2011年5月 のアーカイブ

震災日録 5月18日 岡倉天心六角堂

2011年5月27日 金曜日

震災以降の3月13日から被災地支援を続けてきた大塚モスクの要請で、いわき市に炊き出しの手伝いに行った。2002年秋アフガニスタン支援以来、大塚モスクに協力してきた本駒込の池本達雄さん・英子さん夫妻、運転は区議の浅田やすおさん、そして私。朝8時集合で常磐道を走りだした。今日は配食の手伝いをすればいいので、ゆっくりいく。

勿来インターで降りたら岡倉天心美術館への道が出ていたので、「そうだ! 五浦の六角堂が津波で流されたんだった」と思い出し、よっていくことに。ナショナルトラスト理事ですというと開けてくれ、見学することができた。松のはえた断崖の上にあった国登録文化財六角堂は白木の床だけ残してすっぽりなかった。お堂は海の中にあるらしく捜索中。回遊路も崩れていた。美術館も五浦観光ホテルも休業中。

昼はカニ飯の店へ。「築地より直送」の垂れ紙。茨城平潟港は操業していたが県境を越えて福島に入ると禁漁。

勿来のボランティアセンターに寄ったが、もう撤集準備で話を聞くことも断られる。

さらにいわき市勿来支所で話を聞く。いわき市は合併したのはずいぶん前だが勿来、常磐、内郷、平、四倉、久之浜と5支所に分れている。所長、課長さんの話。

「3月11日からほとんど家に帰っていません。3月11日で震度6強で長い時間揺れました、ガリガリガリと2分何秒かな、肝をつぶして外にも出られないくらい。思えばチリ津波の時から地区本部を設置して、組織づくりはできていたんですが。各地区では訓練もよくしていましたが何しろ広域で、平の市役所は指揮をとりきれませんでした。だいたい電話がつながらなかったし。勿来だけでピーク時4890人避難者がいました。

避難所のご飯は、各区で米や食材を供出して区長の奥さんとかお嫁さんが何百食も炊き出ししてくれました。おにぎり、つけもの、味噌汁くらいですね。避難所だけでなく自宅で暮らしている独居老人にも届けました。最初は食糧が来なくて苦労しました。生野菜?農村はあるといっても冬は葉ものはないですからね。原発の水素爆発のあとはいわきの人もずいぶん避難してましたし。

物流が風評被害でいわきまで入ってこなかった。それは福島沿岸部を走る車がいわきナンバーだからです。いわきナンバーの車はガソリンスタンドやレストランでも入るなって張り紙された。いわきの農作物も流通では避けられていますね。悔しいです。

水道、ガスが出なくなってやっと復旧したと思ったら4月11日にまた揺れてふたたびライフラインがだめになりました。困るのはトイレです。水がでないから。携帯トイレは必要ですね。津波は港によって違いますね、向きや形が違うから被害が違う。何で隣りは無傷なのにうちは全壊なんだ、と。そういう差が出てきてしまう。ボランティアの方たちが瓦礫の撤去を手伝ってくれてありがたかったです。長靴に軍手でやっていて慣れてましたね。そのころはまだ瓦礫の下に行方不明者がおられました。

そのうち物資はどっときて配りきれないくらいになった。洋服なんかはやはり人の着たのはいやだと言いますね。新品があるんだし。あるときまで寒かったけど、いまは温かくなって冬物はあまっています。土日に必要なものを持って行ってくださいと言ったんですが、多少は便乗の人も来ますよね。タダでもらえるならと。

全壊、半壊の人に福島県で市内のアパートなどを借り上げて1年無償で貸すので、避難所の人数もだんだん少なくなっていきますが、それでも希望と違うのでいやだという人もいますし、新生活をはじめるのに赤十字が配る家電製品のセットを待っている人もいます。

