‘くまのかたこと’ カテゴリーのアーカイブ

震災日録 4月28日 今野大力と菅原克己

2011年5月2日 月曜日

英王室の王子の結婚式をうきうきと伝えているNHKの女性キャスターおよびアナウンサーたちはひどすぎる。「こんな時だから明るい話題を」なんていうおちょぼ口のディレクターに糸を引かれているのだろうが、「若い世代にも王室の支持が広がっています」なんていうコメントは意図あるものとしか思えない。原発の意図ある報道を見すぎてからはなにもかも疑ってかかる自分がいる。
自分が美人で賢げだと信じきって、深い思いもなく口先だけでペラペラと話すアナウンサーが多い。さかしらというのでは。勝間和代という人の話し方もそうだ。過剰な敬語と理論的厚化粧のぶん言葉数が増えるからやたら早口になる。
ものいえばプチブル寒し初夏の風
ってやつだな。
アナウンサーのJALのスチュワーデスみたいな、片足半分だして両手をお腹の前で組むスタイルもやだなあ。一方で着のみ着のまま体育館でマスクしている人たちの日常が写し出され、それを伝えるアナウンサーがシャネル風のスーツにばっちり化粧というのも違和感がある。

彫刻家の佐藤忠良さんが三月三十日なくなられた。99歳だった。
宮城県黒川郡舞野というところで生まれたとあるが、宮城県丸森の人たちは丸森出身者だという。どういうことかな。尊敬する安野光雅先生が尊敬する芸術家なのできっと立派なひとなのだと思う。そういえば『大きなかぶ」という福音館の絵本は佐藤さんの絵だった。『若者たち』の佐藤オリエさんは忠良さんの娘さんだ。北海道で暮らし、シベリア抑留も経験したが、作品は宮城県立美術館にある。

丸森からは不思議な人が出ていて、詩人今野(こんの)大力なども引かれる人物だ。
「今野は、1904年(明治37年)に宮城県丸森町に生まれ、3歳のとき北海道旭川に移住。父母は馬車鉄道の待合所をかねて雑貨店を営みますが、貧しい中で弟や妹を出生間もなく失います。しかし、今野は、逆境にめげず、幼少のころから心やさしく、仲間たちからも慕われました。旭川時代から郵便局などで働きながらも向学心に燃えて独学に励み、17歳のころからは叙情性の豊かな作品で詩人としての才能が認められ、文学活動をつづけるなかで、民衆の生活への社会的関心をつよめていきます」

というのが赤旗2007・8・25日つけで出ていた。この前読んで感動したアイルランド文学『アンジェラの灰』を思い出す。1932年3月の大弾圧で捕えられた今野はなんと『駒込署』での拷問がきっかけで釈放されたものの結核が悪化し31歳でなくなる。宮本百合子『一九三二年の冬』『刻々』などにも描かれているという。読まなくては。

大槻文平という人も丸森出身なのだ。三菱鉱業社長、日経連会長というから今野大力とは真逆のひとだろう。丸森では評判は良くない。「大槻文平さんは郷土に冷たかった。どうにか丸森に企業か工場を誘致してくれとお願いに行ったら、そんなことより丸森はあの美しい自然を守って行くのがいいんだよ、といわれておしまいだった」。不満げな人の顔を見て私は噴き出した。どうみてもブンペイさんの方が正しい。

西日暮里在住のSさんからのメール。

いい季節がやってまいりましたのに・・・
故郷の風景がなくなったその淋しさは、
まるで失恋の悲しさ、苦しさです、まるで。
そして、今までのように深呼吸し、地の野菜も魚も貝も
心から楽しみ続けられるのでしょうか、この不安の暗さ、深さも
ただならぬものです。

この方は亘理出身。そういえば全生庵にお墓のある菅原克己も亘理の出身じゃなかったかな。たまたま出てきた『カサナグのフィリピン』というホームページから彼の詩を孫ペーストさせていただきました(このホームページも面白そう)。菅原克己を知ったのはもう20年近く前、西田書店の『遠い城』。ゲンゲ忌には行ったことはないのだけれど。

どんなに忍耐強く、
小さく、黙って、
人は生きてきたことだろう。
となりのおじさんは
こどもと二人ぐらしで、
勤めが終わると
こどものために市場で
魚や大根を買って帰る。
道で出会うと
大根を振りながら笑う。
ぼくが詩を書くのは
まさしく、
そのことが詩であるからであって、
詩が芸術であるからではない。
菅原克己
「ヒバリとニワトリが鳴くまで」より

