2011年3月 のアーカイブ

震災日録 3月30日

2011年3月31日 木曜日

わたしは4年前に原田病にかかって、考えてみると病人継続中なのだった。
仕事に加え、情報収集、連絡、そしてテレビの被災地の様子を見ると毎回、胸つぶれ、ためいき、頭痛と耳鳴りがひどくなる。不眠気味。
テレビはあかるいニュースや美談ばかり流している、と思っていたがこれで救われているのかも。お笑いも、こんな時に、と思ったが、これで救われる人もいるのかも。

被災地に放射能レベルの情報を送っているが、「東北大学の先生がこのくらいなら大丈夫と言ったから、今は信じるしかない」というような返事で、のんびりしているのは美徳だが、心配になる。「正しく不安になること」も大事なのに。

昼間、内澤旬子さんとランチ。なかなか東北にはボランティアが入りにくいらしい。
神戸と比べて中越のときも大変だったとか。どうやって集落にとけ込むか、毎晩のようにボランティアが会議をしていたと聞く。確かに排他性が強く、集落をよそ者が歩いているだけで「あれは誰だ」と言う。Iターンのひとは「オウムではないか」という不信をなくすまで時間がかかった。行き交う車は誰かがすぐわかる。丸森でもその動体視力にはいつも驚かされた。「奥さんじゃない人を乗せてすれ違ったらまずいわね」とからかったりした。役場の職員に乗せてもらって、スーパーの前を通ったので、「あ、五分、待ってて、買物してくるから」と言ったら、「5時前にスーパーの前で止まっていたら、何言われるかわからないから勘弁して」と言われた。「ラーメンでも食べましょう」と言ったら「じゃ、隣町まで行きましょう」とのこと。この『世間』というもののために、出たくても出られない人がいるようだ。さっさと逃げたと言われるとあとで戻れない、とか。先祖伝来の田畑、かわいい牛も置いていけないとか。

出版社の友人たちと話す。かりかりして仕事にならない人が多いという。「こういう時に馬脚をあらわす」「子どもがいたりして不安なのはわかるけど」。有休を取って遠くへ行った人のあとを、時給1000円のバイトががんばっていると言う。

昨日中国の人が帰った話を書いた。そういうことを書くと、中国人への偏見を広めるかも知れない。ある研究者はうちの留学生は帰っていない、と書いてきた。でも、働きにきた国が危ないからふるさとに帰るのはあたりまえではないかと思う。テレビによると東京にいたフランス人、6000人中2500人しか残っていない。ピーター・バラカンさんは大危機における日本人の自制心と助け合いに敬意を表しつつも、「自分で判断すべき時には判断する」という民主主義と個人主義の力が弱いのではないか、と述べていた。そのとおり、長いものにはまかれろで、原発を許してきた。「福島県民は東電を許さない」と言う人がいたが、双葉町は福島原発7、8号機の建設を陳情してきた。
ここにも過疎自治体の財政や複雑な問題があるが、いまはとにかく止めること逃がすこと、が先決。

ある海際はすっかり瓦礫が片付き、荒野になっていた。茫然とする風景。
わたしは今回、東北と縁が深いのでかなり当事者感がある。前を知っているからだ。
でも知人でなくなった人はいない。さいわい、と書くと死者に対して申し訳ない。
きのう友人の同僚の友人がなくなった話を聞いた。岩手で里帰り御産して、赤ちゃんとともに亡くなって発見された。「産まれて10日しか一緒にいられなかった」。涙はこぼれるが、こちらも心弱くなる。知っている宮城・福島に対して、縁の薄い岩手にはずっとリアリティが持てずにいる。「気持ちはわかります」と言ってはいけない。当事者にとっては「わかりっこない」なのである。

