お年賀の代わりに2014年2月、はじめて行ったメキシコとグアテマラの旅日誌をお送りします。
2016年2月 のアーカイブ
2016年 迎春
2016年2月1日 月曜日2014年3月7日
2016年2月1日 月曜日長旅でした。成田からバンクーバーまで9時間。3時間待ちでメキシコシティまで5時間半。
いつ寝たのかもわからない。カナダエアは割とよかった。アメリカ経由でないので、トランジットでボディチェックなどいっさいなし。バンクーバー空港ではスマホに入っている録音を、ひたすらパソコンで起こしてた。メキシコシティの空港のイミグレ(通関)で3列前にサンド夫妻を発見、巡り会えてほっとした。
メキシコの下町の安宿。15世紀くらいの建物で、天井高5メートル。最初の部屋は屋上からつながる窓のない部屋なので変えてもらった。バーはカラオケでうるさいので、テキーラをロビーでのんでおしゃべりして寝ました。テキーラは手の甲に塩をつけ、ライムをなめ、くっとやる。かなり強い酒。トマトジュースで割ったのもあります。窓から見る石畳の町。
2014年3月8日
2016年2月1日 月曜日ホテルイザベルはイザベル・カトリコ通りにある。とても便利で、地元の人のたまり場になってるホテル。朝は8時半に朝食、明るい食堂で。トルテーリャという薄焼きクレープにトマトソースや生クリーム、チーズをかけたものに、コーヒーとフレッシュジュースがついて80ペソ。相当物価が上がっているそうだ。1ドルは12ペソ。1ドルは105円(当時)なので、まあ1ペソ10円くらいか。
カンビオに両替に行く。王宮前広場には軍隊のテントがいっぱい建っている。こうした広い広場に王宮とカソリックのカテドラルがあるのは植民地にしたスペインが指図してつくらせたもの。ホテルの名、イザベルはスペイン無敵艦隊のイザベラ女王、すなわち植民地支配者にちなんだもの。彼女の肖像画が飾ってある。となりの通りは独立活動家の名を取ったシモン・ボリバー通り。飲食店が多い。インディオの国、アステカの文明を滅ぼして、スペインの征服者エルナン・コルテスがメキシコに侵略者として入ってきた。コルテスは最初、法律家になろうとしてかなわず、1511年のキューバ征服を手始めに、アステカを滅ぼし1525年、メキシコをスペインに併合。ヌオーボ・エスパーニャ、新スペインと称す。その功績に寄って侯爵に叙せられた。アステカの首都はチノチティトランといって湖に浮かぶ都市だった。これが今のメキシコシティ。征服者は略奪や虐殺を行ない、コルテスも現地の女性をメカケにし、その子孫はいまもいるという。昔、高校の世界史で習ったことを思い出す。こういう混血をメスティーソという。
カソリックは今も85パーセント。カペラ(大聖堂)には地元の人がたくさん来て大きなパイプオルガンもあった。外では一本足の自動オルガンが多い。カテドラルの周辺では、私は何ができます、と書いた札を持って仕事を求める人あり。物乞いも多い。
旧大統領府はいまは美術館になって、マヤの文明展をやっている。みんな動物の頭をかぶったり、動物の模様をつけている。文字も絵柄みたいなもの。ここにはディエゴ・リベラのすばらしい壁画がいっぱいある。庭には噴水。江戸は火事が多かったというが、なんで噴水はなかったのだろう?
