震災日録 6月18日 東京のバックヤードとしての東北

歯がますます腫れてきた。毎日眠りの質も良くない。夢を見る。

なぜか田舎で私は馬を飼っていて、茅葺きの小屋に暮らしている。小屋をたたんで東京に帰るので、父と母が見に来た。夕鶴のよひょうみたいなおじさんが送別会をやってくれ「あとは馬の世話はしてやっから」というのだが、母が手招きして呼ぶので行くと、「さっき馬の世話代だと言って50万円払わされた」という。大好きだった田舎に裏切られた気もちになって泣きながら東京へ帰る、という夢である。寄田君が南相馬に被曝馬救出に行ったら持ち主にお金を要求されたという話を聞いたせいか。ユングが聞いたらなんていうだろう。

2時から記憶の蔵で、「東京のバックヤードとしての東北」を見る。

「和賀郡和賀町」

岩手の内陸部の町、8月のお盆にはみんなが帰ってくる。仕事がないので東京に出稼ぎにいった人たち。成人式、運動会、戦死者の慰霊祭も行われる。体育館で酒を飲みかわす未亡人たち、皆和服で大きな髷を付け、金歯が光る。男たちはそれぞれの戦争体験を語る。人肉を食べた話、捕虜にきんぴらごぼうを食べさせたら「木の根を削って食べさせた」としてBC級裁判で長い判決を受けた話。町長は、列車の車掌をしていて、学生が横文字を読んでいるのを見て発奮して二高から帝大に進み、内務省で戦時の徴用令を書いたという。いろんな人の人生、そして第三次構造調整で農家の集約化が始まり、二男三男は東京の傾斜生産方式による高度成長を支えるための労働力となっていく。

たしかに。東北道を走っても、常磐道を走っても、倉庫、石油タンク、火力発電所、すべて東京を支えるためのバックヤードだと感じることが多い。東京にもいくつもの面があり、私たち谷根千の町のように、大企業に勤めないで好きなことしてどうにか暮らしている人が多い生活都市東京もあるのだが。

「富ヶ谷国民学校」

NHK近くの富ヶ谷で集団疎開のころの貴重なフィルムが見つかった。とったのは井上医師。子どもたちは次世代の戦力温存のため、まずは静岡へ、それから青森へ集団疎開する。食べ物は大根飯に大根の味噌汁、南瓜の煮付け、でもみんな縄跳びやチャンバラごっこで発散、シラミはうようよいた。中には広島へ縁故で移転、原爆で死んだ子もいる。戦後に十数年経って、かつての仲間が集まる。もう憶い出したくない、という人も。なつかしい、と言う人も。子どもだけでも安全な田舎に逃れさせほっとした表情の両親。

フクシマの子供たちも、集団疎開させた方がいい日が来るのではなかろうか。共同体がうまく機能している面もあれば、避難する意志を鈍らせている面もある。お上意識の強い東北では、まず知事がその先頭に立ってよびかけないとダメかも。そういえば日教組は何をしているんだろう。影うすいな。