震災日録 3月22日

いま九州から帰ってきました。さいわい宮城県丸森からは引き上げたところでした。ご心配かけました。羽田空港も節電、歩く舗道が止まっていた。三田線もエスカレーターは止まり、エレベーターだけ動いていた。電気も半分くらい。これでちょうどいいと思う。原田病でまぶしいわたしには助かる光量だ。

オール電化住宅でひどい目にあったという話が多い。各戸、ガス、石油、電気、薪ストーブなどオルタナティブな熱源があった方がいい。景色がいいからと高い超高層マンションを買って、エレベーターが止まって、子供を迎えに37階降りて、また子供と一緒に登ったという話も聞いた。

丸森町は福島県境、宮城の南限の里山でそれほど被害はなかったようです。
しかし18日くらいまで友人知人にはまったく連絡とれず。
丸森は、今は福島原発近くからの避難者を200人引受けているようです。
ガスはプロパン、町営水道は2日で復旧、電気は一週間つかず。しかしガソリンがなくて手も足もでない。
八島屋という何でも屋さんは小売値でガソリンを仕入れ、その価格で売っています。
峠を越えた隣りの相馬、新地、山元町、岩沼、亘理、名取あたりは壊滅です。
津波が海沿いの低地の田畑をなめていった映像のあたりです。楽しい思い出がいっぱいありますが。
丸森で一番仲良しだった30代の真理ちゃん、わが妹のような人も連絡がとれなかったのですが無事がわかりました。那須町の道の駅で農産物普及の支配人に決まったところ、野菜出荷停止となり、その上、道の駅が被災者受け入れの窓口になるそうです。

町作りの面から一言。

三陸へ行くと、明治2年の津波のときここまで水がきた、これより海際に家を建てるな、と書いてあるのに、いっぱい家が立っていて恐いなーと思います。『失敗は伝わらない』、本当です。

町作りも防災も歴史に学ぶことが必要です。
瓦礫の撤去が終わったら、戻ってまた家を建てると被災者はいっていますが、海際は捨てて山の上にコミュニティは生かしたまま、町を再建したほうがいい。

イタリアなどではマラリアやペストの猖獗のころ、高燥な山の上に町を造りました。なかなかこじんまりしていいレストランもあって、楽しそうな町が多いです。
おとしよりはじめ不便なら香港みたいにエレベーター、エスカレーターをつけたらいい(電気はほかで節電して)。

想定外の津波にやられたので、もっと高いコンクリの防波堤をつくる、というような開発土建主義の復興を続けさせてはいけません。どんなコンサルが入るか、によって相当復興のし方が違ってくるでしょう。