震災日録 5月13日 新東北列藩同盟

きょうは歴女の会で上野彰義隊について話してくれという。彰義隊の命日は15日。

慶応4年5月1日、江戸で幕府方が負けたことを印象づけた点で、戊辰戦争中もっとも重要な闘いとされる。彰義隊は1000人から勝海舟日記では4000人といい、数ははっきり分からない。死者の数もはっきりせずおよそ300人くらいか。新政府軍が40ほど。戦場はひろく上野から谷根千全域。根岸口はあいていたのでそこから落ち延びた彰義隊士は王子街道から奥州街道を北上、あるいは江戸湾から船に乗って付いたところが平港、つまりいま原発で問題になっており、大塚モスクや光源寺お握り隊が支援しているいわき市周辺。それ以前5月2日に奥羽列藩同盟が結成され、上野を落ち延びた輪王寺の宮がその盟主となる。

磐城平藩は幕末の老中安藤信正を出したが、坂下門外の変に合い、蟄居。奥州列藩同盟に加わったが平城は7月落城、降伏。そのほか湯長谷藩内藤氏、泉藩本多氏(これもいわき市)も列藩同盟。

福島原発の北側は旧相馬中村藩。岩代二本松藩は白虎隊より壮烈な二本松少年隊の悲劇を生んだ。福島藩は板倉氏3万石、ここでは世良修蔵暗殺という事件が起こり、藩主は維新後三河お預けとなった。

幕臣たちは仙台港からも上陸した。伊達藩は62万石、奥羽列藩同盟中もっとも大きくリーダーシップが期待されたが、あまり戦意ふるわずこの年、9月15日降伏。ただちに28万石に減らされた。

今回、石巻にあった東京駅のスレート屋根が被災し、JR東日本がいったんはスペイン産に傾きながら撤回したのは清野現社長が仙台出身なことと関係がないか? 保存を決めた時の松田会長は札幌出身だが、先祖は宮城の岩出山。岩出山は政宗が12年間いたところでそののちも伊達の分家が城主だったが、維新後、多く北海道開拓へ向い、辛酸をなめた。その艱難辛苦を学問所有備館で見たことがあるが、この茅葺きの建物も地震で倒壊。JRの松田会長のご先祖もこの大変な北海道開拓に向った一人と拝察する。

宮城とならんで被害甚大だった三陸沿岸部は旧南部藩。20万石の大藩だが一時伊達領内、白石に移封され、70万両をはらって故地へ戻るという往復ですっかり疲弊、維新を待たずに廃藩になった。我が先祖は宮城県南端の丸森でおそらく伊達辺境のコサック兵のようなものだったが、「南部が入ってくるから立ち退け、といわれたので、侍身分を捨てて土着した」と伝わっている。耕した土地は身分より重い。それなのに原発事故では大地を捨てて、みな避難しなければならなかった。

明治になって「白河以北一山百文」というのは「なんの値打ちもない土地」ということである。このいわれ方への猛烈な反抗として「河北新報」という新聞はできた。以降、東北は下に見られれつつ、首都東京のバックヤードとして人材、資材を担ってきた。飢饉の年に東北の農村からは吉原に娘の身売りが多かったことから、サントリー社長の蝦夷発言まで思い起こすことは多い。

谷根千地域には東北縁故者が多い。名乗りを上げて新東北列藩同盟を作りませんか?

そして協力して細く長い支援をしましょう。ちなみにわが母方は鶴岡、庄内藩。ここでは酒井のお殿様ご一家が今も居られ、致道館や松ヶ丘開墾場を守り、維新の辛苦を今に伝えているのです。