海は原発のこともありますが、海中に船が沈んでいて網がスクリューにからまったりするので操業は無理でしょう。田んぼもヘドロが入って、塩分もあるので、2年くらいは田植えは無理でしょう。これから市役所が三食お弁当が出る体制を作りましたが、やはり温かい炊き出しのほうが皆さんよろこぶので、これからもお願いしたいです。そしたら弁当のほうを断りますから」

いわきモスクは泉にあった。車のディーラーのラジャさんの案内で到着。ラジャさんは30代のパキスタン人、イスラマバード出身。日本語、ロシア語、タガログ語も話す。モスクにいるムスタファさん、バングラディッシュ人のコックさんマクブルさん、「なかなか来ないので心配しました」という。今日は5時に勿来市民会館と勿来体育館にカレーとサラダを配食。ムスリムは豚肉を食べないのでチキンを使う。

市民会館は階段を上がって2階の和室2室にお年寄りたちと子供のいる家族たちが分かれていた。家は全壊したものの、昼間は働きにいっていたり、学校に行ったり、家の片付けに行ったり、病院に通っている人がいた。「なにが食べたいですか」と聞くと「さしみ」とのこと。浜の人たちはいつもとれたての魚を食べて暮らしてきた。子どもは「お菓子が食べたい」とのこと。もうひとつの体育館では「酒が飲みたい。ここは学校の体育館なので禁酒。でもこの雰囲気じゃね、飲んでもうまくない」というひとも。

生野菜のサラダをよろこび、残りをもらっていいかしら、と年配の女性がタッパーに入れた。

モスクに戻ると夕べのお祈り。メッカのほうを頭に何度もひざまずいて頭を床にすりつける。「膝に来ませんか」ときくと、「年取るといたくなる」とうなずく。

湯本温泉松柏館という由緒ある宿に朝食つき3500円でとめてもらった。ただしエレベーターは停止、朝は湯に入れない。原発関連会社の作業員たちと広野町からの避難者も泊まっている。お風呂で高校生らしき女の子が原発がいつ収束するのかずっと話していた。かなしくなった。

震災日録 5月17日 スレートの募金口座 

2011年5月27日 金曜日

一日、家を掃除して社屋や家を流された北上町の熊谷さんがほしいといった「蒲団、食器、調理器具」を仕分けする。シーツは洗濯し、3組の蒲団を用意でき、7時前に熊谷産業の沖元さんがとりにきてくれた。ヤマサキは15日から宮城の登米にいる南三陸町からの避難者にカラーボックス、辞書、文房具などを届けにいってきた。息子岳ちゃんの運転でかなり遠かったもよう。「南三陸の海沿いを走りながら、「こんなに瓦礫が片付いた」「ウニが育ち過ぎている、早く海に出たい」という話を聞くと、初めてみる被災地の風景に呆然としている顔を伏せたくなりました」とメールにあった。

雄勝天然スレートを復興したい方たちの募金先を作る。個人名でない郵便貯金を作る時は会員や会の規則などを書かなくてはならないが、白山の郵便局員が親切に協力してくれ、あっという間に作ることができた。

読売の都内版で連載が延期されていたが「森まゆみのむかしまち散歩」として6月2日から始まることに。ほっとした。が忙しくなりそう。

震災日録 5月16日 公務員の残業代

2011年5月27日 金曜日

昨日の熊谷さんのお話のなか、名取市の職員の総残業代は3億ではなく1億6千万でした。お詫びして訂正します。といっても職員ひとり当たり30万。私としては残業代をもらうのは労働者の権利だとは思いますが、いっぽう家も仕事も失った被災者にまだ1銭も出ていないことが問題だと思います。名取市だけではなく被災地の他の自治体でもそうでしょう。神戸などでは災害時の公務員の残業代は青天井ではなく制限を設けているようです。批判が起きるのは今回、自治体の事務職員が全体として住民からよくやった、といわれる働きを見せていないこともあるかも。「今回、いちばん頼もしかったのがご近所とボランティアと自衛隊。役に立たなかったのが役所の中間管理職と議員と縦割り行政」(いわき市のAさん)ほか同様の意見をたくさん聞いています。

