震災日録 4月17日―――亘理、岩沼、多賀城、石巻、女川

5時に目がさめるとひろしさんが私たちの朝と昼の二食分のお弁当を作っていた。
きのう、あまり話せなかったのでおしゃべり。
レストラン緑山は壁の小さな亀裂くらいだったが、電気が来なかったので食材はだめになった。塩竈に置いてあった釣り船はあきらめていたら岡に上がったところに見つかり、何度も通ってどうにか海に戻す作業をしている。アメリカ大使館から問い合わせがあったのでびっくりしたら、ニューヨークのおばちゃんが連絡が着かないので心配しているのだった。
「ガソリンがない頃、一人5キロまでしか買えないのを5時間並んで目の前できょうは終わりが二度あった。中で凍死した人もいたらしい」
亘理の自動車学校でも習いに来ていた若い人がずいぶんなくなって経営者が嘆いているとか。山元の幼稚園バスも津波でやられたとか、東京には来ない話ばかりだ。スーパ-は大繁盛、福島産がだめということになったら茨城県産がどっと出回った。卵は飼料が変わって黄身が白くなった。
お店を開けたらみんなステーキを注文する。「よほど肉が食べたかったんだね」
こんな非常時に残念だが、遺体から物を取っていく人、窃盗団、車上荒らしもあるという。お嫁さんがばあちゃんを置いてけないから家へ戻って二人とも流されたり。しのぶさんも聞くと泣くの毎日だという。
ひろしさんは宮城県が放射能量を計測しないので、何度か県や町に実行するように訴えた。町は「県の連絡待ってます」しか言わないし、やっても結局、「健康に影響はない」でしょう。信じられないよ。
「瓦礫のなかにはレジオネラ菌、破傷風菌、アスベストもまじっているから気を付けた方がいいよ」とマスクまで用意してくれた。

朝7時だが宍戸家へいって情報を仕入れる。宍戸さんのところは相馬のご親戚、大きな肉や「鳥久」は無事だった。丸森町立病院もいざという時のために入院患者を一階へおろし、玄関あたりで寝ている人、車椅子のおばあちゃん、大変だった。「大きなガス釜で米を炊いて毎日おにぎり握りっぱなし」と野菜ソムリエ、剣道の達人志津子さん。8時前に出発。

*亘理町吉田中学校
近くで仮設住宅の建設進む。明るい体育館。しきりはなし。ステージの上から職員が「ただいま本とマンガが届きました」とアナウンス。壇上に管理者がいて下に避難者がいると上下関係とか管理する者、される者に別れてしまうのではないかと思う。子どもは集まって腹這いになってゲームに夢中。これからもこの姿ばかり見て心配。入り口に退去者のものなのか、毛布がどっさり積み重ねてある。洗濯機をまわしながら井戸端会議。喫煙コーナーでもおしゃべり、お年寄りは蒲団に寄りかかり目をつぶっている。校庭でサッカーする姿も。

*亘理中学校
最初話した人は趣旨を聞き終わってから「私は練馬からきた支援なのでわからない」という。最初にいってほしい。責任者は「どれくらいの量ですか」という。これからもずっとそれを聞かれることに。「どれくらいいりますか」と聞くと、自分で見て来てください。しかし置きにいくと「皆さん、作家の森まゆみさんが子供たちにマンガと絵本を持ってきてくれました。大人向けの本もあります」とアナウンス。みんなから拍手が上がる。あと自分でも話せというのでほんの短い話をした。

*亘理高校
高台のもと城跡にある。入り口が難しい。どこの避難所も探すのに骨が折れた。
担当の女の人は名刺を渡すと「森さん」と呼びかけてくれたのはいいと思った。「浜の方で家も土地もなくされた方たちです。お年寄りが多いのでなるべく字の大きい本をお願いします」。本はどこにあるのでしょうか、と聞いて指さされたところに行くと小さな台にふるい文庫本がすこしあるだけだった。

*亘理小学校
子供の本のコーナーはあった。そこに少し置いた。ジャンプはぼくも読みたい、と受付の人。そのとなりで柔道整復師がふたり、お年寄りの体をなおしているところ。ほかでもこのようなボランティアは何度も見た。受付の若い男性はかなり疲れている。活力のある人は昼間は自宅に戻って瓦礫撤去などをしているので、残っているのはどうしてもお年寄りが多い。ご飯の時間ですというアナウンス。なんだか病院に似ている。

*逢隈小学校
ここは体育館を1丁目2丁目などと区切って、コミュニティをわけている。明るいが、とにかくこんな天井の高い茫漠とした空間に一ヶ月も暮らすなんて想像を絶する。
「山形から毎週、ジャンプをとどけてくれる青年がいるので、彼の気持ちを無にしないためにもジャンプは一冊でいいです」といわれる。
子どもが4割いるので児童書を多めに。もうすぐ学校が始まり、海側の荒浜小学校とひとつの校舎を使うので大変です。(合併はしないらしい)。畳があるのは珍しいんですよ、と職員は言った。

