2011年6月 のアーカイブ

6月22日-23日 小諸へ

2011年6月23日 木曜日

島崎藤村や木村熊二のことでずいぶん昔たずねた中棚荘で藤村文学賞の選考。これは一般市民、高校生、中学生などのエッセイを対象とするもの。高田宏さんはじめ選考委員も気の会う人ばかりで楽しみである。選考以外でも今回の地震や原発事故についていろいろ教えられる会話があった。「災害は人間の値打ちのリトマス試験紙」という高田さんの言葉がわすれられない。伊勢湾台風から取材をしてこられた高田さんは遺体から金歯を抜き取るような人もいれば、新妻を流れている家の屋根に押し上げ「お腹の子をよろしく」といって力つきた夫もいた、という話をされた。まるで映画『タイタニック』のようなはなしだ。伊勢湾台風のあと、高田さんはあまりに凄絶な現場を見、泥のなかを漕ぎ回ったせいか体調を崩したという。またチェルノブイリの事故の後、3日で野間宏、針生一郎と三人で反核声明を出したという。そんなことがあったとは知らなかった。

震災日録 6月21日 谷中コミュニティセンター

2011年6月23日 木曜日

同センターをせっかく防災に力を入れて建て替えるなら、3・11以降の知見・教訓をいれたものに、ということで、台東区に意見交換に行く。地域住民への説明会は開かれているが、まだ参加者も少ないし、いまなら関心も高いのでざっくばらんに話し合う会をしたいということで、合意。7月8日夜に行われる予定。

震災日録 6月20日 巨大情報サーバービル

2011年6月23日 木曜日

とうとう静岡のお茶からもセシウムが出てしまいました。5月末に静岡に行った時は箱根の山でさえぎられて静岡は大丈夫と言っていましたが。海江田経産相の再稼働の発言に、原発のある県の知事は反発しています。

<東電も政府・財界いかにせむ、まされるたから子にしかめやも>

「いのち」の観点からすべてを考えればとてもシンプル。

町であう赤ちゃんや子どもがかわいくて嬉しくてありがたくてしかたがない。

鎌田慧さん澤地久枝さんたちが原発是か非か国民投票をしようと呼びかけておられる。

趣旨には賛成だが、いまの日本ではイタリアと同じ結果になるかどうか。

イタリアとドイツと日本で脱原発三国同盟を作ろうという案もある。おもしろいけど他にも入りたい国があるんじゃないの?

薮下で蛙のぺちゃんこになった死体を見る。薮下の景観はすっかり変わった。30年前を知っていると、谷根千も建て込んで、つまらない町になった。

<いまごろになって谷根千いいという人が多くてわれ鼻白む>

千駄木駅前のNTTは地域住民の反対を押し切って工事を着工。こんな下町の商店街の真ん中に、巨大な窓もないような情報サーバービルを造ろうなんて常軌を逸しているが、よみせ通り商店街は反対したのかな。地域振興には何も寄与しないビルだ。これが既存建物の増築だとは、ばかも休み休み言ってほしい。許可した都、責任のがれの区はなにを考えているのだろう。ぜったい、近隣住民の役に立つどころか、景観上も生活の質を下げるうっとおしいビルになる。東電とおなじくNTTは大スポンサーなのでメディアも東京新聞をのぞいては書かない。電磁波、低周波、換気扇の熱風や騒音の被害が予想され、東電とおなじく住民に健康被害があってからでは遅い。

震災日録 6月19日 ちゃ太郎らいぶ

2011年6月23日 木曜日

我らがウーロン亭ちゃ太郎さんが、ブリックワンへ帰って来た。着物に羽織のオペラ落語が、こんどは真っ赤なジャケットでオペラとファド。あいかわらずのわかりやす~い独自の解釈で湧かせる。それにしてもみんなで歌うっていいなあ。

「くらいはしけ」は原題は「黒い船」

波にのまれる恋人の船。

~愛するあなたは死んだんじゃない、いつも私と一緒とみんなが言うわ~

ちゃ太さんの名訳。ああ、石巻で歌ってほしいな。もうすこししたら。

北上で聞いた話を思い出す。押し寄せる津波に、船を守ろうと海の男は津波に向って船を出した。なんてバカな。無謀なことをするの。高台で知り合いの女たちはみんな泣いてた。でも男はみごと波を乗り切って安全な沖にでて、無事に帰ってきましたとさ。家へ帰ってからもユーチューブでファド漬け。