アズール・ヒストリコという中庭のレストランへいく。木が繁茂して薄暗い空間。食べたのはブタ、鶏のスモーキーチョコレートソース、野鳥、ハイビスカス。みなとても変わった味で、ソースにこっている。モレという、いろんなものを混ぜて上からかける。
サンドさんの連れ合い、志保子さんは小樽で大きな農家をひいおじいさん、おじいさんがやっていた。高校を出て世界を知ろうとスペインに来た。それからメキシコに来てみて、こっちの方がすっと好きになった。それからラテン・アメリカの人権、貧困、女性の地位向上などの活動をNGOでつづけ、今は主にグアテマラで援助をして1年に2回来る。
そのときに下宿したおばさん、エスペランサとは今も仲良くしている。今日、ランチに来てくれた。とても優雅な婦人で、おしゃれをして現れた。彼女は両親が移民してニュージーランドのオークランド生まれ、それから故郷メキシコに帰って、育った。アルゼンチンの軍人と結婚して、南極に近いフアンゴとか言う町に居たことがある。寒くて大変だった。そうか、アルゼンチンは縦に細長く、南端は寒いのか。メキシコシティに帰って、二人でレストランをしたが、夫が浮気したので離婚、手料理を食べさせる小さな店を経営し、今も一人暮らし。小柄で、困っている人を助けるのが趣味で、白いシャツを清潔に着ていた。
どうやってメキシコはスペインの支配を脱したのか。志保子さんの解説。メキシコ独立戦争は1810−18年まで起こり独立を果たす。
メキシコ革命は1910−18年、辛亥革命の前年、日韓併合の年。英雄はエミリアーノ・サパタという人。白人とインディオの混血メスティーソの地主だが「土地と自由」を求めて政府に盾を突いた。スペインは先住民を奴隷にしてはいけないとしていたので、アフリカからたくさんの奴隷が連れてこられ、そちらとの混血も進んだ。
インディオの血の濃いサパタはインディオの権利のためにたたかい、「強奪された土地、森、水などは正当な権利を有する村や人民のものだ」という「アヤラ綱領」を宣言したが、武装闘争の中で39歳で殺された。エリア・カザン「革命児サパタ」はスタインベックの脚本。マーロン・ブランド主演の映画。アナキスト系、サパタに影響を受けた人々がサパティスタ、民族解放軍はいまもチアバス州でゲリラ活動をしている。これがポストモダンゲリラでインターネットを駆使し、一般人に暴力は振るわない。テロもやらない。反グローバリズム、トウモロコシ農民の立場に立って、NAFTAに反対している。
メキシコは亡命者に優しい土地なのか、トロツキー、佐野碩、チェ・ゲバラ、カストロ、いろんな人が来た。トロツキーはリベラとフリーダ・カーロ夫妻の家に居たが、フリーダと恋の末、仲違いして、別の家に行ったときに殺された。暗殺にはもう一人の有名な画家シケイロスが関わっているとされる。暗殺は1940年。
佐野碩は大分杵築の医者佐野彪太の子で、母は後藤新平の娘なので、鶴見俊輔さんたちと従兄弟ということになる。佐野学は叔父。東大新人会から演劇運動に入り、ソビエトでメイエルホリドの助手となり、大粛清の時代にヨーロッパ経由でメキシコに亡命、メキシコ演劇を指導、「メキシコ演劇の父」といわれ、かの地でなくなる。
片山潜はメキシコ共産党の結成に尽力。と大変興味深い。このほか、スペイン戦争の廃残組も受け入れた。
戦後の日本人では黒沼ユリ子氏というバイオリニスト。高校音楽コンクールで優勝したような人だが、メキシコ人学者と結婚してこちらで音楽学院をつくり、すでに1000人の音楽家を育てたという。彼女が1962年、最晩年の佐野碩とあったときに、日本語を忘れはてていると聞いていたが、彼は流暢な日本語を話したという。佐野は一時、スターリンのスパイで、トロツキー暗殺に関わっているという説が石垣綾子などによって唱えられたが、加藤哲郎などによればその疑惑には証拠がない。