*亘理は山側はいちご、海側はホッキ飯で有名。いつも松島で釣をして漁果がないと海沿いの真新しい温泉鳥の海で松林を望むお風呂に入り、一階の鮮魚コーナーでミズイカやホウボウ、アンコウなどを買っていた。その回りには寿司や、ホッキ飯を出す民宿など、いっぱいあったのにすべて波にさらわれた。近付くことすらできなかった。とおくに蔵王の雪が白い。なんとも風光明媚なところなのに。曾祖母のふるさと。

*岩沼渡波小学校
大きな体育館。小さな木の囲いで着替えコーナー、受付コーナーが作られている。受付の人「できるだけ自立してもらうようにしています。炊き出しは自衛隊や地域の方がしてくれています。本はそんなに置くところないんですよ。もっと生野菜がほしいですね、けんちん汁はよく出ますが、おひたしも出したいんですけどね」
後背には被害の少なかった農村部があるのに、なぜおひたしやサラダができないのだろう。東京から米や野菜や野菜ジュースを運ばなくたって、と思うのだがよくわからず。「半壊でも金は出るぞ。家にいないでたまには避難所に来いよ。ここに情報があるんだから」と大声で携帯電話する男性あり。

*荒浜の早川眞理さんの尊敬するもんぺさんこと小幡つや子さん宅。
宮城野区中野。ここら辺の人はまさか津波が来るとは思わなかった。うちのすぐそこまで来て、あらあらと見ていたけど幸い中までは入りませんでした。山登りをするのでいくつものリュックに懐中電灯はいっていたし、ろうそくもあったし、キャンプは慣れているからそう困らなかった。キャンプの経験は子供たちにもさせた方がいいと思う。こうなると近所の人がみんな何でもくれるの。こんなんで被災者では申し訳ないけど行政からも物資をいただくし。
お昼ご飯を使わせてもらい、温かい味噌汁を出していただき、困っている人にあげて、とインスタント味噌汁二箱、手造りのおいしいチョコレートケーキを85個いただいた。http://blogs.yahoo.co.jp/monpebaasan
いっしょに仙台市の避難所を探しにいったが中野小は廃止。キリンビールの工場あたりもひしゃげた車でいっぱい。キリンの缶が流れ出し、拾ってのんだ人の話。瓦礫の処理で粉塵もうもう、「ここにも民家があったはずなのに」と小幡さんがいうが真っ平ら。

*ここで明日会う予定の雄勝天然スレートの木村満社長と連絡とれる。被災され、仙台の娘さんの家へいたが明日は雄勝へ行くと言う。「森さん、覚えていますよ。工場へ来てくれて、スレート切りましたよね。あのときの東京駅を葺いた職人の高橋さんもお元気ですよ。雄勝の千葉さんも支所の方でがんばっていますよ」。びっくり!
2日前のは同姓同名の方がいたための誤報で、旧雄勝町役場の千葉さんはお元気だった。よかった!!それにごめんなさい。

雄勝天然スレートの木村満社長も工場も家も全壊です。右後に写っているのは東京駅のために用意した雄勝産スレート新材。被災しましたがきれいなまま残っていました。

雄勝天然スレートの木村満社長も工場も家も全壊です。右後に写っているのは東京駅のために用意した雄勝産スレート新材。被災しましたがきれいなまま残っていました。

*多賀城の文化センター。国の史跡多賀城址を見学の帰りに寄った展示室も避難所になっていた。ホールは暗いし客席があるのでホワイエに暮らしている。ホールの入り口の取っ手にハンガーがかかっている。テレビでプロ野球に見入る人々。若い女性がおじさんたちにハンドマッサージ。入り口では天下一ラーメンが京都から車を運び、麺は仙台で調達、きょうもボランティアで1000食ふるまったという。本を並べていく。ほとんど本らしい本はないのに、壁際に某大手出版社から送られた書籍の包みがいくつも『返却』と書かれて積み上げられていた。ショック。

*石巻は朝と夕方、自衛隊、職員、ボランティア、見学者の車で渋滞するというので残念だが名取、東松島は通りすぎた。高速からは海のほうがよくみえる。6号線より西と東で色が違う。海側は泥で黒い。
女川町総合運動場へ。丘の上の大きなアリーナに多い時は3000人がいた。
入り口には自衛隊が大きなテントを張り、風呂を運営している。ごった返すという感じ。
岩手のアーク牧場で真理ちゃんが一諸に働いた高野晃さんをやっと見つけた。
食事は一日二回。朝はパンと牛乳とか。すかいらーくが炊きだしに来てる。きょうは讃岐うどんのテント。お姉さん食べてって、といわれ、あの、被災者じゃないんですけど。いいんだよそんな、いくらでもあるんだから。でも食べるわけにはいかない。なかは段ボールで囲って通路を作ってあった。