新卒内定取り消しなどのニュースにもぎくっとする。「十八の春は泣かせない」という別の会社はあらわれないか。松井秀喜選手が5000万義援金、これも普及効果があるだろう。日本財団は漁業者に1億円無償で貸す。船舶振興会だからだろうが、よかった。
江戸川区にある福島県産のアンテナショップは支えたいと言う人で賑わっている。これも良いニュース。

震災日録 3月29日

2011年3月30日 水曜日

朝からむやみと仕事を片付ける。医学書院の漢方のテープ起こし。『保険師ジャーナル』のエッセイを送る。お礼状2通、支払い一件。『世界』の記事の校正。昼、北海道新聞のインタビュー、女性の記者がきた。千駄木在住とか。

ドイツでは古い原発を十何基止めているのになぜ日本は危ない浜岡や敦賀を止めないのか。ドイツでは日本の原発事故で25万人のデモになっているのに、日曜日に1000人くらいしか集まらなかったのは残念。それでも初めてのデモ、意義はある。ドイツの選挙では緑の党が大勝した。次ぎの選挙には脱原発党を旗揚げしたいものだ。

電磁波過敏症の友人は「空気が悪い」といって九州の温泉に脱出、一年くらいいられる家を探している。赤ちゃんが生まれたばかりの友人家族は京都に引っ越し。ホテル暮らしで情報をくれる作家の友人もいる。わたしも気のせいか、体調が悪い。のどが腫れてきた。少しどこかで休養したいが、サトコは東京、そのうえ、ヒロシも授業が始まるので帰ってくる。
久しぶりに中国整体院に行くと、大忙し。中国人の先生は怖がって帰っちゃったと言う。
「僕も怖いよ」といいながら働くリン先生は日本人の奥さんは北京へ行かせたとか。
東京新聞の『放射線』というコラムのタイトルがなんだか気になる。手塚治虫はなんでアトムとかウランとか主人公に命名したのだろう。
溜まり場に行くと『脱原発銀座デモ』の編集に追われていた。荒川さんの勇姿見て下さい。スローガン的な発言が多い中、簡潔に今するべきことを述べていた。いま原発から2、30キロ圏の屋内退避から自主避難となった人達がいる。畑が、牛が気になる。寝たきりの母を置いていけない、その気持ちは分かるが、赤ちゃん、子ども、どうぞどうぞ、遠くに行ってほしい。

震災日録 3月28日

2011年3月29日 火曜日

昼すぎ丸森の妹真理ちゃんが立ち寄ってくれた。
彼女は那須で揺れた。それから11日中に封鎖前の東北道を走って丸森へ。途中かなり家が壊れていた。それから家を片付け、停電の中で寝た。石油ストーブは一番弱くつけて湯たんぽで寝た。被災地に湯たんぽを送りたい。那須の農業組合と東京で農業トラストはできないか、という相談。丸森からは下着と靴下が届いたという連絡あり。けっこう宅配便は速くつくようです。協力してくれた人に感謝。

しかし優先順位としては、まず福島原発2、30キロ圏の人たちを避難させること。双葉町や大熊町は逃げたが、南相馬やいわきはあまり避難がうまくいっていない模様。
原発を無害化すること、そのあとで今年の植え付けや農業収入のことを考えるしかないという結論になった。

自分だけ逃げるわけに行かない、という共同体のちからが悪い方に働くのではないか、という倉沢さんの話。妊婦さん、赤ちゃんや幼児のいる家庭はどんどん逃げて下さい。東京も人口が少なくなっていた方が、いざというとき渋滞が起こらないので、また新幹線や飛行機の切符も取れなくなると思うので、今のうちに出る人は罪の意識など感じずに東京からも出て下さい。

震災日録 3月27日 

2011年3月29日 火曜日

第二のふるさと丸森の測定値がやっと見つかりました。東北大学測定、役場前で3月21日には1.48マイクロシーベルト/毎時です。20日ちょっと、そとで同じようにさらされれば国の決めた容量を超えることになります。50キロ圏。

12日のニュースで六ヶ所だかどこかの原子力関係の建屋で4人、作業員がなくなっていたように記憶しますが、あの続報はないのでしょうか?

