震災日録 9月25日 丸森

きのうのうちに丸森へ来て、なつかしい佐藤岩雄さんや緑山の菊地しのぶさん、ひろしさんと会った。今回は放射線値の話に終始した。やはりいま丸森の方たちが悩んでいるのはその問題で避けて通れない。役場前のコンクリートの上で計ると0.14。これは東京団子坂下で友人杉田望さんがはかっているのと大差ない。しかしある中学校では0.66、ある児童館では0、53、ある地域センターでは1.07といった数字も出ている。最後の数字に24時間x30日(ひと月)x12(ヶ月)かけると、この数値のまま戸外にずっといるとすれば、外部被曝だけで年間8ミリシーベルトくらいになる(政府の許容量は年間1ミリシーベルト)。みんなほとほと困っているらしい。
「牛の糞なども堆肥にしかね、おいてはあるがどう処分していいかわからない」「牧草からセシウムが出たので、外国産の草をわざわざ買って与えているが、自分のところの牧草はまいておいておくしかない」「校庭の除染をしてもその土は集めて青いシートをかけておくしかない」「東京電力本社へ持っていけ、なんて言っているひともいる」
処分に困っているのは使用済み核燃料だけではない。「日本はおわりですよ」そう思いたくないけれど、東北へ行くとサルトルではないが出口なし、という感じがする。

震災日録 9月26日 ロンゲラップ
急に秋です。冷えて夜中に毛布をかけました。そろそろ衣替えもせねば。部屋を整理していたら石川逸子さんからいただいた『ロンゲラップの海』の美しい小冊子が出てきました。

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ビキニから180キロ離れた
ロンゲラップに
さらさら 雪のように降りつづけた
白い粉
死の粉ともしらず その粉を競って集め
無心に あそんでいた 子どもたち

退去命令は58時間後だった
おれたちは人間モルモットにされていたのだ
いや 3年後
「安全宣言」されての帰還も
その一環だったとは!

ようやく故郷の島にもどって
はしゃぎ 踊った ひとびとの姿が
昨日のことのように甦る
「なんといってもおれらのヤシガニは最高さ」

あのとき ようやく
先祖伝来の暮らしにもどれた! と安堵した
まさか 魚も ヤシの実も
死の魚 死の実に変わっていようとは!

体内にとりこんだ放射能によって
ひとびとは やがて つぎつぎ 死んでいった
老人の息子 レコジも
ジョージも 妻のミチュワも 死んでいった

1985年 ついに ひとびとは 
ロンゲラップを脱出する
先祖伝来の暮らしを捨て   
墓を捨て
思い出を捨てて

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まるでサーガのような長い詩です。少しだけ引用させていただきました。これと同じことがいま日本でも起こりつつあるのではないでしょうか。