もうひとつ熊谷さんのお話で、大川小学校の避難については住民が不適切な示唆をして教員が迷ったという説もあるようです。まだ真相はつかめませんが、子どもを失った親の気持ちを考え、二度とこのような惨事を起こさないよう、ちゃんとした検証と教訓を引き出してほしいものです。

この日、7時、谷中コミュニティセンターの建て替えをめぐる話し合い。住民の代表による検討部会で基本計画は策定されたものの、まだそれは住民全体のものとなってはおらず、3・11のあと、本当に役立つ防災センターを作るにはもう少し、みんなの知恵を集める必要があるのではないか、ということになった。谷中コミュニティセンターは区を越えて利用されているものなので、この場合、住民とは文京区民も含みます。おなじく森鴎外記念本郷図書館は台東区民もよく利用していますので、図書館の運営については台東区民も意見を言っていいのです。行政の縄張り主義にはあきれる他ありません。もちろん休日の午後などに災害が起これば、多くの散歩や見学者も防災広場やコミュニティセンターに逃げ込むでしょう。

震災日録 5月15日

2011年5月16日 月曜日

桜井さんの話は面白くて、いかに東北や関東は東京に人材を送っていたかに花が咲いた。「うちは15坪の長屋に山形出身の女中さんがいた」「うちは千葉だったな、婆さんなんて口悪いから茨城巡査に千葉女中なんて言ってた」「たしかに森鷗外の家でもだいだい女中さんは安房から来ていたようで、たぶん口入れ屋が上野辺りにあったのだと思う。鷗外が大原に鷗荘を持ったのはその関係もあるのかも知れない」

「うちの女中さんは不義密通して帰された。そのとき、だれかが『まっつぐけえんなよ』といったのが忘れられない。風呂敷包みを持ってとぼとぼ帰るまっすぐな道が見えるような気がしてさ」「うちの隣りは茨城巡査でさ、僕が会社に入って浅草署に行ったら、偉くなってた。おじさんここでなにしてんの、と聞いたら『知能犯の担当だ』って胸を張った。浅草署の副署長だと言って食い逃げしたやつを捕まえたとか言ってた」「たしかに昔は警察の人というと下町ではただ飯食ってたもんね。うちの患者にも警察の人がいてよく貰い物だと言ってバナナとか持ってきてくれたもん」

今朝、北上の熊谷さんがきた。「森さん、河北新報見ましたか? 名取市の役場職員の4月の残業代が1億6000万、職員ひとり当たり、30万というんですよ。市長が半分にしてと言ったら組合が反対。だってこの非常時に住民は一銭ももらわないで不眠不休なのに、何いってんですか? 自衛隊だって来なくていいのに来て渋滞は起こすし、特別手当出てるんですよ。日本赤十字なんてみんな皇族とか担いで、集まった義援金で日経新聞に大きな広告出して、まったく義援金は配らないで、自分たちは残業代とっているんですよ。官僚だって同じですよ。この国は官僚と公務員に食い殺されますよ」

「大川小学校なんて人災ですよ。みんなかばっているけど、校長は休みとっていなかったし、マニュアル通りの対応で、よその子も連れて帰ろうとしたら親か祖父母にしか渡せないとか、学校が避難所だからここにいれば大丈夫とか、臨機応変な判断ができなくて、その無能を攻めないでNHKなんかもいつまでもお涙ちょうだいのニュースばっかりやっているんですからねえ。公立の学校はもう駄目ですね」

ヤマサキが母子家庭で一生懸命東京で働いても20万は稼げないのに、ヤマサキの義母は100歳で高知市役所職員の妻というだけで毎月遺族年金が20万出る。やっぱりこの国はおかしい。天下りだってあれだけしつこく書いてもまったく改善されないのはどういうことか?