メキシコはいまは制度的革命党の長期政権で、社会主義的政策からは離脱。貧富の差が大きくなっている。
マヤ文明。紀元前8000年にトウモロコシを栽培。頭を板で押さえてトウモロコシみたいな頭にしたらしい。銀の採取と輸出もしていた。
メキシコシティは中米第1の都市で1200万人、高度は2000メートルで酸素が薄く、ふらふらする。最初は火口湖に浮かんだ都市だった。それが埋め立てられるが今も下に膨大な水源あり。昼食後、市の博物館に行く。大きな邸を改装して、ボサーダという風刺画家の展覧会がとても面白い。字が読めない人に何かを伝えるために、演劇やサーカス、シネマは大きな力があった。セルバンテス、天草四郎、気球、殺人事件などを出し物にしていたらしい。天草四郎とは。
メキシコバロックという建築様式をあちこちで見る。石が灰色で、彫りが深く、曲線を多用し、おもおもしい。そのなかにモダニズム、分離派、社会主義建築などが混ざる。広場にアステカの11代目の皇帝クアウテモックのすごく美男子の像があった。コルテスに拷問され、絞首刑になったが今は、メキシコの英雄だ。現地人にあわせるためか、キリストやマリアの顔も黒い。グアダルーペのマリア。顔が服に映ったという伝説があり、メキシコ中で信仰されている。
一休みして、夕方、ゲバラとカストロがよく来たというカフェ、ハバナに行く。作家のガルシア・マルケスや詩人オクタビア・パスも来ていたという。昔と変わらない良い雰囲気。大きな扇風機が天井で回る。それから「インディオ」という町の飲み屋に行き、牛のキンタマのガーリックソテーを食べた。さっぱりしておいしかった。サンドさんは「男としては複雑だ」といって食べなかった。志保子さんが何でも解説してくれるのでとっても勉強になる。
帰るとまたバーは地元民のカラオケで大騒ぎなのでテキーラだけ飲んでねる。
2014年3月9日
2016年2月1日 月曜日メキシコシティは調べてみたら人口1900万だった。昨日、地下鉄に乗ったが字の読めない人のため、それぞれの駅はマークを持っていた。なるほど、これなら降りる駅を間違えない。アステカ王国時代はテノチティトランといい、多神教による神的支配が行われていた。雨乞いや豊穣を祈るのにも、人身御供の心臓を黒曜石で切り取って神に捧げる。人身御供になるのは名誉なこと。ボール競技の勝者も勝った直後に殺された。征服者コルテスはこういう風習は野蛮だとしてやめさせたそうである。メキシコシティは3、4月が一番暑い。乾燥していて朝晩は寒い。日陰は涼しいが高度2000メートル以上で、空気が薄いのでアルコールにすぐ酔っぱらう。大気汚染は高原の盆地なのでひどい。
1531年のグアダルーペの聖母の奇跡は有名だ。インディオの男ディエゴの前に聖母が現れ、親類の病気を治してくれた。そのときディエゴのマントに聖母の姿がうつったという。1537年、ローマ教皇はメキシコ先住民を理性ある人間として扱い、迫害をやめるよう要請。20世紀にはいってサパタ派の革命家たちも聖母のブローチを帽子に止めていたという。
そういえば1968年の東京の次のオリンピックはメキシコシティだった。
1985年のメキシコ大地震のとき、志保子さんはメキシコシティにいたという。
メキシコ人はプロレスが大好き。街角にスポーツバーがあってサッカーの実況中継をテレビでやってる。名古屋市と姉妹都市だそうな。
今朝は8時に家を出て、朝ご飯をメキシコのファミレスでとり、おいしくないからパパイヤとコーヒのみ。志保子さんはすごく物価が上がっているという。これだけで70ペソで700円あまり。地下鉄に乗ってコヨアカンに行く。オオカミという意味だからそのマークが駅に付いている。南の緑濃い住宅地で、日曜にはたくさんの人が遊びにくる名所。公園においしいレストランにショッピング。