被災地からは『買い占めに走る東京が許せない』『電気を使っているのは東京の連中だ』といった書き込みが目立ちます。震災以来、わたしは野菜を600円買っただけです。家庭で使う電気の量は東北でも東京でもそんなに変わらないのになあ。
わたしはアイロン、掃除機、皿洗い機は使っていません。あんな不便なものをなんで売っているんでしょう。去年はクーラーも使いませんでした。病気になって以来、電磁波が耳鳴りを呼ぶので。

27日2時、東京で初めての反原発デモが行われ、京橋公園から東京電力前をとおって日比谷公園まで歩きました。
妊婦さんや家族づれもいて、怒っているという人と、無力さを痛感しているという人と二種類いるような感じでしたが、どちらも嫌がらずに発言してくれました。
これもNHK ニュースでやったのかな?
あさの『おはよう世界』ではやっていました。毎日見ていますが、けっこう大胆、率直です。外国のメディア経由で情報を得るとは。

日比谷は寒くて風邪引いてきょうはダウンです。

震災日録 3月26日 

2011年3月29日 火曜日

4年間、畑を借りていた宮城県丸森町は被害軽微と思っていましたが、どっこい、そんな簡単なものではないことがわかりました。
まず町民のなかで海際の山元町、新地町、相馬などに通勤していた人に死者が出ています。葬式が行われているようです。

南相馬町の老人施設から200人が筆甫の廃校になった中学校に避難してきました。災害地に避難民が来て、しかも介護を必要とする方達で受け入れに苦慮しています。
何かできることはないか、というと下着と靴下が足りないとのこと、きょう焼け石に水かもしれませんが、大塚モスクと大観音光源寺の協力のもと、段ボール2つ分新品を送りました。

壊滅に近い山元町、新地町などの施設に入っていた町民も丸森に戻ってきました。町外の施設からも認知症や寝たきりの方達も避難されています。東北全体で過疎地の老人の多いところに災害が発生、インフラのないなかで少ない若い人たちで介護や診察をしなければならない現状が見えてきました。

以下、仙台在住で長年東北各地の町づくり、農業のあり方を考えつづけてこられた結城登美雄さんから電話で聞いた話をまとめます。

神戸の震災を都市型だとすれば、今回は漁村型、海辺の町が襲われたと言っていい。
阪神淡路は倒壊した建物と火災でなくなったが、東北・関東大震災では死者・行方不明者の9割が津波でさらわれている。

久慈のちかくの野田町では220艘の漁船のうち使えるのは3艘のみ。
気仙沼では漁船から油が流れ出して、大火災になった。
仙台の荒浜はNHKのドキュメンタリー『イナサ』の舞台だったが、あれに登場した漁師も含め7人なくなった。
石巻では茅葺きの熊谷産業の対岸の大川小学校で、83人中50何人なくなったが一切報道はされていない。

日本の海岸線な3万5000キロ。5、6キロごとに漁村があり、12キロごとに漁港がある。その漁船の9割が被害にあった。電気はまだ来ていないし、携帯の充電もできないので、集落はいまなお孤立している。

今回の特徴は、その漁民たちがもうもとに戻りたくない、恐い、と言っていること。補償金が出るとしても船の借金を返したら終わりにする、つまり廃業するしかないということ。そうすると日本人の魚の食べ物は入らなくなる。どうしたらやめないでもらえるか。
(農業についても今2、3%の農民で39%の自給率。農民の70、80%は60代以降、10年後には農家はほとんど廃業して日本は食糧に苦しむ国になる)

日本人は鮮魚を1年に5万5000円食べている。百人の都会生活者が6万円ずつだして一軒の漁業者を支える仕組み、そうすると600万の収入で漁業を続けられるのではないか。