フクシマ2号機、換気。南風。

http://www.dwd.de/wundk/spezial/Sonderbericht_loop.gif

震災日録 6月18日 東京のバックヤードとしての東北

2011年6月23日 木曜日

歯がますます腫れてきた。毎日眠りの質も良くない。夢を見る。

なぜか田舎で私は馬を飼っていて、茅葺きの小屋に暮らしている。小屋をたたんで東京に帰るので、父と母が見に来た。夕鶴のよひょうみたいなおじさんが送別会をやってくれ「あとは馬の世話はしてやっから」というのだが、母が手招きして呼ぶので行くと、「さっき馬の世話代だと言って50万円払わされた」という。大好きだった田舎に裏切られた気もちになって泣きながら東京へ帰る、という夢である。寄田君が南相馬に被曝馬救出に行ったら持ち主にお金を要求されたという話を聞いたせいか。ユングが聞いたらなんていうだろう。

2時から記憶の蔵で、「東京のバックヤードとしての東北」を見る。

「和賀郡和賀町」

岩手の内陸部の町、8月のお盆にはみんなが帰ってくる。仕事がないので東京に出稼ぎにいった人たち。成人式、運動会、戦死者の慰霊祭も行われる。体育館で酒を飲みかわす未亡人たち、皆和服で大きな髷を付け、金歯が光る。男たちはそれぞれの戦争体験を語る。人肉を食べた話、捕虜にきんぴらごぼうを食べさせたら「木の根を削って食べさせた」としてBC級裁判で長い判決を受けた話。町長は、列車の車掌をしていて、学生が横文字を読んでいるのを見て発奮して二高から帝大に進み、内務省で戦時の徴用令を書いたという。いろんな人の人生、そして第三次構造調整で農家の集約化が始まり、二男三男は東京の傾斜生産方式による高度成長を支えるための労働力となっていく。

たしかに。東北道を走っても、常磐道を走っても、倉庫、石油タンク、火力発電所、すべて東京を支えるためのバックヤードだと感じることが多い。東京にもいくつもの面があり、私たち谷根千の町のように、大企業に勤めないで好きなことしてどうにか暮らしている人が多い生活都市東京もあるのだが。

「富ヶ谷国民学校」

NHK近くの富ヶ谷で集団疎開のころの貴重なフィルムが見つかった。とったのは井上医師。子どもたちは次世代の戦力温存のため、まずは静岡へ、それから青森へ集団疎開する。食べ物は大根飯に大根の味噌汁、南瓜の煮付け、でもみんな縄跳びやチャンバラごっこで発散、シラミはうようよいた。中には広島へ縁故で移転、原爆で死んだ子もいる。戦後に十数年経って、かつての仲間が集まる。もう憶い出したくない、という人も。なつかしい、と言う人も。子どもだけでも安全な田舎に逃れさせほっとした表情の両親。

フクシマの子供たちも、集団疎開させた方がいい日が来るのではなかろうか。共同体がうまく機能している面もあれば、避難する意志を鈍らせている面もある。お上意識の強い東北では、まず知事がその先頭に立ってよびかけないとダメかも。そういえば日教組は何をしているんだろう。影うすいな。

震災日録 6月17日 アンペアを減らす

2011年6月23日 木曜日

東京電力に電話をして「節電に協力したいのでアンペア数を減らしたい」というと翌日、作業の人が来てくれた。ここに引っ越し以来、アンペア数はこんなにいらないんじゃないか、と思いながら忙しさにかまけて変えなかった。60アンペアあったがうちの電気の使用量では40あれば充分のようだ。エアコン一台で最大18アンペア、それと電子レンジを付けると14、5アンペア、照明用電気は一個2アンペア、何時もついている冷蔵庫が2アンペア、パソコンを入れても30で大丈夫そうだが、余裕を見て40にした。これで基本料金は1638円から1092円に。一年で6000円、15年で9万円も東京電力に余分にはらっていたことになる。バカな私。

震災日録 6月16日 東京駅屋根のスレート、最終報告です。

2011年6月23日 木曜日

三ヶ月した頃が一番疲れが出るという。石巻から気仙沼、その様子を見てきただけで疲れがどっと出て歯が浮き、腫れて来た。被災地のみなさんの疲れも思いやられる。

東京駅のスレートについても、出る釘はうたれるのたとえ通り、ブログに対する誤読や批判の匿名のメールが来るようになり、心は重い。この国では何かを率先してやろうとする人の足を引っ張ることになっている。まあ、それは谷根千で経験済。