震災日録 5月14日 文部省と科学技術庁

2011年5月16日 月曜日

今日の平凡な一日。

歯を抜いたあとを消毒してもらう。しのばず通り、つけ麺屋とラーメン屋の前に列。花粉症の時期も過ぎ、誰もマスクをしていないが、大丈夫なのか。私もしていないが。

「今年の夏は暑くなりそうだ」が挨拶。「冷房が使えませんからね」。オフィスでもジーパンにTシャツ、アロハでもよくなるらしい。はめ殺し窓のオフィスはどうするんだろう。よみせ通り、野田屋でオーガニックワインを赤白二本、谷中コーヒーで豆、魚屋さんでゲソとあら、と買ったらもうランチに入る気分ではない。それにしても5月の谷根千は花でいっぱい。団子坂上で牛肉と鶏肉、家に帰って昼間からワイン。このところ疲れすぎた。きょうはヤマサキが登米にいったので私は乗らなくてもよくなって、めまいのする体を休めることに。

夜、桜井さんから電話。「文部省と科学技術庁が合体したのがよくなかった。国策の原発推進を副読本で叩き込まれている。われわれの世代はビキニ環礁核実験で雨にぬれるな、ミルクを飲むな、で恐さが叩き込まれているし、スリーマイルやチェルノブイリも知っている。今の2、30代は原発はクリーンで安全で育ってきた」「いまこそ何か言うべきなのに環境省はまったく存在感がない」「勝手に20ミリシーベルトにしたことに対して東京の親たちももっと騒ぐべきだ」「福島の学校の校庭の土を削るのは東電がやるべき仕事。ダイヤモンド鉱山が爆発したらダイヤモンドを拾い集めるでしょう。俺のもんだって。放射能を作ったのは東電なんだから、製造物責任でも汚染土壌を自分ところで拾い集めさせなくちゃ」「そもそも学校は夏休みまで休みにしたっていいんじゃないの? マニュアル通りはじめるから、子どもは避難できなくなり、避難所になっているところはまた第二次疎開しなくてはいけなくなる」

東京の富ヶ谷国民学校が青森に疎開した時の記録がNHKのドキュメンタリーになっている。「親はみんな晴れ晴れした表情、子どもだけでも安全なところに逃がせたら親はうれしい。それで後顧の憂いなく仕事に励める。そういう風に今回もするといいのに」

飯館村がようやく自主避難をはじめるというニュース。その中に妊婦や赤ちゃんもまだいるとあってびっくり。まだいるなんて! 東電清水社長、社員の退職金年金に手をつける気はないとか。「それぞれの老後の設計もある」。東電のせいでしごとも家も失った人がこれだけいるというのに! その人たちの老後の設計はどうなるのか? 会社社長の友人(女性)が東電社員は避難者に家を明け渡せといっていた。そんな、非現実的な、と思ったが、今日のニュースを見て、そうすればいいのに、と思った。

震災日録 5月13日 新東北列藩同盟

2011年5月16日 月曜日

きょうは歴女の会で上野彰義隊について話してくれという。彰義隊の命日は15日。

慶応4年5月1日、江戸で幕府方が負けたことを印象づけた点で、戊辰戦争中もっとも重要な闘いとされる。彰義隊は1000人から勝海舟日記では4000人といい、数ははっきり分からない。死者の数もはっきりせずおよそ300人くらいか。新政府軍が40ほど。戦場はひろく上野から谷根千全域。根岸口はあいていたのでそこから落ち延びた彰義隊士は王子街道から奥州街道を北上、あるいは江戸湾から船に乗って付いたところが平港、つまりいま原発で問題になっており、大塚モスクや光源寺お握り隊が支援しているいわき市周辺。それ以前5月2日に奥羽列藩同盟が結成され、上野を落ち延びた輪王寺の宮がその盟主となる。

磐城平藩は幕末の老中安藤信正を出したが、坂下門外の変に合い、蟄居。奥州列藩同盟に加わったが平城は7月落城、降伏。そのほか湯長谷藩内藤氏、泉藩本多氏(これもいわき市)も列藩同盟。