農業ではCSA(コミュニティ・サポーテッド・アグリカルチャー)を提案しているが、漁業においてもCSF (コミュニティ・サポーテド・フィッシェリー)を考える。かつて唐桑で『お魚クラブ』を組織したが、東京の小売でけっこう高くなるので、多少送料はかかっても、安く新鮮な魚を直接届けるシステムが、たとえば唐桑と谷根千とかでできないだろうか。

ということでした。参考になると思い、書いて送ります。結城さんはパソコンもやらないので、自分の考えを伝えられればありがたいとのこと。

震災日録 3月25日

2011年3月29日 火曜日

山崎佳代子『解体ユーゴスラビア』という本がありました。
ユーゴの内戦を一主婦の目で生活からとらえたものです。
被災地支援はとりあえず屈強で経験豊かなNGOやジャーナリストに任せて、今の東京を記録しておくのもいいと思います。

不要不急のものが売れない。お花屋さんでは、チュ-リップが10本400円。ピンクのを買ったら黄色いのを10本、おまけにくれました。

娘は町のお店で牛乳をタダで配布していたので2本もらってきました。

美容院は、いつもなら卒業式でかきいれどきなのにひまだって。結婚式も中止であがったり。

白山の火風鼎は、つゆの材料(魚介類)が入らないのでつけ麺は休み。

居酒屋みさきでは、水道水にヨウ素検出で水割りをどうつくるか、なやんでいた。

千駄木の天米。お彼岸時は客が多いのに、少なくて困っている。さいわい材料は西のものが多い。市場はむしろ余り気味。築地までのオートバイのガソリンが心配。

帰宅難民、文京区ってホントに坂が多いわ。四ッ谷三丁目から千駄木まで二時間歩いた編集者。

紙が入らないので雑誌も大幅変更。茨城の印刷会社が止まり困っている。

私の4月から始まるはずのY紙の連載も延期、いつになるかわからない。
4月の講演も二つキャンセル。フリーはつらい。

タクシーはリーマンショックで売り上げ半減、今はそのまた半分、暮らしていける売り上げじゃない。全部歩合制なので。

荒川のこっちは真っ暗、足立区側は耿耿と電気、腹が立つ、と埼玉在住者。
林町東町会のはりがみ。『明るさに協力』、どういう意味だろう。

千駄木小学生たちはオレンジ色の防災ずきんを被り、雪ん子みたいに集団下校。

震災日録 3月24日

2011年3月29日 火曜日

きのう、谷根千地区古書ほうろうで『昔日の客』の著者関口良雄さんをしのぶ息子さんの直人さんのコンサートがありました。雨にも関わらず55人参加、みんな不安ななか、集まる所を求めているのだと思いました。静かな心にしみる歌を一諸に歌いました。

丸森町は福島に陥没したような町なので原発50キロ圏で、筆甫地区では住民の避難が始まっているようです。
『樅の木は残った』の舞台船岡のはとこは「森家はみな無事、しかし夫はいないし、姑がデイホームがなくて電気もつかない中介護が大変。食糧はとなり近所が助けてくれる。水は23日やっと出た、余震が大きくて恐くて風呂に入る気がしない」とのこと。
角田の障害者施設虹の園は「みな無事、でも障害者雇用施設のピザハウスは山元町にあって流された」とのこと。
仙台文学館は天井が崩落、再開のメドが立たず、館員の赤間さんは5歳時を山形の両親に預けて働いています。仙台-山形間のバスはあるようです。
石巻の日本で唯一の茅葺き屋根の熊谷産業では「社員は無事、しかし社屋、家屋跡形なし。対岸の小学校の児童が相当数行方不明」だそうです。涙がこぼれます。

那須の真理ちゃんは仮住まいで荷物がほどけないので、まゆみさんにもらった『舞姫』と『円朝ざんまい』をむさぼるように読んだ。することないし、読書は心を支えてくれる、といっていました。
千駄木の川本眞理さんも被災者には食糧が最優先だけどおもちゃや本も届けたい、といっていた。おもちゃもゲームも教科書も流された子供たちもいます。