そこに女性画家フリーダ・カーロの美術館がある。ずいぶん昔に晶文社から出た伝記を読んだ。1907年裕福な家に生まれ、子どもの時小児まひにかかり、17歳で市電かなんかで事故にあって、生涯、義足とコルセットを余儀なくされた。しかしプライドの高い人で自由に生きた。20くらいで40くらいのディエゴ・リベラという有名な画家のおっさんと恋愛、結婚する。フリーダは意志的な顔、高い鼻、太い眉、大きな口、メキシコの伝統的な衣装を着け、髪も高く結っていた。
しかしリベラの度重なる浮気に傷つき、子どもが生まれなかったことで悩んだ。かなりエキセントリックな強い性格で、いろんな芸術活動をし、それが彼女に取ってはセラピーだった。フリーダは偉大な画家リベラの妻として認識されていたが、その自ら描いた絵が知られると、死後は大変な人気をえた。
自宅が美術館になっており、「私には足がない。でも翅があるから飛ぶことができる」とかいろんな彼女の言葉が壁に書いてある。
アンドレ・ブルトンなどとも交流があり、1930年代にロシアの革命家トロツキーを自邸にかくまった。もちろん長続きせず、トロツキーが引っ越した家がトロツキー博物館になっている。というかフリーダとトロツキーは男女の関係にあった。そこにもいってみた。彼は奥さんのナタリアと来て、質素な家を事務所にして、秘書を使ってここから世界同時革命を指導していた。鶏を飼い、トウモロコシを植えた。1940年、刺客が来て女中と懇ろになり、家に入り込み、トロツキーを暗殺。
というか展示を見て驚く。スターリンはレーニンの死後、ナンバー2だったトロツキーの家族を根絶やしにしようと、それ以前に息子2人を処刑、その妻たちは自殺したり、と家族中を虐殺した。といってトロツキーはメキシコでゲバラのように人気があるわけでなく、理論的にも誤りがあるとされている。日本では過激派のことを一般に「トロツキスト」と言う。このレッテルはりは間違っていることもあるが。たくさん写真あり。髪はもじゃもじゃ、ひげをはやし、ど近眼。
サンドさんの主張により、かなり遠い広場までメキシコ料理を食べに行く。女2人はもっと近くでいいよ、といったのだが。でもいってよかった。この店の方が昨日より口に合う。エビの緑のソースの前菜、トウモロコシにつく虫のスープ、豚肉のユカタン半島煮こみ、牛肉とほぐしたソーセージを載せたメキシコ風ピザなど。変ったものばかりだ。
サンドさんも志保子さんも2人とも「絶対にまずいものは食べたくないタイプ」。
私もそうだ。けっこうこだわりが強い2人は喧嘩するの ?と聞くとサンドさん「しょっちゅうだよ。だから森さん呼んだんでしょ」と笑う。2人より3人のようが合意形成がうまくいく。
食事の後は子供たちにあげる本を選びに「ガンジー」という書店にいった。2人はグアテマラ人の女の子を2人世話をしている。フォスター・チャイルドという制度だ。ここにもイラク人の女性建築家ザハ・ハディドの本がたくさんあった。スペイン語なので買わなかった。教会でミサを見学、17世紀の邸宅が並ぶ通りを歩いたがみんな超高級で、ものすごい高い塀と大きな木の扉のついたカーポート、中なんか見えなかった。でももっと金持ちが住む街区が北の方にあるという。
フリーダ・カーロ美術館の100ペソもした券で、リベラの美術館も見られるというのでタクシー行く。灰色の石でできた、アステカの神殿を模したような、インディー・ジョーンズの迷宮のようなすごい建物に、リベラが集めた考古学資料というか発掘物を並べている。彼の絵の収入はこれに化けたのか? 壁画の下絵もたくさんあって、そこには毛沢東やスターリンが書かれている。要するに主義が勝った芸術だ。