福島原発の北側は旧相馬中村藩。岩代二本松藩は白虎隊より壮烈な二本松少年隊の悲劇を生んだ。福島藩は板倉氏3万石、ここでは世良修蔵暗殺という事件が起こり、藩主は維新後三河お預けとなった。

幕臣たちは仙台港からも上陸した。伊達藩は62万石、奥羽列藩同盟中もっとも大きくリーダーシップが期待されたが、あまり戦意ふるわずこの年、9月15日降伏。ただちに28万石に減らされた。

今回、石巻にあった東京駅のスレート屋根が被災し、JR東日本がいったんはスペイン産に傾きながら撤回したのは清野現社長が仙台出身なことと関係がないか? 保存を決めた時の松田会長は札幌出身だが、先祖は宮城の岩出山。岩出山は政宗が12年間いたところでそののちも伊達の分家が城主だったが、維新後、多く北海道開拓へ向い、辛酸をなめた。その艱難辛苦を学問所有備館で見たことがあるが、この茅葺きの建物も地震で倒壊。JRの松田会長のご先祖もこの大変な北海道開拓に向った一人と拝察する。

宮城とならんで被害甚大だった三陸沿岸部は旧南部藩。20万石の大藩だが一時伊達領内、白石に移封され、70万両をはらって故地へ戻るという往復ですっかり疲弊、維新を待たずに廃藩になった。我が先祖は宮城県南端の丸森でおそらく伊達辺境のコサック兵のようなものだったが、「南部が入ってくるから立ち退け、といわれたので、侍身分を捨てて土着した」と伝わっている。耕した土地は身分より重い。それなのに原発事故では大地を捨てて、みな避難しなければならなかった。

明治になって「白河以北一山百文」というのは「なんの値打ちもない土地」ということである。このいわれ方への猛烈な反抗として「河北新報」という新聞はできた。以降、東北は下に見られれつつ、首都東京のバックヤードとして人材、資材を担ってきた。飢饉の年に東北の農村からは吉原に娘の身売りが多かったことから、サントリー社長の蝦夷発言まで思い起こすことは多い。

谷根千地域には東北縁故者が多い。名乗りを上げて新東北列藩同盟を作りませんか?

そして協力して細く長い支援をしましょう。ちなみにわが母方は鶴岡、庄内藩。ここでは酒井のお殿様ご一家が今も居られ、致道館や松ヶ丘開墾場を守り、維新の辛苦を今に伝えているのです。

震災日録 5月11日

2011年5月12日 木曜日

中島岳志さんと両国を歩く。いま、震災記念堂と復興記念館に行くといろいろ考えさせられる。回向院の相撲ももとはと言えば飢饉や地震でなくなったひとを弔う追善相撲だったということ。回向院の境内にはたくさんの『横死』者を弔う碑が立っている。

横網町の本所被服廠あとに伊東忠太設計で建てられた震災慰霊堂は来るべきつぎの震災への警告として建てられたとあった。ここで4万人近くが命を落とし、本所区の死者は東京市の過半を占める。もうひとつの建物も伊東忠太設計の復興記念館だ。木にひっかかったトタン屋根やグニャグニャの自転車、ガラス、銅貨、アメリカからの支援の服、当時を描いた絵や写真がたくさんあって今、学ぶことが多かった。安田邸園があり、安田財閥の屋敷があったがここで身内に死者が出たため、安田家では高台の地盤のいい千駄木に移転して今の安田邸があるのだ。安田善次郎がつくった安田高校も隣接してあった。