都のアイソトープ研究所の友人は毎日深夜まで検査です。
水道のヨウ素は心配する値ではないが、8日で半減するので汲み置いて使うこと。活性炭を入れるとかなり効果あるといっています。彼の話は25日夜に聞きます。

82歳の老母の素朴な疑問
・シートベルトとかシューベルトみたいなあれ、なんなの?
・福島原発がいつできたかって、最初の頃ずっと言わなかったわね。4 0年と言えばロートルよね。
・いまのところわかりません、確認中ですって、わからないもの作らないでほしいわね。
・消防の人はたしかによくやるけど、中にいる作業員は誰で、どこで、何やっているのか、何も報道はないわね。
・設計した連中はもう退職して、古い電化製品だから部品がないんじゃないの?
・NHKのアナウンサーは「だいじょうぶなんですよね」と念を押すだけ。自分が恐いのね。民放の方がキャスターが現地へ飛んでいるわよ。
・あんなの見てると気分悪いから、BSで仕掛人梅安見てるの。
・わたしは薬のないとこ行く気はないし、「ただちに人体に影響ない」ったって10年後にでるんでしょう。でもそのとき92だから ね、逃げることないわよ。

震災日録 3月22日

2011年3月29日 火曜日

いま九州から帰ってきました。さいわい宮城県丸森からは引き上げたところでした。ご心配かけました。羽田空港も節電、歩く舗道が止まっていた。三田線もエスカレーターは止まり、エレベーターだけ動いていた。電気も半分くらい。これでちょうどいいと思う。原田病でまぶしいわたしには助かる光量だ。

オール電化住宅でひどい目にあったという話が多い。各戸、ガス、石油、電気、薪ストーブなどオルタナティブな熱源があった方がいい。景色がいいからと高い超高層マンションを買って、エレベーターが止まって、子供を迎えに37階降りて、また子供と一緒に登ったという話も聞いた。

丸森町は福島県境、宮城の南限の里山でそれほど被害はなかったようです。
しかし18日くらいまで友人知人にはまったく連絡とれず。
丸森は、今は福島原発近くからの避難者を200人引受けているようです。
ガスはプロパン、町営水道は2日で復旧、電気は一週間つかず。しかしガソリンがなくて手も足もでない。
八島屋という何でも屋さんは小売値でガソリンを仕入れ、その価格で売っています。
峠を越えた隣りの相馬、新地、山元町、岩沼、亘理、名取あたりは壊滅です。
津波が海沿いの低地の田畑をなめていった映像のあたりです。楽しい思い出がいっぱいありますが。
丸森で一番仲良しだった30代の真理ちゃん、わが妹のような人も連絡がとれなかったのですが無事がわかりました。那須町の道の駅で農産物普及の支配人に決まったところ、野菜出荷停止となり、その上、道の駅が被災者受け入れの窓口になるそうです。

町作りの面から一言。

三陸へ行くと、明治2年の津波のときここまで水がきた、これより海際に家を建てるな、と書いてあるのに、いっぱい家が立っていて恐いなーと思います。『失敗は伝わらない』、本当です。

町作りも防災も歴史に学ぶことが必要です。
瓦礫の撤去が終わったら、戻ってまた家を建てると被災者はいっていますが、海際は捨てて山の上にコミュニティは生かしたまま、町を再建したほうがいい。

イタリアなどではマラリアやペストの猖獗のころ、高燥な山の上に町を造りました。なかなかこじんまりしていいレストランもあって、楽しそうな町が多いです。
おとしよりはじめ不便なら香港みたいにエレベーター、エスカレーターをつけたらいい(電気はほかで節電して)。

想定外の津波にやられたので、もっと高いコンクリの防波堤をつくる、というような開発土建主義の復興を続けさせてはいけません。どんなコンサルが入るか、によって相当復興のし方が違ってくるでしょう。