震災日録 3月26日 

4年間、畑を借りていた宮城県丸森町は被害軽微と思っていましたが、どっこい、そんな簡単なものではないことがわかりました。
まず町民のなかで海際の山元町、新地町、相馬などに通勤していた人に死者が出ています。葬式が行われているようです。

南相馬町の老人施設から200人が筆甫の廃校になった中学校に避難してきました。災害地に避難民が来て、しかも介護を必要とする方達で受け入れに苦慮しています。
何かできることはないか、というと下着と靴下が足りないとのこと、きょう焼け石に水かもしれませんが、大塚モスクと大観音光源寺の協力のもと、段ボール2つ分新品を送りました。

壊滅に近い山元町、新地町などの施設に入っていた町民も丸森に戻ってきました。町外の施設からも認知症や寝たきりの方達も避難されています。東北全体で過疎地の老人の多いところに災害が発生、インフラのないなかで少ない若い人たちで介護や診察をしなければならない現状が見えてきました。

以下、仙台在住で長年東北各地の町づくり、農業のあり方を考えつづけてこられた結城登美雄さんから電話で聞いた話をまとめます。

神戸の震災を都市型だとすれば、今回は漁村型、海辺の町が襲われたと言っていい。
阪神淡路は倒壊した建物と火災でなくなったが、東北・関東大震災では死者・行方不明者の9割が津波でさらわれている。

久慈のちかくの野田町では220艘の漁船のうち使えるのは3艘のみ。
気仙沼では漁船から油が流れ出して、大火災になった。
仙台の荒浜はNHKのドキュメンタリー『イナサ』の舞台だったが、あれに登場した漁師も含め7人なくなった。
石巻では茅葺きの熊谷産業の対岸の大川小学校で、83人中50何人なくなったが一切報道はされていない。

日本の海岸線な3万5000キロ。5、6キロごとに漁村があり、12キロごとに漁港がある。その漁船の9割が被害にあった。電気はまだ来ていないし、携帯の充電もできないので、集落はいまなお孤立している。

今回の特徴は、その漁民たちがもうもとに戻りたくない、恐い、と言っていること。補償金が出るとしても船の借金を返したら終わりにする、つまり廃業するしかないということ。そうすると日本人の魚の食べ物は入らなくなる。どうしたらやめないでもらえるか。
(農業についても今2、3%の農民で39%の自給率。農民の70、80%は60代以降、10年後には農家はほとんど廃業して日本は食糧に苦しむ国になる)

日本人は鮮魚を1年に5万5000円食べている。百人の都会生活者が6万円ずつだして一軒の漁業者を支える仕組み、そうすると600万の収入で漁業を続けられるのではないか。

農業ではCSA(コミュニティ・サポーテッド・アグリカルチャー)を提案しているが、漁業においてもCSF (コミュニティ・サポーテド・フィッシェリー)を考える。かつて唐桑で『お魚クラブ』を組織したが、東京の小売でけっこう高くなるので、多少送料はかかっても、安く新鮮な魚を直接届けるシステムが、たとえば唐桑と谷根千とかでできないだろうか。

ということでした。参考になると思い、書いて送ります。結城さんはパソコンもやらないので、自分の考えを伝えられればありがたいとのこと。