震災日録 5月11日

中島岳志さんと両国を歩く。いま、震災記念堂と復興記念館に行くといろいろ考えさせられる。回向院の相撲ももとはと言えば飢饉や地震でなくなったひとを弔う追善相撲だったということ。回向院の境内にはたくさんの『横死』者を弔う碑が立っている。

横網町の本所被服廠あとに伊東忠太設計で建てられた震災慰霊堂は来るべきつぎの震災への警告として建てられたとあった。ここで4万人近くが命を落とし、本所区の死者は東京市の過半を占める。もうひとつの建物も伊東忠太設計の復興記念館だ。木にひっかかったトタン屋根やグニャグニャの自転車、ガラス、銅貨、アメリカからの支援の服、当時を描いた絵や写真がたくさんあって今、学ぶことが多かった。安田邸園があり、安田財閥の屋敷があったがここで身内に死者が出たため、安田家では高台の地盤のいい千駄木に移転して今の安田邸があるのだ。安田善次郎がつくった安田高校も隣接してあった。

夜、結城登美雄さんから電話があった。

「東北の太平洋沿岸を歩いて来たが、本当におろおろ歩き、というかんじでした。壊滅とはこのことかと無力感にとらわれた。

でも震災から二ヶ月立って、もう話もしたくないといっていた人たちが、すこし口を開き、前向きに動こうとしている。それに相槌を打つしかない。今も瓦礫の中で何かを探している人がいる。ここはほんとうはいいところなんだよ、とかきれいな港があったんだよとか、そういう人に寄り添っていけないか。復興構想会議だって誰のためのどこのための復興なんだよと思ってしまう。現地が復興する気にならなかったら絶対復興しない。上から何か決めてもなあ。もうカツオがそこまで来ている、と焦っている漁師もいるし、牡蛎の種付けをしなくちゃ、とうずうずしている漁師もいる。そこに原発が入ってくると心が晴れないんだなあ。さあやろう立ち上がろうという気持ちが萎えるんだ。

沿岸で潮が入った田んぼは2万ヘクタール、これは160万人が1年に食べる米ができないということだ(私の計算、2万ヘクタールは2万町歩、1町歩は10反。1反で約8俵、1俵は60キロでほぼ日本人はひとり1年60キロの米を食べる。つまり8×10×20、000=1、600、000俵)もう3、4割減反して放置された田んぼはいっぱいあるんだから、そういうところを耕せるように融通きかせろ、というんだけどなかなかそれがうまくいかんなあ」

結城大明神の巫女として書かせていただきました。