震災日録 4月19日

5時に寝たのに8時に起きてしまった。なんだか不眠症。
どの御手洗いも使えない、という夢を見て目が覚めた。避難所の御手洗いは多く故障中だったから。お礼や報告に一日追われる。これ、ブログでなく日記になっているな。でも原田病のため、記憶がどんどんこぼれ落ちてゆくので、書き留めておこう。
昨日、お米を仕入れた面川さんの息子常義くんからメール。大学生だが帰って農家を継ぐつもり、一緒に東北の記録をしようと約束した。

森さん
 この間父が山元町に消防団の応援に行き、その時の写真を見せてもらいました。
 そこには建物などそこにあるべきものが何もなくたってしまった瓦礫だけの空間が写っていました。
 もうこれではいくら復興しても、もとの街の姿には戻れないでしょう。
 ですが森さんが書いていたように、その人の心のなかにある思い出や風景を記録していくことは、ものすごい意味を持ってくるのだと思いました。
 私もそれこそ5年10年のスパンで、震災を受けた人たちが復興に向かって立ち上がって行くさまを記録し伝えていけたらと思っています。
 それに加えて、自分が志している農業の有り様も伝えたいです。
 今実際に家の手伝いをしているのですが、この震災の後でさえ、季節の流れに逆らうことなく、その時にやるべき事を淡々とこなしている。
 それこそ想定外など言い訳も言わずに。
 そこにあるのは、人の生きる糧をつくる誇りなのだと思います。

すてきな文章だと思う。私たちは谷根千・記憶の蔵という活動拠点を持っている。
アーカイブとは穴蔵、貯蔵庫、記憶のドラム缶、あるいは人々の涙の壺なのだ。
東北の失われた記憶。壁のしみも、背を測った柱の傷も、大黒柱も、松林も、大漁旗も、コンバインも失われた。雄勝支所には拾われた御位牌やアルバムが並んでいた。
昔映した集落のお祭りやお花見の映像も集めなくてはならない。NHKにはいっぱいあるはずだ。みんなの視聴料で映したものだからみんなに返せ。地域に返せ。それが地域の肖像権というもの。八ミリも集めよう。お年寄りの記憶を紡いで、絵図も作ろう。

JR東日本は東京新聞によれば「始めから国産材を使うつもりだった」とのこと。JVが悪者にされている。中受けとはつらいもんだな。12日の段階でゼネコンの人からメール。

「要望書を早く出したほうがよいとおもいます。
発注者からの指示はとても強いものですから早いに越したことはないとおもいます。
ゼネコンは工期どおりにつくることを何よりも大切にしますからリスクはとりたがらない。
また、屋根はだいぶ出来ているから、すでにかなり昔のスレ-トは使われているのかもしれません。
地震で被害にあった東北を助けるという意義のほうが大きいのであればより、早いほうがよいし、JRに要望を出すことが重要です」

一日工期が遅れると5000万、などという話も別口で聞いた。これ、脅しとしか思えない。どういう計算なの? 原発止めると夏クーラーがつきませんよ、日本経済がだめになりますよ、と言っている連中と同じ発想。これからの世の中まだ、この方式でいきていけるとおもっているのかな。
そう言えば神宮寺の和尚からメールがずいぶん前にきた。

「現行日本のさまざまなシステムの中には、この地震・津波・原発事故によって崩壊するものが出るかもしれません。
ここ数年、何かわからないけど感じていた、閉塞感や、それに伴うイライラが、この
地震によって頂点に達し、同時に、パラダイムの大転換が始まる予感がするのです。

身内感覚優先で他を顧みない既成の組織(政党や行政機関や東京電力、はたまた、相撲協会や仏教界などなど)が生き残りをかけて表出していた、なんとも言えない、いやな閉塞感が、ここ数年あったような気がします。それらが今回の震災で大きく変わる、あるいはつぶれていくような気がしてなりません。
歴史を見ても、大事故や大災害、それにともなう大量死は、社会体制や宗教、文化を大きく転換させています。
そんな視点でこれからの推移を被災地から見ていきたいと思っています。
4月2日 高橋卓志」

そのとおりではないか?高橋和尚はこんな活動をしているらしい。

「13日に福島・川俣町に入り、20日から26日まで諏訪中央病院の医師たちと南相馬の市民総合病院のお手伝いをしていました。
鹿島、新地の避難所にも通い、凄まじい被害の実態と、避難している人々の闘いを目のあたりにしています。
その後、28日から石巻へ。東北人になったみたいな感じです。
1991年1月、鎌田實とチェルノブイリに入って20年になります。そのコンビが
久しぶりに復活しています。
20年間続けたチェルノブイリへの支援から得たものを、行政や市民、そして医療関
係(南相馬市民総合病院)とシェア しようと……」

やることがはやいなあ。見習わなければ。