朝、7時の新幹線で一ノ関へ。半農半筆の渡辺征治さんと落合い、一路陸前高田を目指す。三陸でこれだけ海に広く面した平地があるところも珍しいであろう。土蔵の町並みなどもあったと聞くが、瓦礫は処理されて一面の平地が広がっていた。有名になった一本松シルエットが海際に見えるが近づくことはできない。これも塩害でいずれ枯れるだろうとのこと。今回は杉も塩に弱いことがわかったという。途中が壊れながらもみんながよじ上った神社の石段。山ノ上に神社や寺があって救われた命も多い。その下に古い醤油屋さんがあり、黄色いハンカチがたくさんはためいていた。今回、各自治体ごとの犠牲となった率は5%くらいだが、陸前高田は12、5%と突出している。
大船渡は漁港にも被害が少なく、お店や食堂も復興していた。魚は希少で高値がついているとのこと。いかがぴかぴか光っている。そこから国道ではなく海沿いのこもれ日の道を走る。伊能忠敬が測量の縄を下ろした浜は透明な水であった。そこからぐるっと半島を回ると吉浜というアワビ漁の浜、スレート瓦の大きな家の向うに海がきらきら光っている。
釜石では日本製鉄がモクモク煙を上げていた。しかし市街地は建物が残っているものの、中華屋さんと洋品屋さんが一軒ずつ開いているのを見かけたくらい。駅前の市場はにぎわっていて海鮮丼の店には行列で入れず、ラーメンを食べたが、これが極細めんで、漬け物も餃子もご飯もおいしかった。お店の夫婦のお顔もとても素敵。釜石は津波てんでんこで防災教育が行き届き、今回学校にいた児童には1人も犠牲者が出なかった。それどころかこどもたちは小さい子たちを励まし、お年寄りを乗せた大八車を押し、高台へ高台へと自力で逃げ延びたのである。「釜石の奇跡」と言われているそうだ。
時間がまだあったので大槌にも足を伸ばした。ここは高い防潮堤があり住宅地から海が見えない。ここにも店などが並んでいたのだろうな、とコンクリの基礎でわかった。結城さんとは「もう一度ここで」という言葉を考えたのだが、「もう一度ここで生きなおす」には相当の時間がかかるだろう。ビニールで囲った仮設の店で海鮮丼やコーヒーを出していた。岩手大学のボランティアもいたし、地元の青年が黒い揃いのジャンバーでがんばっていた。いわきでは「がんばっぺ」だったが大槌では「まげねぞ」だった。
百聞は一見にしかず、テレビで見るのとは違った知見が得られた。遠野に向う。ここは市長はじめみんなで後方支援にがんばってくれた町。ありがとう!花巻について冷えきった体を台温泉の日帰り湯であたためた。帰りに石やきピザの店があって夕飯。駅前のホテルで渡邊さんと別れる。