アメリカのロックフェラーセンターの依頼で、化学や電気が社会を躍進させるような絵を描いてほしいと言われたのに、暗い未来予測図を書こうとしてキャンセルされた。その下絵もある。屋上からはメキシコシティが一望。周り全部山。この都市は巨大な火山のカルデラ湖の上につくられ、ドンドン埋め建てられたというのがわかる。
私も志保子さんも息を切らしながら背の高いサンドさんを追う。「都電の駅まで歩いて、電車で帰ってもいいね」というサンドさんに、志保子さんは「タクシーで地下鉄の駅まで行って地下鉄で帰ろう」といい、私も賛成。歳の差を感じる。わたし59、志保子さん私の2つ下、ジョルダンは7つ下。地下鉄は10も乗った。どこまで乗っても5ペソだから、出るとき改札はない。赤ちゃん連れの女性なんか乗ってくるとかなりな年のおじさんでも、遠くからよんで席を譲る。えらいねーというと、志保子さん、「これがメキシコ流マチスモ、女性に親切なように見えて、庇護して上に立ちたいのよ」という。車内には物売りが多くくる。
ホテルに帰って1時間爆睡。自分で足をマッサージして少し元気を取り戻し、屋台のトルテーリャを食べに行く。おそらくこの店が今回最高だろう。トウモロコシで焼いた小さなクレープみたいな上に、焼いた牛のトリッパと牛肉を細かく叩いたのを載せ、タマネギのみじん切りや香草を載せてソースをたらし、紙でくるっと巻く。たった11ペソ。いつも満員。この店に来るためにも、あのホテルにまた泊まりたい。志保子さんはけっこう酒豪で、ビールを飲みに行こう、と感じよいビアホールに。黒いビールが冷たくておいしい、つまみにスペイン風オムレツとパエリャを頼んだら、ものすごいボリュームでのけぞった。
ホテルに帰り、寝酒のテキーラを飲もうとバーに。2晩はカラオケで大変だったが、今日は静かで流しのギター弾き、バーのオーナーが朗々とうたう。拍手をしたらこっちの席にきて座り込み、つぎつぎ歌うので、まいった。向こう隅のカナダの客はカウンターにさそっても絶対来なかった。
「たまたま会った偶然に感謝しよう。遠くからの旅人がうちの店で楽しんでくれたらこんなにうれしいことはない。おれはご覧の通り、顔はよくないが、心は温かい」とかなんとかいっちゃって、「でもチャーミングよ」といってあげたら、「図に乗るからやめとけ」と志保子さんは訳さない。でも志保子さんのスペイン語の流暢なのには驚く。ジョルダンも片言がしゃべれるし内容はわかる。オーナー夫妻はここからはなれた貧民窟のゴミの山のあるような地域に暮らしているという。「この国の警察官は賄賂をもらい、マフィアに手名付けられたりして、腐敗し切っている。このまえ、アメリカ人が来てゴミの山を写真に撮りたいというから案内したが、あんな高そうなカメラを持ってあの地域をうろついたら何がおこったか知らない。その後出会わないけど、無事かな。うちも2回強盗に入られ妻は襲われた」とのこと。興味は広がるばかりだが、もうかなり眠たくなった。
まだ見残しが多いから、またきたい。でもスペイン語ができないとこんな旅は難しい。英語はほとんどの人は話せない。
2014年3月10日
2016年2月1日 月曜日朝、有名なカフェが8時からやっているというので行ってみるがしまっている。
そこでデパート併設のカフェで朝ご飯。ここも天井が高く、装飾がすごい。オムレツ、団扇サボテンのジュースなど。ウェイトレス、ものすごく大げさな、黄色い裃のようなドレス、横縞のスカート。イメルダ夫人のように。
帰ると10時に約束した空港へのタクシーがなかなか来ず。
大きなバンで空港へ。運転手「200ペソってなんて言うんだ?」と聞く。「おはよう、女友達!」と私に日本語でいう。インタージェットとかいうメキシコの飛行機。