*女川町議で40年、原発に反対して来た高野博さんにあって話を聞く。
「地震の時は本会議中でした。家に帰ったけど入れる状態じゃなくて、女川第二小学校に孫を迎えに行きました。そのうちゴーッと音がして津波がくるぞ-というのでもっと高台の運動公園に避難した。雪が降り出してビニールシートを子供たちにかぶせた。津波には警戒していたが、あんな大きなのが来るとは思わなかった。家のあたりは海になっていた。100人の集落の那珂で55人が亡くなりました。小学生は無事でしたが、卒業で早く帰っていた中学生が2人なくなりました。
大学を出て、それこそ女川第一小学校の先生を二年やったあと共産党から町議になりました。それは昭和43年ころ、木村力という町長の時ですが、原発が計画され、議会26人中誰も反対しなかったので、お母さんたちの願いで私が出ることになった。議員になっても反対は私1人でした。東北電力はうまいんですよ。浪江町と誘致合戦をやらせて競わせた。反対したのは漁師さんです。女川漁協と雄勝漁協と。でも議会や市民と手を結べず稼働しはじめたのは昭和59年だったかな。今思えば漁師さんたちが正しかった。
私は議会で毎回、三つのうちひとつは原発のことを質問して来た。でも東北電力も誠実な答えをしたことはありません。今回の地震のあと、停電になり、電話もつながらず、ラジオで福島で事故がおきたことはわかったが、女川のことが心配でただ祈るだけでした。
チリ地震の時もマイナス6メートルまで波が引いたので海水から冷却のための水が取れなくなるのではないかとヒヤヒヤしました。私は8期やって1回落ちたんです。共産党から2人出すのに失敗して。それで返り咲いて今反対は2人いますが、事故の後、町民にアンケートを無作為でとったら6割は原発に反対、賛成は2割しかいません。
女川は東芝が作った原発ですが、しょっちゅう事故を起こしています。それに電力会社も町も真摯に対応してこなかった。電力支配下の町でなかなかはっきり物がいえませんがこれを大きな力にしていきたいです。

女川原発に40年反対しつづけた高野博町議

女川原発に40年反対しつづけた高野博町議

もう6時20分、追分温泉まで真っ暗な道を走る。到着後、荷物もおろさずすぐに夕食。ここは温泉だが避難所にもなっている。当初60人くらいいたがいまは30人、混ぜてもらって夕食。ここへは前にも来た。そのときは食べきれないほどの海の幸だったが今日は焼き魚、韮の卵とじ、カボチャの味噌汁がほっとする。
食後、お茶ではなしをする。ご主人の横山さんは、
「この辺は岩盤がよく被害はなかった。津波は見ていないし、そのあとも見る気になれない。100人以上のひとがここに逃げてきた。さいわい宴会が中止になったので、すぐ避難民を受け入れ、食材はあったので作って出しているうち、避難所に指定された。寒かったけど食材の保存のためには助かりました。ここから丹前を運んだり、おにぎりも握って届ける毎日でした。食べ物あっての宿ですから、農業や漁業の復興がないうちに観光なんてありえない。それにこのことがあってから、人の情けというか、前にいらしたお客さまが全国からいろんなものを送ってくださいます。もうこのままずっと避難所でもいいやと思うくらいです」
30人の避難の方たちは風呂掃除や配膳など自主管理している。他の体育館の避難所をたくさん見た目には、部屋はちゃんと天井や壁があり、近所の仲間と避難して静かな雰囲気が保たれ、お風呂にも入れるし、いいところだと思った。

 追分温泉旅館を避難所にしてしまったご主人の横山宗一さん。そこに最後の5箱を置かせてもらいました。30人の避難者が暮らし、一日300人にタダでお風呂をふるまっています。

追分温泉旅館を避難所にしてしまったご主人の横山宗一さん。そこに最後の5箱を置かせてもらいました。30人の避難者が暮らし、一日300人にタダでお風呂をふるまっています。

前にあった大内さん夫妻からも、ノアの箱船のように屋根に乗って漂流した人の話。津波が来るとわかってから元気な漁師が海の上のほうが安全だと舟を出して波を乗り切った話。浜ではみんなそれを見て泣いていた。首まで浸かった93歳のおばあさんが助かったけどカイロ何枚張っても温まらなかった話。御産寸前の人を助けた話。流された話はつらくてここに書けない。児童の7割が流された大川小学校の話も。「まあ夢であればと思ったの」「映画見てるみたいだった」。ため息をつくばかりである。お風呂に入って寝る。

*丸森の友人宍戸克己さんは消防署の幹部で、何を聞いてもすぐ答えが返り、適切なアドバイスをしてくれ、必要なところにすぐ電話をかけてくれた。やっぱり火事場で鍛えた人は違う。私が文京区役所に電話してもそうだが、事務職の公務員は、私の部署の管轄ではありませんとたらい回し、責任をとらず、大過なく事なかれで勤め上げるという感じの人が多い。そう言うタイプは避難所などではまったく役に立たない、という話を多く聞いた。