やたら人を思い出す四月

3・11以降、まいにちブログを書いてきた。そんなエネルギーはどこから出てきたのかと思う。1年間で7、800枚ぶんあるだろう。毎日読んで考える材料にしたという人もいた。ドイツにいる小学校の同級生はこれで日本の実情がわかったといってくれた、頭に血が上って書いたラブレターのようなものだ。そのうち読むに耐えないに違いない。3月後半はニューヨークにいって仕事しないでぼーっと町を歩いていた。4月になったらやたら人を思い出す。私も雲の向こうの方に知り合いが多くなってきた。引っ越しまであとどのくらいか。57というと一葉の2倍生き、漱石を8年こえ、鴎外まであと3年。


神保町のブログを読んでいたら黒岩比佐子さんのことを何度も書いている方があった。
その蔵書はちゃんとしたところに収蔵されたという。黒岩さんの本で最初に読んだのは村井弦斎に関する本だった。河内紀さんも伝記を書こうとされていたから、あらら、と思ったが、よい本だった。伝書鳩の本も耳の聞こえないヴァイオリニストの本も面白かった。
あったのは1回きり、国木田独歩について聞こうという小さな集まりだった。黒岩さんはすてきなスーツを着ていた。「初めまして」と挨拶すると、「あら、一箱古本市で森さんの箱から買ってサインしてもらいましたよ」とニコニコされた。それですっかり好きになってしまった。病気になられたときいて、とにかく治ってほしいとおもったのは須賀敦子さんと同じくらい思った。東大病院だと聞いてお見舞いもしたいと思ったが、それほど親しくない身ではそれもはばかられ、ただ祈っていた。読売の書評をよく書いておられ、少しほっとしたり、堺利彦伝のことを心配したりした。彼女の真価を知る方達が周りにたくさんおられてよかったと思う。


その黒岩さんに注目していたのが彷書月刊の田村治芳さんで「あの人はまだまだ伸びる」と注目していた。田村さんの作家評はよく当たる。賞をたくさん取った人のことも「代表作といえるものがない」などと平気でいう。この人は古本屋だから10年後、20年後の市場に生き残って行くかどうかを見ているのだろう。黒岩さんの本は少ないが、どれも歴史に耐える本である。田村さんは「谷根千はやめたら歴史になる。研究が始まる」といっていたが、アメリカの大学からバックナンバーの注文がいくつかあった。日本の大学は東大しかこなかったが。ある雑誌の創刊パーティに招かれ、その新編集長は「小さくてもインパクトのあるメディアを目指したい。広告批評や本の雑誌みたいな」といった。その場に田村さんもいて「彷書月刊や谷根千みたいな」といわなかったね、といって二人で飲みに行った。そんなことを思い出す。わたしは宮城で畑をしていてなかなかお見舞いにも行けなかった。夏にとれたての野菜と無添加の醤油をもって家を訪ねると喜んで2時間くらい話した。白いゆったりしたシャツを着てひげが伸びて韓国のおじいさんみたいだった。葬儀の日は地方で仕事を引き受けていて行けなかった。息子の次郎ちゃんの育成室で先生をしていた娘が「いいお葬式だったよ」といったが、田村さんといっしょに、ある楽しい時代がどこかに消えてしまったようだ。


最近若くしてなくなる女性学者が多い、とネットの記事にあってお茶の水女子大の菅聡子さんがなくなったのを知った。驚いた。まだ40代なはず。すてきでかわいい名前とぴったりの印象の方であった。一回だけお会いしたのは女性作家人名事典が出たので、対談したのだ。本当に頭が良くて、勉強熱心で、気を使う方だった。そのあと妹さんが博多織をしているからとテーブルセンターを送ってくださった。恐縮したし、うちにはもったいない絹なのでまだ大事にしまってある。それから韓国に女性史の旅をするから、参加なさいませんかとメールをいただいた。それが最後で、本当に残念だ。


新聞で萩野靖乃さんがなくなられたのを知った。NHKでドキュメンタリーの仕事をしていた。わたしは『密航』というすごいドキュメンタリーをネオネオ座で見たのが最初だ。
玄界灘の小舟にすっくとたったままレポートする萩野さんは大島渚の若い頃のようにかっこ良かった。じっさいの萩野さんもすてきだった。それから私たちの映像ドキュメントの会に来てくださったり、横浜で飲んだりしたけど、いつも含羞の青年のようだった。
お酒が弾んで三十三年までの赤線の話など出て、私は面白く聞いたが、後で下品なこと行っちゃってと気にしておられた。樺美智子と同級生で、彼女の伝記がでたとき、あの頃を知っているとちょっと違うなあという感じですよ、と本を送ってくれた。少年のような方であった。


近代文学館の広報誌が来たので、読んでいるうち、宇治土公三津子さんのことを思い出した。文学館の館員をながくつとめられて、パーティでお会いしたのが最初だった。「小堀杏奴さんのお子さんから聞きましたが、森さんの伝記は公平で暖かいと杏奴さんがおっしゃっていたそうですよ」という一言はとてもうれしかった。林芙美子の相棒のことを調べていらしたがそのお仕事はまとまったのだろうか?


