2014年3月9日

メキシコシティは調べてみたら人口1900万だった。昨日、地下鉄に乗ったが字の読めない人のため、それぞれの駅はマークを持っていた。なるほど、これなら降りる駅を間違えない。アステカ王国時代はテノチティトランといい、多神教による神的支配が行われていた。雨乞いや豊穣を祈るのにも、人身御供の心臓を黒曜石で切り取って神に捧げる。人身御供になるのは名誉なこと。ボール競技の勝者も勝った直後に殺された。征服者コルテスはこういう風習は野蛮だとしてやめさせたそうである。メキシコシティは3、4月が一番暑い。乾燥していて朝晩は寒い。日陰は涼しいが高度2000メートル以上で、空気が薄いのでアルコールにすぐ酔っぱらう。大気汚染は高原の盆地なのでひどい。
1531年のグアダルーペの聖母の奇跡は有名だ。インディオの男ディエゴの前に聖母が現れ、親類の病気を治してくれた。そのときディエゴのマントに聖母の姿がうつったという。1537年、ローマ教皇はメキシコ先住民を理性ある人間として扱い、迫害をやめるよう要請。20世紀にはいってサパタ派の革命家たちも聖母のブローチを帽子に止めていたという。

そういえば1968年の東京の次のオリンピックはメキシコシティだった。
1985年のメキシコ大地震のとき、志保子さんはメキシコシティにいたという。
メキシコ人はプロレスが大好き。街角にスポーツバーがあってサッカーの実況中継をテレビでやってる。名古屋市と姉妹都市だそうな。

今朝は8時に家を出て、朝ご飯をメキシコのファミレスでとり、おいしくないからパパイヤとコーヒのみ。志保子さんはすごく物価が上がっているという。これだけで70ペソで700円あまり。地下鉄に乗ってコヨアカンに行く。オオカミという意味だからそのマークが駅に付いている。南の緑濃い住宅地で、日曜にはたくさんの人が遊びにくる名所。公園においしいレストランにショッピング。

そこに女性画家フリーダ・カーロの美術館がある。ずいぶん昔に晶文社から出た伝記を読んだ。1907年裕福な家に生まれ、子どもの時小児まひにかかり、17歳で市電かなんかで事故にあって、生涯、義足とコルセットを余儀なくされた。しかしプライドの高い人で自由に生きた。20くらいで40くらいのディエゴ・リベラという有名な画家のおっさんと恋愛、結婚する。フリーダは意志的な顔、高い鼻、太い眉、大きな口、メキシコの伝統的な衣装を着け、髪も高く結っていた。
しかしリベラの度重なる浮気に傷つき、子どもが生まれなかったことで悩んだ。かなりエキセントリックな強い性格で、いろんな芸術活動をし、それが彼女に取ってはセラピーだった。フリーダは偉大な画家リベラの妻として認識されていたが、その自ら描いた絵が知られると、死後は大変な人気をえた。
自宅が美術館になっており、「私には足がない。でも翅があるから飛ぶことができる」とかいろんな彼女の言葉が壁に書いてある。
image007アンドレ・ブルトンなどとも交流があり、1930年代にロシアの革命家トロツキーを自邸にかくまった。もちろん長続きせず、トロツキーが引っ越した家がトロツキー博物館になっている。というかフリーダとトロツキーは男女の関係にあった。そこにもいってみた。彼は奥さんのナタリアと来て、質素な家を事務所にして、秘書を使ってここから世界同時革命を指導していた。鶏を飼い、トウモロコシを植えた。1940年、刺客が来て女中と懇ろになり、家に入り込み、トロツキーを暗殺。
image008というか展示を見て驚く。スターリンはレーニンの死後、ナンバー2だったトロツキーの家族を根絶やしにしようと、それ以前に息子2人を処刑、その妻たちは自殺したり、と家族中を虐殺した。といってトロツキーはメキシコでゲバラのように人気があるわけでなく、理論的にも誤りがあるとされている。日本では過激派のことを一般に「トロツキスト」と言う。このレッテルはりは間違っていることもあるが。たくさん写真あり。髪はもじゃもじゃ、ひげをはやし、ど近眼。

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サンドさんの主張により、かなり遠い広場までメキシコ料理を食べに行く。女2人はもっと近くでいいよ、といったのだが。でもいってよかった。この店の方が昨日より口に合う。エビの緑のソースの前菜、トウモロコシにつく虫のスープ、豚肉のユカタン半島煮こみ、牛肉とほぐしたソーセージを載せたメキシコ風ピザなど。変ったものばかりだ。
サンドさんも志保子さんも2人とも「絶対にまずいものは食べたくないタイプ」。