この話自体、被災地の小さな企業が困っていることの実情をたった17人の人に回したメールがきっかけだった。それが要望書に発展し、あっというまに5000人の賛同者が集まったことにも驚いたが、ネット社会の恐さも感じた。またそれぞれの新たなコメントが付けられて伝言ゲームのようになってしまう。

とにかく被災スレートは使えるだけは使っていただけることになったので、他にもしなくてはならない仕事は山ほどあり、私は東京駅のスレートについてはこれで終わりとする。現況については「赤煉瓦を愛する市民の会」のホームページでご覧ください。

*「スペイン産瓦を元々7割も使う予定だった」ことについては私たちは知るわけもありませんでした。4月にJRから聞いて新しくわかったことはその後、賛同者の方たちへは報告してあります。

*賛同者のなかに塩害を心配されている方がいたので、独自に調べてみようとスレートのかけらを持ってきましたが、それは道路などに散乱していて瓦礫として片付けられるべきものを熊谷さん、木村さんの許可を得て「どっちみち使えないものだからどうぞ」というのでいただいてきたものです。塩害はまったく心配ないようです。

*いっぽう「雄勝のスレート産業を復興する会」の口座には現在、多くの支援金をいただいております。この場を借りてお礼申し上げます。代表者がないと口座が開けないので、いちおう私の名で作りましたが、「東京駅を愛する市民の会」へ通帳はお渡ししました。これはJR東日本とはまったく関係ありません。これから洋館を葺く国産材スレートを確保するため、地場産業を育成するためのものです。

震災日録 6月15日 南三陸・気仙沼

2011年6月20日 月曜日

朝、お風呂で。「仮設が当たったので、今日引っ越しするの」という嬉しそうな人に会う。私より2歳若い。どんなところか聞いてみると、単身者用で1DK。

「布団が2組もらえるので寒くなったらかけられるでしょ。といっても仮設は夏は暑くて冬は寒いらしいわ。家電6点セットももらえる。洗濯機、冷蔵庫、炊飯器、電子レンジ、電気ポット、テレビかな。お米は5キロもらえる。カップヌードルとボンカレーも1箱もらえるらしい。でも何かと現金がいるみたいだから、節約して暮らそうと思っているの。仮設からは午前と午後にスーパ-までバスが出るらしい。助かるわ」

やっぱりなあ。ここは日本一すばらしい避難所だとは思うけど、自分の空間にはやく落ち着きたいのも確か。

「でも仕事がないからこれから年金は払えないと思う。年金受給までまだ10年以上もあるんだもの。私も長くはないわね。結婚したことないし、子どももいないから、頼る人いないし。年金もらっていた頼みの両親は今回流されてしまったの。まわり見ていても長生きしているのは子供のいるひとだわよ」

過酷な状況に胸が痛む。そんなこといわないで、まだわかいんだから、これからいいことあるかも知れませんよ。困ったらお友だちに必ず相談してくださいね、と体を洗いながら言った。あんまり友だちもいないからね、話を聞いてもらえてよかったわ、といっていた。

食堂のまえで坐っていたおばあちゃんは血色もいい。「わたしは5人子がいるんだけど。孫は東京で小学校の担任をやってるの。浜の方で津波に会って最初は小学校に避難してた。4月で学校が始まるんで、娘のところへ15日厄介になったけど、子どもたちもスーパーへ勤めたり、看護婦してたり、忙しいから、私はここにいる方がいいの。ただだもの。お風呂も入れるし、自分の部屋もあるし。お父さんはずっとまえに脳梗塞でなくなっちゃった。少しはお役に立ちたいと拭き掃除なんか手伝っているんだけど、浜の方では5時に起きて6時には朝ご飯だったでしょ。だから7時半まで待ち遠しいの」

9時出発。南三陸町へ入る。町長ほか何人かが辛くも助かった防災庁舎は本当に小さかった。チリ津波がここまできたという警報の看板がひしゃげていたが、その何倍も波は高かったのであろう。ガソリンスタンドと病院をのぞいて、海辺の町がまったく消えていた。町づくりでがんばっていた視察も多い町だったのに。

