震災日録 6月14日 大川小学校

2年後にはゴミとなり、プレハブ業界だけがもうかる仮設住宅。政府が予算をつけたのでそのパイの取りあいになっている。そうではなく「国産材による、地元に雇用が落ちる、本建築の復興村」を目指す熊谷さんの話を聞く。防災都市研究家の佐藤隆雄さんもすでに1年以上前のシンポジウムで住民を追い出さない、地元主体の自主建設の重要さを訴えておられた。といっても土地の手当、造成、家の造作その他、たいへんな手間がかかる。きょうは福住さんという白州正子邸などを手がけた庭づくりの方が応援に来ていた。建設予定地を観に行く。仮設に入ったお年寄りの中から阪神淡路では多くの孤独死が発生した。南三陸町だったか、木造のグループホームを一人暮らしの老人のために提案している。それもいいと思う。これからは肩を寄せあって生きていけば。それを行政がサポートしていけば。

建築関係のKさんの話。「うちは高台なのでここから見てました。海がせり上がっていってここまで来るかと思いました。空の様子も変だった。黒くなって風がふいた。電気は切れましたがガスもあるし、あるものを食べてどうにか暮らしました。それから1週間、遺体の収集を手伝って、運んだり、シートをかぶせたりした。あんなにたくさんのなくなった人を見たのは最初で最後でしょう。なんだか食欲もなくなってうんとやせました。寝たきりの老人、障害を持った子どもなどの巡回ケアもまったくないですね。そういう家族がいると避難所にも行けません。病院や施設で預かってもらえば別ですが。もともと通所施設とかそういうのも遅れている地域なんです。もうここを離れていっそ外国へ行って暮らそうかと思う」

どうしても児童が7割近く亡くなった大川小学校へ行ってみたく、寄田勝彦さんの運転で、橋が落ちているのでものすごく遠回りして目指す。すぐ後に芝生のような丘があり、そこにのぼれば絶対助かったのに。何で津波が来るまで40分以上もあったのに、校庭で点呼などとっていたのだろう。きょうを第一歩にしなくては。子どもたちは普通に地域の学校に行かせればいい、と長らく考えてきたが、いまの公立の教師に子どもを守る力はあるのだろうか。学校の教師の第一義は勉強を教えることではなく、コドモの命を守ることではないだろうか。今回、とっさの判断や勘で助かったという話をいくつもきくが、そういう五感の鋭い,生活力のある子どもを育てる別の学校もつくれればいい。

また先生は遺族にもこれから先ずっと手厚い年金がでるそうで、未来を断たれた子どもには一時金しか出ないという。命の値段が違う。この話も聞いてなんだかすっきりしない。

対岸の吉浜小学校でも7人の子どもが亡くなったことはほとんど取り上げられていない。小学校では先生と生徒は屋上に上がって助かったが、一度帰宅した子どもたちは避難所である北上支所に逃げてなくなった。その場合は下校後なので一時金も出ないという。しかし指定された避難所に逃げて、お年寄りも含めこれだけの人が亡くなったなら、行政は責任をとるべきではないか。新聞によると津波対策は高い堤防ではなく、ソフトの訓練や教育を大事にするという方針に替わった。