2014年3月8日

ホテルイザベルはイザベル・カトリコ通りにある。とても便利で、地元の人のたまり場になってるホテル。朝は8時半に朝食、明るい食堂で。トルテーリャという薄焼きクレープにトマトソースや生クリーム、チーズをかけたものに、コーヒーとフレッシュジュースがついて80ペソ。相当物価が上がっているそうだ。1ドルは12ペソ。1ドルは105円(当時)なので、まあ1ペソ10円くらいか。
カンビオに両替に行く。王宮前広場には軍隊のテントがいっぱい建っている。こうした広い広場に王宮とカソリックのカテドラルがあるのは植民地にしたスペインが指図してつくらせたもの。ホテルの名、イザベルはスペイン無敵艦隊のイザベラ女王、すなわち植民地支配者にちなんだもの。彼女の肖像画が飾ってある。となりの通りは独立活動家の名を取ったシモン・ボリバー通り。飲食店が多い。インディオの国、アステカの文明を滅ぼして、スペインの征服者エルナン・コルテスがメキシコに侵略者として入ってきた。コルテスは最初、法律家になろうとしてかなわず、1511年のキューバ征服を手始めに、アステカを滅ぼし1525年、メキシコをスペインに併合。ヌオーボ・エスパーニャ、新スペインと称す。その功績に寄って侯爵に叙せられた。アステカの首都はチノチティトランといって湖に浮かぶ都市だった。これが今のメキシコシティ。征服者は略奪や虐殺を行ない、コルテスも現地の女性をメカケにし、その子孫はいまもいるという。昔、高校の世界史で習ったことを思い出す。こういう混血をメスティーソという。

カソリックは今も85パーセント。カペラ(大聖堂)には地元の人がたくさん来て大きなパイプオルガンもあった。外では一本足の自動オルガンが多い。カテドラルの周辺では、私は何ができます、と書いた札を持って仕事を求める人あり。物乞いも多い。

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旧大統領府はいまは美術館になって、マヤの文明展をやっている。みんな動物の頭をかぶったり、動物の模様をつけている。文字も絵柄みたいなもの。ここにはディエゴ・リベラのすばらしい壁画がいっぱいある。庭には噴水。江戸は火事が多かったというが、なんで噴水はなかったのだろう?

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アズール・ヒストリコという中庭のレストランへいく。木が繁茂して薄暗い空間。食べたのはブタ、鶏のスモーキーチョコレートソース、野鳥、ハイビスカス。みなとても変わった味で、ソースにこっている。モレという、いろんなものを混ぜて上からかける。
サンドさんの連れ合い、志保子さんは小樽で大きな農家をひいおじいさん、おじいさんがやっていた。高校を出て世界を知ろうとスペインに来た。それからメキシコに来てみて、こっちの方がすっと好きになった。それからラテン・アメリカの人権、貧困、女性の地位向上などの活動をNGOでつづけ、今は主にグアテマラで援助をして1年に2回来る。
そのときに下宿したおばさん、エスペランサとは今も仲良くしている。今日、ランチに来てくれた。とても優雅な婦人で、おしゃれをして現れた。彼女は両親が移民してニュージーランドのオークランド生まれ、それから故郷メキシコに帰って、育った。アルゼンチンの軍人と結婚して、南極に近いフアンゴとか言う町に居たことがある。寒くて大変だった。そうか、アルゼンチンは縦に細長く、南端は寒いのか。メキシコシティに帰って、二人でレストランをしたが、夫が浮気したので離婚、手料理を食べさせる小さな店を経営し、今も一人暮らし。小柄で、困っている人を助けるのが趣味で、白いシャツを清潔に着ていた。

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どうやってメキシコはスペインの支配を脱したのか。志保子さんの解説。メキシコ独立戦争は1810−18年まで起こり独立を果たす。
メキシコ革命は1910−18年、辛亥革命の前年、日韓併合の年。英雄はエミリアーノ・サパタという人。白人とインディオの混血メスティーソの地主だが「土地と自由」を求めて政府に盾を突いた。スペインは先住民を奴隷にしてはいけないとしていたので、アフリカからたくさんの奴隷が連れてこられ、そちらとの混血も進んだ。