まえに「じぶんの宿」というJTBの取材でお世話になった民宿高倉荘へ。「高台だから大丈夫だと思っていましたが」と御無沙汰を詫びると覚えていてくれた。「民宿で残ったのは3軒だけです。うちもボイラーが壊れてしまったり、主人が地区の長をしているのでそちらへ詰めきりで。きょうも瓦礫の撤去にいっているんですよ」バスを待っている大きな風呂敷を持った方をここまでお乗せして案内してもらった。「その日は70、80の年寄も山を越えて1時間もかけて逃げたんだよ」

気仙沼。ここも8年ほど前、一人旅で訪れた町。活気のある港に大きなマグロ漁船が停泊し、たくさんの船乗りに話を聞いた。かっこいい海の男が多かった。出稼のインドネシアの青年たちも。そして浮き御堂を見たり、旅館でおいしいご飯を食べていたら台風が来た。それは凄い嵐だった。台風一過、女川から金華山まで小さな船でまるでトビウオのように海をホッピングしていった。そういえば女川に高村光太郎の碑があったのを思い出す。調べてみるとその大きな石の碑も津波で倒れたらしい。またそれを建てるのに尽力された貝廣さんという絵描きさんが行方不明だとインターネットに出ている。

たしか碑には「人間は海から生まれ,海に帰っていく」といったことが刻まれていたような。

尾形家という茅葺き民家は茅葺きを修復し、国の登録文化財になる直前に被災。昔は網元だった200年前の民家だ。卒論以来ここに関わっている田上裕子さんの案内で向った。津波の経験は言い伝えられ、「逃げる時は雨戸を閉めるように、そうしないと中のものが全部流されるから」というのでその通りにして高台に避難したという。「もうそのときのことは覚えていません。自分の家が流されていくとき、あー、と叫んでしまったようです。瓦礫として処理される前にと思っていろいろ拾い集めています。きょうはお位牌がひとつ見つかったの。息子の七五三の写真もでてきたのですが、こんなに泥で汚れていたらどうしたらいいのかしら」。旧家尾形家当主は気仙沼市市議をつとめ被災住民とともに、ずっと避難所に詰めきりで帰ってこないという。こんな市議さんもいるんだな。奥さまは茅を葺き終わったし、大島への乗り場へ行く途中なので、ここで茶店でもやって観光客のお休み所を作りたい、という希望を持っておられたようだ。小屋組みはじめ部材もかなり残っているので、どうにか復元してもらえれば。気仙沼の市指定文化財もかなり流されてしまったというし。登録文化財、蔵元男山本店の看板建築も3階部分だけが斜めに残っていた。惨状に呆然とする。

震災日録 6月14日 大川小学校

2011年6月20日 月曜日

2年後にはゴミとなり、プレハブ業界だけがもうかる仮設住宅。政府が予算をつけたのでそのパイの取りあいになっている。そうではなく「国産材による、地元に雇用が落ちる、本建築の復興村」を目指す熊谷さんの話を聞く。防災都市研究家の佐藤隆雄さんもすでに1年以上前のシンポジウムで住民を追い出さない、地元主体の自主建設の重要さを訴えておられた。といっても土地の手当、造成、家の造作その他、たいへんな手間がかかる。きょうは福住さんという白州正子邸などを手がけた庭づくりの方が応援に来ていた。建設予定地を観に行く。仮設に入ったお年寄りの中から阪神淡路では多くの孤独死が発生した。南三陸町だったか、木造のグループホームを一人暮らしの老人のために提案している。それもいいと思う。これからは肩を寄せあって生きていけば。それを行政がサポートしていけば。

建築関係のKさんの話。「うちは高台なのでここから見てました。海がせり上がっていってここまで来るかと思いました。空の様子も変だった。黒くなって風がふいた。電気は切れましたがガスもあるし、あるものを食べてどうにか暮らしました。それから1週間、遺体の収集を手伝って、運んだり、シートをかぶせたりした。あんなにたくさんのなくなった人を見たのは最初で最後でしょう。なんだか食欲もなくなってうんとやせました。寝たきりの老人、障害を持った子どもなどの巡回ケアもまったくないですね。そういう家族がいると避難所にも行けません。病院や施設で預かってもらえば別ですが。もともと通所施設とかそういうのも遅れている地域なんです。もうここを離れていっそ外国へ行って暮らそうかと思う」