夜、結城登美雄さんから電話があった。

「東北の太平洋沿岸を歩いて来たが、本当におろおろ歩き、というかんじでした。壊滅とはこのことかと無力感にとらわれた。

でも震災から二ヶ月立って、もう話もしたくないといっていた人たちが、すこし口を開き、前向きに動こうとしている。それに相槌を打つしかない。今も瓦礫の中で何かを探している人がいる。ここはほんとうはいいところなんだよ、とかきれいな港があったんだよとか、そういう人に寄り添っていけないか。復興構想会議だって誰のためのどこのための復興なんだよと思ってしまう。現地が復興する気にならなかったら絶対復興しない。上から何か決めてもなあ。もうカツオがそこまで来ている、と焦っている漁師もいるし、牡蛎の種付けをしなくちゃ、とうずうずしている漁師もいる。そこに原発が入ってくると心が晴れないんだなあ。さあやろう立ち上がろうという気持ちが萎えるんだ。

沿岸で潮が入った田んぼは2万ヘクタール、これは160万人が1年に食べる米ができないということだ(私の計算、2万ヘクタールは2万町歩、1町歩は10反。1反で約8俵、1俵は60キロでほぼ日本人はひとり1年60キロの米を食べる。つまり8×10×20、000=1、600、000俵)もう3、4割減反して放置された田んぼはいっぱいあるんだから、そういうところを耕せるように融通きかせろ、というんだけどなかなかそれがうまくいかんなあ」

結城大明神の巫女として書かせていただきました。

震災日録 5月10日  細く長い支援について

2011年5月12日 木曜日

朝、ポプラ社から出すエッセイ集「おたがいさま」の原稿を渡す。去年、このタイトルにしようと決め、営業部の人たちも気に入ってくれ、みんな個人主義で浮かれている社会、個人で悩んでいる社会に一石を投じようということだったのだが、なんだか時代にぴったりしすぎるタイトルになってしまった。

昼、久しぶりに谷根千なかま4人で昼食。忙しくてなかなか顔が合わない。

たんぴょう亭のおいしいご飯、おじさんたちの優しい笑顔がうれしい。この間の疑問をヤマサキに聞く。

「どうしていわきの野菜とか持って来て売ってるのに、こっちからまた野菜きざんで食事作って届けなければならないの?」

「東京からでなく後背の被害の少ない農村部から野菜や果物を送るわけにいかないの」

各地に行った人の話によると、

*避難所によって情況や雰囲気が相当違う

*被災者は家や仕事をなくし、ぼうぜんとしていることが多い。

*初期には持って行った食事を取りあう、配ってくださいと言っても誰も手伝わない、手弁当の民間支援なのにお金もらってやっているのだろう、と思っているようでお礼などはいわれない、という情況も見られた。

*市役所の職員は毎日日替わりで、リーダーシップをとりきれていない。

*ボランティアで長くいる人が号令をかけるようになるが、その人の性格ややり方で雰囲気が左右される。外からの支援を断るところもある。

*とてもひどいところは自衛隊が来て、パックご飯やパンを配っている。

*近くには飲食店もあるが被災者はお金を持っていない。まだ救援金が配られていない。

*避難所によってはまだ、炊事する器具や冷蔵庫、洗濯機もないところもある。

*仮設住宅に入ると自炊しなくてはならない。年金のでている人以外そのお金がない。

*仮設の人が食糧をもらいにくると「仮設に入れたくせに」と排除する人もいる。

*避難所の縮小や統廃合が起こると、そこでまた新住民旧住民のトラブルも起こる。

*ちょうど原発から30キロ圏のある学校では校庭でクラブ活動をやっている。

*みんなマスクなどしていないので支援者だけがするのははばかられる感じ。

伝聞なので間違った情報も含んでいる可能性があるが、ようするに人間社会にありがちなトラブルが当然、過密の避難所でも起きているらしい。それだけ情況が過酷だということだ。

対立を緩和し、自立をうながすような取り組みはできないか。ヤマサキはかなり疲れている。最初の頃「偽善と自己満足のあいだをウロウロしているような気分」といっていたが、私もなにをしてもそんな感じにとらわれる。明るくおおらかな避難所が増えますように。