巣鴨にあった青鞜社のあとを久しぶりにあるいていた。4半世紀前に調べたときとはかなり違う。らいてうの実家のあたりはマンションになっていたし、巣鴨の家のあたりも立て込んでしまい、昔をしのぶよすがは跡形もなかった。


自転車で駒込病院の前を通った。
そしたらここに入院していて、「ごはんたべようよ」と電話をかけてきた倉本四郎さんのことを思い出した。健康に詳しく、私の体も気功で直してくださったのに。おしゃれな名前で書く本のタイトルもおしゃれだったので、あったときはあんまりざっくばらんなのでびっくりした。横浜で飲んで、別れるときにはハグしていた。倉本さんが残してくれた友達。河野万理子さんや北川健次さんのことも思い出すだけで懐かしい、あの逗子の庭。


上野でおりて、不忍池に曲がる角の菊屋にはじめて入ってみた。洋食が何となく食べたくて。海老フライとハンバーグが時々食べたくなる。このお店は古い店で、須賀利雄というもと上野のれん会の会長だった方がご主人だった。須賀さんは東京大学の美学をでた方と聞いていて、いちど上野桜木町のお宅にお邪魔したこともあったのだが、最近、新潟の粟島にいったら、楠木正成の銅像に関する須賀利雄さんの戦前の論考に出くわし、なんでこんなところで、とびっくり。さっそく「うえの」の真辺さんにご連絡して、須賀さんの論文を紹介しながらして随筆を書かせていただいた。


池の端中町を久しぶりに通ったら、増田静江さんのことを思い出した。彼女もこのへんの地主さんで、台東区が池之端仲町にパンダ通りとかピエロ通りとか名前を替えようとしたときに、私のところへ「そんな下品な名前、許せますか」と連絡をくださった。たしかに仲町はよくありそうで、江戸の一番の繁華街で、参勤交代に来た侍が母や妹の土産に櫛や手柄を買ったところなのだ。池波正太郎の小説にも仲町の日野屋とかでてくる。増田さんはその後、那須にニキ・ド・サンファルの美術館をオープンし、一度来てください、と何度か誘われたのに、行かなかった。女性実業家であるとともに、情熱の女性だった。旦那さんの増田通二さんと対談したとき、「どこで奥様とお出会いになったのですか」と聞いたら「本郷の坂で拾ったんですよ」と照れた。かっこいいなあ、と思った。パルコを創業した増田通二さんも今はおられない。

10
橋本文隆さんのことも思い出す。建築家で江戸川アパート育ちであって、江戸川アパートの保存再生に尽くされたがうまく行かなかった。銀座で三遊亭鳳楽師匠を招いて「いやなら寄席」というのをなさっていた。そこで日建設計の林昌二さんに紹介された。林さんも気さくな方で橋本さんは「森さん、はやく話を聞いといた方がいいよ」といわれたが、そのままになってしまった。林夫人の林雅子さんは女性建築家の草分けで、村松伸さんがその設計した家にお住まいなはずである。

11
地下鉄に乗っていたら携帯が鳴り、兵庫三田の陶芸家石田陶春さんがなくなられたのを知った。愛媛の亀岡徹さんや由布院の中谷健太郎さんとともに何度楽しい夜を過ごしたことか。頼れる姉ちゃんのような存在で谷根千を何かと気にして枝豆や寒天やいろんなものを送ってくださった。最初お会いしたときはたっぷりふくよかで、作務衣がお似合いだったが、お会いするたびにほっそりなさってゆく。しかし弱音や愚痴はいっさいいわない方だった。この20年、谷根千を支えてくださった地方の友達は多いが、その筆頭であり、彼女の個展が三越で開かれるたびに、東京でもお話ししたり、飲んだりしたのにである。
そのとき買ったお皿は毎日使い、だから毎日思い出す。もちろん、ぐい飲みなどいくつもいただいてそれも愛用しているのだが。

まだまだ思い出すけれどとめどない。自分としても50すぎたらもうけもの、だと思っている。そのことばさえ、原発事故のあと若者の前ではいうのが申し訳ない。「もうしかたがないや、あきらめた」と若者はいう。亡き人を銘記することに意味があるのは、後に続く世代を信じられるときである。地球が保つか保たないか、それすら危ういときではあるが、望みをつないで、書き留めてみた。