インディオの血の濃いサパタはインディオの権利のためにたたかい、「強奪された土地、森、水などは正当な権利を有する村や人民のものだ」という「アヤラ綱領」を宣言したが、武装闘争の中で39歳で殺された。エリア・カザン「革命児サパタ」はスタインベックの脚本。マーロン・ブランド主演の映画。アナキスト系、サパタに影響を受けた人々がサパティスタ、民族解放軍はいまもチアバス州でゲリラ活動をしている。これがポストモダンゲリラでインターネットを駆使し、一般人に暴力は振るわない。テロもやらない。反グローバリズム、トウモロコシ農民の立場に立って、NAFTAに反対している。

メキシコは亡命者に優しい土地なのか、トロツキー、佐野碩、チェ・ゲバラ、カストロ、いろんな人が来た。トロツキーはリベラとフリーダ・カーロ夫妻の家に居たが、フリーダと恋の末、仲違いして、別の家に行ったときに殺された。暗殺にはもう一人の有名な画家シケイロスが関わっているとされる。暗殺は1940年。
佐野碩は大分杵築の医者佐野彪太の子で、母は後藤新平の娘なので、鶴見俊輔さんたちと従兄弟ということになる。佐野学は叔父。東大新人会から演劇運動に入り、ソビエトでメイエルホリドの助手となり、大粛清の時代にヨーロッパ経由でメキシコに亡命、メキシコ演劇を指導、「メキシコ演劇の父」といわれ、かの地でなくなる。
片山潜はメキシコ共産党の結成に尽力。と大変興味深い。このほか、スペイン戦争の廃残組も受け入れた。

戦後の日本人では黒沼ユリ子氏というバイオリニスト。高校音楽コンクールで優勝したような人だが、メキシコ人学者と結婚してこちらで音楽学院をつくり、すでに1000人の音楽家を育てたという。彼女が1962年、最晩年の佐野碩とあったときに、日本語を忘れはてていると聞いていたが、彼は流暢な日本語を話したという。佐野は一時、スターリンのスパイで、トロツキー暗殺に関わっているという説が石垣綾子などによって唱えられたが、加藤哲郎などによればその疑惑には証拠がない。
メキシコはいまは制度的革命党の長期政権で、社会主義的政策からは離脱。貧富の差が大きくなっている。
マヤ文明。紀元前8000年にトウモロコシを栽培。頭を板で押さえてトウモロコシみたいな頭にしたらしい。銀の採取と輸出もしていた。

メキシコシティは中米第1の都市で1200万人、高度は2000メートルで酸素が薄く、ふらふらする。最初は火口湖に浮かんだ都市だった。それが埋め立てられるが今も下に膨大な水源あり。昼食後、市の博物館に行く。大きな邸を改装して、ボサーダという風刺画家の展覧会がとても面白い。字が読めない人に何かを伝えるために、演劇やサーカス、シネマは大きな力があった。セルバンテス、天草四郎、気球、殺人事件などを出し物にしていたらしい。天草四郎とは。

メキシコバロックという建築様式をあちこちで見る。石が灰色で、彫りが深く、曲線を多用し、おもおもしい。そのなかにモダニズム、分離派、社会主義建築などが混ざる。広場にアステカの11代目の皇帝クアウテモックのすごく美男子の像があった。コルテスに拷問され、絞首刑になったが今は、メキシコの英雄だ。現地人にあわせるためか、キリストやマリアの顔も黒い。グアダルーペのマリア。顔が服に映ったという伝説があり、メキシコ中で信仰されている。
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一休みして、夕方、ゲバラとカストロがよく来たというカフェ、ハバナに行く。作家のガルシア・マルケスや詩人オクタビア・パスも来ていたという。昔と変わらない良い雰囲気。大きな扇風機が天井で回る。それから「インディオ」という町の飲み屋に行き、牛のキンタマのガーリックソテーを食べた。さっぱりしておいしかった。サンドさんは「男としては複雑だ」といって食べなかった。志保子さんが何でも解説してくれるのでとっても勉強になる。

帰るとまたバーは地元民のカラオケで大騒ぎなのでテキーラだけ飲んでねる。

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