震災日録 4月16日―――相馬、山元、新地、丸森

きょうから3日間、東北へ絵本とマンガ、大人用の本を届けにいく。
朝6時に編集者の滝川修さんがハイエースを借りて、7時に家へきた。最後の石巻への雨合羽(光源寺さん経由)、『古着でも何でも持ってきて』という北上町(いまは石巻だが広域合併でなにがなにだかわからなくなっている)の熊谷さんの言葉に甘えての古着を一番奥へ。箱の胴体にどこからいただいて何が入っているか書いておいた。
うらうらした土曜。東北道を安全運転で行く。那須インターで妹分の早川真理ちゃんと合流。
彼女は運転はできるし、地図は読めるし、東北中の道路を知っているし、機転はきくし、体はよく動くし。那須町のしごとを始めて間もないのでお願いするのは申し訳なかったが、どうしても来てもらいたかった。彼女のお知り合いも被災地にいるし。

絵本やマンガを積んで出発

絵本やマンガを積んで出発

今回は東京ではほとんど報道されない北福島、南宮城を重点的にくばっていく方針。
といって突然持って行っても断られる場合もあるとか。
相馬は馬の関係で知り合った川嶋舟さん(中村神社)がつないでくれるはずだったが東北道が通行止めになり、来られなくなった。

*はまなす館(避難民450人)に社協の只野さんを訪ねる。
支援物資の段ボールがものすごい量積み上がっている。避難者のいるところはホールで暗い。ボランティアなのか、大勢の若者が出入りする。本を読むような情況ではないなあ、と思いつつ、段ボールで運ぶ。『あ、ジャンプだ』と叫ぶ子あり。

*旧相馬女子高校は南三陸町から避難された方。
二回のキッズルームに置く。しかしここも明日には閉鎖。廃校だからいてもいいのだが設備が古く耐震性に問題あるとか。家に帰る人、飯坂温泉に第二次避難をする人と分かれる。子供たちは小さな教室の中で落ち着いて遊んでいた。絵本を渡す。

*よく遊んだ海のほうも見たいと思う。おいしい魚料理のたこ八や斉春も「中が抜けて」いた。家財は波に流されてがらんどう。土地の人は『死んだ』『なくなった』と言う表現を使わず『流された』といっていた。サイディングの金属がはがれちぎれて風に吹かれている。なんというか、町にはってある「ピースボート」のチラシみたいに。

山元町辺り、海まで何もありません

山元町辺り、海まで何もありません

*宮城県山元中学校
ここは素晴らしかった。渡辺校長が修了式の終わった3月11日から避難民を受け入れ校長室に陣取って一度も家に帰らない。浜の方から全壊・半壊で避難して着た順に教室に入ったが、そこでコミュニティが生まれ、その29の室長会議、そのほかに10人のヘッドクオーターをつくり、すべて自主運営。避難者が掃除も炊事もしていた。なんかなごやかな雰囲気で、それぞれ笛や津軽三味線や民謡や、特技をもちより他の避難者を慰めたり、部屋ごとに夜はこれからの町づくりを話し合ったり、次ぎの避難も部屋ごと引っ越したいといっているという。
あたたかい雰囲気の校舎建築もいい関係を生むのに一役を買っている。これからは災害時の避難所を視野に入れて学校を設計するべきかもしれない。本はさっそく校長先生がきれいに本棚に並べてくれた。学校だから児童書はあるので、大人の人が見にきた。
山元もおいしいピザのパピハウスがあったあたりの松林なぎ倒された模様。

*新地町役場(福島県)
枇杷温灸に丸森から通っていた荒先生に再会。生死を分けたのは第六感だという。本能的な直感と言うべきか。逃げる方向の選択とか、車を棄てるタイミングとか。ここら辺のひとも原発関連で働くひとが前は多く、作業員の体も多く診たという。
荒先生の紹介で新地町役場へいくと、部屋一杯に服、靴、毛布、靴下、洗剤などならべられ、被災者は持って行っていいことになっていた。「これから本も喜ばれるわ」「『ジャンプ』は本屋さんになかなか入らないし」と職員が喜んで受け取ってくれる。
釣師浜へはちかづけず。ここ出身の遠藤新の木綿の家がどうなっているか、確認したかったが時間がない。

丸森境界の鹿狼の湯へ。いつもは6時過ぎると800円が600円になるのだが、いまは一律500円。サウナと露天風呂は壊れていた。でも温かい湯につかれるだけでありがたく、次々客が来る。自衛隊の人も泊まっている模様。車でたちより湯に来た自衛官もチャンと500円払っていた。こういうところは中国と違うな。中国は軍隊や警官など優先的にただ飯だ。「3月中はうちも被災者はただにしていたのですが、主人が議員なもので、売名行為だなんて言われて」と奥さん。

*丸森町筆甫中学校
廃校のあとに南相馬からの避難者100人以上がいる。きた日は250人ほどおり、雪で寒かったとか。3人の職員さんがついて自主運営。「食材の調達が大変でしたがやっと軌道に乗りました」。山奥の小さな集落に避難して心細いだろう。明るいニュースは小学生が7名この春、全校生徒16人の筆甫小学校にはいり、過疎の小学校がにぎやかになったこと。お風呂はあるが、町営国民宿舎あぶくま荘がただで入れ、送迎もある。「本がきたのね」と被災された女性が「手持ちのは読み飽きちゃった。あそこの本棚を持って来てならべましょう」といった。

夜8時すぎ、友人の菊地宅へ着く。玄関まで迎えに来たひろしさんが「上がって上がって! おそいよ。天ぷら冷めちゃったよ」と。菊地家のテーブルにはところ狭しと、焼き鳥、サラダ、牡蛎の串焼き、天ぷらが並び、ビールで再会を喜ぶ。被災地に来てこんなご馳走を食べてよいものか。きょうは泊めてもらう。「いいんだ、支援隊の後方支援ができるなら」としのぶさん。ひろしさんは鄙にはまれなレストラン・緑山のオーナーシェフ。震災以来のいろいろを話し続けるが、ドライバーのタッキーと真理ちゃんはこっくり、バタンキュー。10時半には蒲団にはいる。

*きょう感じたこと。支援物資は大きいところへどっと集まる。私たちもまず子どもがたくさんいるところへ、とむかった。800人いるところに送れば効果的、役に立つと思うのはまちがい。小さくても必要としているところへ、がいい。

*毎日必要なものが変わる、というのも目で見るとよくわかる。下着が足りない、送ってというと、どっと集まって余剰になる。これについてはhttp://fumbaro.org

*岩手県などボランティアを断っていてひどい、と思っていた。しかし受け入れ態勢のない所(地元職員が人を使いなれてない所)へ行くとボランティアはうろうろするばかりで、避難所の落ち着いた雰囲気をこわしかねない。きのう東京から来て、今日は海のほうを見て帰る、というボランティアもいた。そういうごく短気なボランティアをどう使えるかもわからないが。
何かすることはないか、という指示待ちでなく、さっさと瓦礫の中からお位牌やアルバムなど失われてはならない記憶を拾って保管・整理している若いボランティアがいる。あとで効いてくる作業だろう。