震災日録 6月15日 南三陸・気仙沼

朝、お風呂で。「仮設が当たったので、今日引っ越しするの」という嬉しそうな人に会う。私より2歳若い。どんなところか聞いてみると、単身者用で1DK。

「布団が2組もらえるので寒くなったらかけられるでしょ。といっても仮設は夏は暑くて冬は寒いらしいわ。家電6点セットももらえる。洗濯機、冷蔵庫、炊飯器、電子レンジ、電気ポット、テレビかな。お米は5キロもらえる。カップヌードルとボンカレーも1箱もらえるらしい。でも何かと現金がいるみたいだから、節約して暮らそうと思っているの。仮設からは午前と午後にスーパ-までバスが出るらしい。助かるわ」

やっぱりなあ。ここは日本一すばらしい避難所だとは思うけど、自分の空間にはやく落ち着きたいのも確か。

「でも仕事がないからこれから年金は払えないと思う。年金受給までまだ10年以上もあるんだもの。私も長くはないわね。結婚したことないし、子どももいないから、頼る人いないし。年金もらっていた頼みの両親は今回流されてしまったの。まわり見ていても長生きしているのは子供のいるひとだわよ」

過酷な状況に胸が痛む。そんなこといわないで、まだわかいんだから、これからいいことあるかも知れませんよ。困ったらお友だちに必ず相談してくださいね、と体を洗いながら言った。あんまり友だちもいないからね、話を聞いてもらえてよかったわ、といっていた。

食堂のまえで坐っていたおばあちゃんは血色もいい。「わたしは5人子がいるんだけど。孫は東京で小学校の担任をやってるの。浜の方で津波に会って最初は小学校に避難してた。4月で学校が始まるんで、娘のところへ15日厄介になったけど、子どもたちもスーパーへ勤めたり、看護婦してたり、忙しいから、私はここにいる方がいいの。ただだもの。お風呂も入れるし、自分の部屋もあるし。お父さんはずっとまえに脳梗塞でなくなっちゃった。少しはお役に立ちたいと拭き掃除なんか手伝っているんだけど、浜の方では5時に起きて6時には朝ご飯だったでしょ。だから7時半まで待ち遠しいの」

9時出発。南三陸町へ入る。町長ほか何人かが辛くも助かった防災庁舎は本当に小さかった。チリ津波がここまできたという警報の看板がひしゃげていたが、その何倍も波は高かったのであろう。ガソリンスタンドと病院をのぞいて、海辺の町がまったく消えていた。町づくりでがんばっていた視察も多い町だったのに。

まえに「じぶんの宿」というJTBの取材でお世話になった民宿高倉荘へ。「高台だから大丈夫だと思っていましたが」と御無沙汰を詫びると覚えていてくれた。「民宿で残ったのは3軒だけです。うちもボイラーが壊れてしまったり、主人が地区の長をしているのでそちらへ詰めきりで。きょうも瓦礫の撤去にいっているんですよ」バスを待っている大きな風呂敷を持った方をここまでお乗せして案内してもらった。「その日は70、80の年寄も山を越えて1時間もかけて逃げたんだよ」

気仙沼。ここも8年ほど前、一人旅で訪れた町。活気のある港に大きなマグロ漁船が停泊し、たくさんの船乗りに話を聞いた。かっこいい海の男が多かった。出稼のインドネシアの青年たちも。そして浮き御堂を見たり、旅館でおいしいご飯を食べていたら台風が来た。それは凄い嵐だった。台風一過、女川から金華山まで小さな船でまるでトビウオのように海をホッピングしていった。そういえば女川に高村光太郎の碑があったのを思い出す。調べてみるとその大きな石の碑も津波で倒れたらしい。またそれを建てるのに尽力された貝廣さんという絵描きさんが行方不明だとインターネットに出ている。

たしか碑には「人間は海から生まれ,海に帰っていく」といったことが刻まれていたような。

尾形家という茅葺き民家は茅葺きを修復し、国の登録文化財になる直前に被災。昔は網元だった200年前の民家だ。卒論以来ここに関わっている田上裕子さんの案内で向った。津波の経験は言い伝えられ、「逃げる時は雨戸を閉めるように、そうしないと中のものが全部流されるから」というのでその通りにして高台に避難したという。「もうそのときのことは覚えていません。自分の家が流されていくとき、あー、と叫んでしまったようです。瓦礫として処理される前にと思っていろいろ拾い集めています。きょうはお位牌がひとつ見つかったの。息子の七五三の写真もでてきたのですが、こんなに泥で汚れていたらどうしたらいいのかしら」。旧家尾形家当主は気仙沼市市議をつとめ被災住民とともに、ずっと避難所に詰めきりで帰ってこないという。こんな市議さんもいるんだな。奥さまは茅を葺き終わったし、大島への乗り場へ行く途中なので、ここで茶店でもやって観光客のお休み所を作りたい、という希望を持っておられたようだ。小屋組みはじめ部材もかなり残っているので、どうにか復元してもらえれば。気仙沼の市指定文化財もかなり流されてしまったというし。登録文化財、蔵元男山本店の看板建築も3階部分だけが斜めに残っていた。惨状に呆然とする。