんですが、よく東京駅を観に行きました。うちの担当の人はじょうとうさんといったかな。こんどの修復でも基本的には前のいい石はできるだけ残して使ったほうがいい。尺二の立派なのを使っているからね。個人的には新材もそれでいいと思いますが、いまどうなっているのか。何も言ってこないから、土壇場になって何万枚そろえてくれと言われても困っちゃう」

木村社長はすばらしいスレートで全体を葺いた家で話してくれた。そのあと工場へ行ってスレートの実物を見せて、実際に切ってみせた。
1平米の屋根を葺くには50枚入りが二ついる。ひとつは44キロ。つまり一枚900グラム。尺丸とは尺×六寸。尺二は一尺二寸×6寸

工程は割る、――刃をあててコンと割るとぱりっと割れる。
ドリルで穴を明ける
烏帽子やうろこ形に糸鋸でカットする
たてに立てかける。もとの石を8枚や7枚に割ったのをひとまとまりにしておく。
スターターと最後のしあげ。

クギはステンレスクギ一寸一分を使う。
バブル時代にミサワホームと積水ハウスはスレート葺きを高級と売りにしていた。
兄の木村哲郎宅は和洋折衷が抵抗なくうまくいった例。
帳場は和畳、天井は漆喰折り上げしあげ、脇に応接間、家庭用玄関。
中之島公会堂補修服のときは4・5ミリでなく6ミリのスレートをはってしっかりやった。

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