震災日録 3月30日

わたしは4年前に原田病にかかって、考えてみると病人継続中なのだった。
仕事に加え、情報収集、連絡、そしてテレビの被災地の様子を見ると毎回、胸つぶれ、ためいき、頭痛と耳鳴りがひどくなる。不眠気味。
テレビはあかるいニュースや美談ばかり流している、と思っていたがこれで救われているのかも。お笑いも、こんな時に、と思ったが、これで救われる人もいるのかも。

被災地に放射能レベルの情報を送っているが、「東北大学の先生がこのくらいなら大丈夫と言ったから、今は信じるしかない」というような返事で、のんびりしているのは美徳だが、心配になる。「正しく不安になること」も大事なのに。

昼間、内澤旬子さんとランチ。なかなか東北にはボランティアが入りにくいらしい。
神戸と比べて中越のときも大変だったとか。どうやって集落にとけ込むか、毎晩のようにボランティアが会議をしていたと聞く。確かに排他性が強く、集落をよそ者が歩いているだけで「あれは誰だ」と言う。Iターンのひとは「オウムではないか」という不信をなくすまで時間がかかった。行き交う車は誰かがすぐわかる。丸森でもその動体視力にはいつも驚かされた。「奥さんじゃない人を乗せてすれ違ったらまずいわね」とからかったりした。役場の職員に乗せてもらって、スーパーの前を通ったので、「あ、五分、待ってて、買物してくるから」と言ったら、「5時前にスーパーの前で止まっていたら、何言われるかわからないから勘弁して」と言われた。「ラーメンでも食べましょう」と言ったら「じゃ、隣町まで行きましょう」とのこと。この『世間』というもののために、出たくても出られない人がいるようだ。さっさと逃げたと言われるとあとで戻れない、とか。先祖伝来の田畑、かわいい牛も置いていけないとか。

出版社の友人たちと話す。かりかりして仕事にならない人が多いという。「こういう時に馬脚をあらわす」「子どもがいたりして不安なのはわかるけど」。有休を取って遠くへ行った人のあとを、時給1000円のバイトががんばっていると言う。

昨日中国の人が帰った話を書いた。そういうことを書くと、中国人への偏見を広めるかも知れない。ある研究者はうちの留学生は帰っていない、と書いてきた。でも、働きにきた国が危ないからふるさとに帰るのはあたりまえではないかと思う。テレビによると東京にいたフランス人、6000人中2500人しか残っていない。ピーター・バラカンさんは大危機における日本人の自制心と助け合いに敬意を表しつつも、「自分で判断すべき時には判断する」という民主主義と個人主義の力が弱いのではないか、と述べていた。そのとおり、長いものにはまかれろで、原発を許してきた。「福島県民は東電を許さない」と言う人がいたが、双葉町は福島原発7、8号機の建設を陳情してきた。
ここにも過疎自治体の財政や複雑な問題があるが、いまはとにかく止めること逃がすこと、が先決。

ある海際はすっかり瓦礫が片付き、荒野になっていた。茫然とする風景。
わたしは今回、東北と縁が深いのでかなり当事者感がある。前を知っているからだ。
でも知人でなくなった人はいない。さいわい、と書くと死者に対して申し訳ない。
きのう友人の同僚の友人がなくなった話を聞いた。岩手で里帰り御産して、赤ちゃんとともに亡くなって発見された。「産まれて10日しか一緒にいられなかった」。涙はこぼれるが、こちらも心弱くなる。知っている宮城・福島に対して、縁の薄い岩手にはずっとリアリティが持てずにいる。「気持ちはわかります」と言ってはいけない。当事者にとっては「わかりっこない」なのである。

新卒内定取り消しなどのニュースにもぎくっとする。「十八の春は泣かせない」という別の会社はあらわれないか。松井秀喜選手が5000万義援金、これも普及効果があるだろう。日本財団は漁業者に1億円無償で貸す。船舶振興会だからだろうが、よかった。
江戸川区にある福島県産のアンテナショップは支えたいと言う人で賑わっている。これも良いニュース。