震災日録 5月9日 相撲を久しぶりに観に行く

2011年5月12日 木曜日

朝、タクシーに乗った。運転手さんが「もう自分たちの収入は時給700円くらいで、生活保護を受けた方が収入ある。保険もタダだし、住宅もタダだし。原発で1時間1万円で作業員を募集したらすぐいっぱいいなったというじゃないですか? わたしだって行きたいですよ。もうこの年になったら、あと何年かすれば死んじゃうんだから」

母を連れて大相撲の技能審査会へ行く。その道々話すことが面白い。「NHKは毎回同じニュースで進歩がないから。朝7時の一回見れば充分よ」「オレオレ詐欺が来たらやっつけてやろうと待ち構えてるんだけどまだ来ない」「この前新聞の勧誘員が来てなにをお取りですか、というから、あんたの知ったこっちゃない、といったの。その前にはとってくれと土下座したの。で、土下座しなくちゃとってもらえないくらい内容のない新聞なの、と聞いたら、イヤ、いい新聞です、というじゃない。だから子どももいるんだろうに、もっと自分の仕事に誇りを持ちなさい、といったのよ」最後に、「最近の男はだらしないわね。いつからだらしなくなったか知ってる? 郷ひろみが二谷由利江と結婚するとき、記者会見で泣いたでしょ。あのときからよ」

技能審査会のあいだもいろいろ話す。「わたしの時は何たって双葉山、でも玉の海のほうが好きだったわ。透き通るような肌で。羽黒山というのもいたけど鶴岡じゃないね。鶴岡出身は出羽嶽文ちゃんだけ。あの人はよくうちにきたけど斎藤茂吉の弟分で、うちにくるとかもいの上に頭が出てたし、通りの角におそば屋があって天丼八つとか、親子丼六つとかぺろっと食べちゃうの。あとは前の木村庄之助くらいかな。鶴岡は。柏戸は本名は富樫と言って鶴岡に多いのよ。今日出ている上林というのも多い。おとうさんは魁皇が好きだったからきょう勝ってよかった」

被災地のこどもたちか、セーラー服の集団がいた。

白魚のようなる相撲、隠岐の海

栃乃洋、豊の島、黒海、荒海、田子の浦、三杉磯、春日波、お相撲さんの名前は海に関するものが多い。

震災日録 5月8日 地域で被災地を応援

2011年5月12日 木曜日

日曜日。いい天気。昼すぎ、かなかなさんの「谷根千てづくり市」へいった。路地いっぱいに店がならぶ。福島県のジャムや織物を売る店もあった。地域でもフクシマを応援しようという動きは広がっている。谷中銀座は相変わらずの雑踏。三代百年続く魚亀さんが廃業。先代からよく知っているだけに残念。安心な鮮度の高い魚が仕入れできなくなったため、というようなことが書いてあった。

夕焼けだんだん上の深圳では、はてなさんが私の仕入れてきた角田の米や大崎の酒を売っている。5キロ2500円は原価、大変おいしく無農薬だが、値段のためなかなか売れないらしい。きょうはめぐちゃんの帽子屋さんも。これから紫外線を防ぐにはよさそうなつばの深い、帽子を作っている。早速買う。

被災地に親戚のいる人から、「津波のあと、おじいさんが庭にへそくりを埋めておいた、と言い出し、みんなで探したけどなかったって」という話を聞く。

なんと2000万埋めてあったとか。うちの先祖は台風のとき流されてきた金の壺を拾って長者どんになったという話が丸森では伝わっているが、あながちウソではないかも知れない。

NHKは相変わらず美談のたれながし。津波の1時間半番組も見たが「地震が起きたらすぐに高台へ逃げましょう」以外に特に新しいことはなかった。民放の「がんばろうニッポン」や「日本はひとつ」も気味悪い。岡倉天心の欧米の植民地主義に抵抗するための連帯を表した「アジア・イズ・ワン」が戦時中、いかににすり替えられて八紘一宇の旗となったか、憶い出すたびぞっとする。