震災日録 7月17日 サンドさん志保子さんと再会

きょうは2時から本郷の共生センターで、文京区の映像をみる会。ヤマサキやオオギたちが区から委託されている仕事。第一幼稚園の松下和正くんのお母さんが撮った八ミリ。懐かしい山村園長先生。今思えばいまの私よりお若かったのかも知れない。懐かしいスモックの子どもたち。お誕生日会には男の子は蝶ネクタイを付け、お母さん達はみな着物。

もう一本は湯島三組坂上、伊勢利というおおきな味噌屋さんのフィルム。旦那、職人、丁稚、それぞれの恰好。マンサード屋根の大きな倉庫。関東大震災に焼け、ようやく昭和6年頃、すばらしい再建をしたのに、この撮影1年後、B29の空襲でまた焼ける運命だとはだれが予想しようか。帰り、保存運動の仲間と来日中のサンドさん夫妻とスペインのバールで暑気払い。今日聞いた話。「いわき市の避難所はだんだん少なくなって、残った避難者はなんども移動を繰り返させられている。行政としては早く避難所運営をおわりにしたい。まるで掃き集められるように移動させられている」「文京区ではついに保育所の待機児童がいなくなった。小さな子を持つ親が関西や九州に避難したためらしい」

東京新聞で俵万智さんが仙台から沖縄へ子供と避難したエッセイを書いていた。自分はどこでもやれる仕事、母親だけで身軽なので沖縄に来られた、とのこと。前海でのもずく拾いに小学生の息子さんは熱中し、おかあさんは集落での濃い付き合いやゲートボールをやるなど新鮮な暮らし。本当は子育てとは、みんながこうできるべきではないかと思う。都会で出勤時間とにらめっこしながら弁当を作り、保育園に送り届けたりする日常はつらい。うちの末っ子も13歳で沖縄に行ってずっと帰ってこなかったが、「どうしてお母さんは東京なんかで子どもを育てようと思ったの」と何度、なじられたことか。見に行ったら、牧場を自分たちでつくり、犬とかけっこし、馬と泳いでいた。