どうしても児童が7割近く亡くなった大川小学校へ行ってみたく、寄田勝彦さんの運転で、橋が落ちているのでものすごく遠回りして目指す。すぐ後に芝生のような丘があり、そこにのぼれば絶対助かったのに。何で津波が来るまで40分以上もあったのに、校庭で点呼などとっていたのだろう。きょうを第一歩にしなくては。子どもたちは普通に地域の学校に行かせればいい、と長らく考えてきたが、いまの公立の教師に子どもを守る力はあるのだろうか。学校の教師の第一義は勉強を教えることではなく、コドモの命を守ることではないだろうか。今回、とっさの判断や勘で助かったという話をいくつもきくが、そういう五感の鋭い,生活力のある子どもを育てる別の学校もつくれればいい。

また先生は遺族にもこれから先ずっと手厚い年金がでるそうで、未来を断たれた子どもには一時金しか出ないという。命の値段が違う。この話も聞いてなんだかすっきりしない。

対岸の吉浜小学校でも7人の子どもが亡くなったことはほとんど取り上げられていない。小学校では先生と生徒は屋上に上がって助かったが、一度帰宅した子どもたちは避難所である北上支所に逃げてなくなった。その場合は下校後なので一時金も出ないという。しかし指定された避難所に逃げて、お年寄りも含めこれだけの人が亡くなったなら、行政は責任をとるべきではないか。新聞によると津波対策は高い堤防ではなく、ソフトの訓練や教育を大事にするという方針に替わった。

震災日録 6月13日 追分温泉にて

2011年6月20日 月曜日

朝早くの新幹線で寄田勝彦さんと石巻へ。JR東日本は新幹線使ってどこまでも1日1万円キャンペーンをしており、見舞やボランティアで大変な混雑。仙台で東北本線に乗り換え、松島へ。そこから車で石巻へ。松島は思ったより津波の被害がひどくないように感じた。波の当たる角度とかもあるのだろう。熊谷産業へついて昼ご飯。ちいさなプレハブの社屋には来客引きも切らず、事務の女性たちもその喧噪の中で仕事を続けている。1時に坂下清子さんが現れ、ツナミカの手仕事について相談。そのあと熊谷秋雄さんの案内で、なくなった本社のあと、北上町役場のあとを見て回る。秋丸の信じられないような美しい宇宙、アカマツの林をはしっていると雉子のつがいが飛び出してきた。「わあ、きれい」というと熊谷さん「うまそう」という。ここでなにができるか。夕方、被災した田んぼの見える露天風呂に入る。夜はまた追分温泉にお世話になる。避難者は4月より増えているのみならず、工事会社の人たちもいて少し雰囲気が違う。4月のときかわいかったさくちゃんが心なしか大きくなっている。みんなのアイドル。

ここで働いているSさんの話。「地震の時は家にいました、夜勤明けの長男とのんきに大自然の驚異だねえ、などと釜谷のほうを眺めていました。まさかこんなに北上川を津波がさかのぼってくるなんて。見てるばあいでない、と長男が言って、軽トラに乗って逃げました。となりの小父さんも地震のあとで戸板を直していましたので、「早く逃げらい」と声をかけました。途中で孫を2人連れたおばあちゃんも引っ張り上げて、橋のところへ来たらもう車が流れてきた。左折して長尾の友だちのところへ行ったらそこは高いので大丈夫だった。雪がふってきて、何も上衣を着ていないのに気がつきました。外で火をたいてあったまっていると、誰か来て「追分温泉に行けばいい」というので車で行きました。ここはその日から布団に寝られてありがたかった。よそでは毛布1枚で震えてたって。お父さんはデイサービスに行ってたので、そことも連絡がつかなかったけど、高台だからきっと大丈夫だって、信じるしかなかった。1週間後、行ったけど動けないからごめんね、ここにいてね、といったの。それで息子とここで過ごしています。お父さんが倒れてから田んぼは人にお願いして、私がここで働いてどうにかやってきました。二男も熊谷さんとこで働いていますし。お父さんがどうしても帰りたいというので、一度連れて行きました。変わり果てた我家を見て言葉に障害があるのであーあーとしか声が出ません。が、いま帰れないことがわかったみたい。そうですね。なくしたもので残念なのは、お父さんがリハビリで塗った絵がたくさんあったのにね。あれがあればねえ、せっかく塗ったのに。あと息子が南の島を旅したときにたまたまインタビューされた新聞の記事とかね。預金通帳? たまたま持って逃げたバッグにはいっていたけど赤字だからそれはどうでもよかった」

20年世話した夫にこんなやさしい目を注げるなんて素晴らしい方だと思いました。