私もそうだ。けっこうこだわりが強い2人は喧嘩するの ?と聞くとサンドさん「しょっちゅうだよ。だから森さん呼んだんでしょ」と笑う。2人より3人のようが合意形成がうまくいく。
食事の後は子供たちにあげる本を選びに「ガンジー」という書店にいった。2人はグアテマラ人の女の子を2人世話をしている。フォスター・チャイルドという制度だ。ここにもイラク人の女性建築家ザハ・ハディドの本がたくさんあった。スペイン語なので買わなかった。教会でミサを見学、17世紀の邸宅が並ぶ通りを歩いたがみんな超高級で、ものすごい高い塀と大きな木の扉のついたカーポート、中なんか見えなかった。でももっと金持ちが住む街区が北の方にあるという。

image010フリーダ・カーロ美術館の100ペソもした券で、リベラの美術館も見られるというのでタクシー行く。灰色の石でできた、アステカの神殿を模したような、インディー・ジョーンズの迷宮のようなすごい建物に、リベラが集めた考古学資料というか発掘物を並べている。彼の絵の収入はこれに化けたのか? 壁画の下絵もたくさんあって、そこには毛沢東やスターリンが書かれている。要するに主義が勝った芸術だ。
アメリカのロックフェラーセンターの依頼で、化学や電気が社会を躍進させるような絵を描いてほしいと言われたのに、暗い未来予測図を書こうとしてキャンセルされた。その下絵もある。屋上からはメキシコシティが一望。周り全部山。この都市は巨大な火山のカルデラ湖の上につくられ、ドンドン埋め建てられたというのがわかる。
私も志保子さんも息を切らしながら背の高いサンドさんを追う。「都電の駅まで歩いて、電車で帰ってもいいね」というサンドさんに、志保子さんは「タクシーで地下鉄の駅まで行って地下鉄で帰ろう」といい、私も賛成。歳の差を感じる。わたし59、志保子さん私の2つ下、ジョルダンは7つ下。地下鉄は10も乗った。どこまで乗っても5ペソだから、出るとき改札はない。赤ちゃん連れの女性なんか乗ってくるとかなりな年のおじさんでも、遠くからよんで席を譲る。えらいねーというと、志保子さん、「これがメキシコ流マチスモ、女性に親切なように見えて、庇護して上に立ちたいのよ」という。車内には物売りが多くくる。

ホテルに帰って1時間爆睡。自分で足をマッサージして少し元気を取り戻し、屋台のトルテーリャを食べに行く。おそらくこの店が今回最高だろう。トウモロコシで焼いた小さなクレープみたいな上に、焼いた牛のトリッパと牛肉を細かく叩いたのを載せ、タマネギのみじん切りや香草を載せてソースをたらし、紙でくるっと巻く。たった11ペソ。いつも満員。この店に来るためにも、あのホテルにまた泊まりたい。志保子さんはけっこう酒豪で、ビールを飲みに行こう、と感じよいビアホールに。黒いビールが冷たくておいしい、つまみにスペイン風オムレツとパエリャを頼んだら、ものすごいボリュームでのけぞった。

ホテルに帰り、寝酒のテキーラを飲もうとバーに。2晩はカラオケで大変だったが、今日は静かで流しのギター弾き、バーのオーナーが朗々とうたう。拍手をしたらこっちの席にきて座り込み、つぎつぎ歌うので、まいった。向こう隅のカナダの客はカウンターにさそっても絶対来なかった。

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「たまたま会った偶然に感謝しよう。遠くからの旅人がうちの店で楽しんでくれたらこんなにうれしいことはない。おれはご覧の通り、顔はよくないが、心は温かい」とかなんとかいっちゃって、「でもチャーミングよ」といってあげたら、「図に乗るからやめとけ」と志保子さんは訳さない。でも志保子さんのスペイン語の流暢なのには驚く。ジョルダンも片言がしゃべれるし内容はわかる。オーナー夫妻はここからはなれた貧民窟のゴミの山のあるような地域に暮らしているという。「この国の警察官は賄賂をもらい、マフィアに手名付けられたりして、腐敗し切っている。このまえ、アメリカ人が来てゴミの山を写真に撮りたいというから案内したが、あんな高そうなカメラを持ってあの地域をうろついたら何がおこったか知らない。その後出会わないけど、無事かな。うちも2回強盗に入られ妻は襲われた」とのこと。興味は広がるばかりだが、もうかなり眠たくなった。
まだ見残しが多いから、またきたい。でもスペイン語ができないとこんな旅は難しい。英語はほとんどの人は話せない。