震災日録 4月27日

2011年5月2日 月曜日

4月27日 権上さんからの情報

岸田衿子さんがなくなった。昭和4年生まれ、母と同じ年。
ものすごくユニークな方。芸大で油絵を学んだのに詩人だった。1ヶ月前くらいにも電話をいただいて、「すぐ来て、ピアノを弾いてちょうだい」といわれたのに。
谷中の高台におうちがあったがいることは珍しくて、北軽井沢か冬は湯河原にいた。かなしい。子供たちも遊んでもらった。そのときの衿子さんのくりくりいたずらっぽい笑顔を忘れない。彼女は八ッ場ダムにずっと反対だった、

尊敬する友人、権上かおるさんからきた有用な情報を今日は列挙します。

谷根千工房の後を借りていただいた市民科学研究室のHP。ぜひ。(3月24日)
http://www.shiminkagaku.org/

■放射能対策(3月24日)

●服装
フードの襟に毛皮が付いているものは、汚染物質がつきやすいので、ふちの毛皮部分は外して着用する
洗濯物は当面、乾燥機か室内で乾燥させる

●水道水の131ヨウ素汚染対策
妊婦さんと乳幼児の飲料用を優先して考えることを原則とする
ペットボトルを買い占める対応は慎む
1)活性炭、炭(シンプルな活性炭の浄水器、水に炭を入れておくなど)に
水道水を接触させて回収は、非常に有効 *
2)貯め置き 冷蔵庫でも冷凍庫でも可 ヨウ素は気体のキセノンになる
ヨウ素の半減期は8日間だが1日程度の溜めおきでもかなり減衰する
冷蔵庫や冷凍庫であれば、もう少し期間を延ばせるので 有効
3)煮沸で揮発性のもの仮に吸っても、飲むよりまし で 有効
4)中空糸膜浄水器 あまり ヨウ素には有効でない

炭素(炭や活性炭)とヨウ素は非常になじみがいい。1)2)3)の組み合わせで対応を。
*活性炭や炭が入手困難な場合、割り箸をアルミホイルにつつんで焼いて炭をつくりペットボトルの水にいれれば少しは取れるかも しれない
ただ、今回公表されたもの以外にも、様々な放射性核種がいろいろ検出されていますので、それらを含めて正しく評価する必要はあ ると 思いますが、まず退治できるところのヨウ素を除きましょう。

●雨の後
地表面の粉じんは、舞い上がり粉じんなりやすい。放射性物質がついているかもしれないので対策として、マスクを着用しましょう。

■放射能対策(3月26日)

政府が基準値以内だから水道水は即座に影響を与えることはないという際には、参照している基準値は緊急時に使用するものであ り、WHOの 基準値と比べれば30倍緩い、米国の基準値と比べれば3000倍緩いものだということを、伝えるのが本当の意味で  の対等なコミュニケーションのような気がします。

○[Bq/kg]の単位での比較
■I-131
-米国:0.1Bq/kg
-WHO:10Bq/kg
-日本:300Bq/kg

■Cs-137
-米国:7.4Bq/L
-WHO:10Bq/L
-日本:200Bq/L

*出典
-米国の基準値:以下のURLから入手できる資料の13ページの表に掲載
http://water.epa.gov/lawsregs/rulesregs/sdwa/radionuclides/compliancehelp.cfm
-WHOの基準値:以下のURLから入手できる資料の203ページのTable9.3に掲載
http://www.who.int/water_sanitation_health/dwq/fulltext.pdf
-日本の基準値:以下のURLから入手できる資料の27ページの表3に掲載
http://www.nsc.go.jp/anzen/sonota/houkoku/bousai200307.pdf

○[mSv/year]の単位での比較
-米国:0.04mSv/year
-WHO:0.01mSv/year
-日本:50mSv/year

*出典
-米国の基準値:以下のURLから入手できる資料の11ページの表に掲載
http://water.epa.gov/lawsregs/rulesregs/sdwa/radionuclides/compliancehelp.cfm
-WHOの基準値:以下のURLから入手できる資料の198ページに掲載
http://www.who.int/water_sanitation_health/dwq/fulltext.pdf
-日本の基準値:以下のURLから入手できる資料の119ページの付属資料12に掲載
http://www.nsc.go.jp/anzen/sonota/houkoku/bousai200307.pdf

○許容する影響の度合い
-US:Some people who drink water containing beta and photon emitters in excess of the MCL over
many  years may have an increased risk of getting cancer.
-WHO:発がん確率の10E-4の上昇
-日本:核種による周辺住民等の被ばくを低減

*出典
-米国の基準値:以下のURLから入手できる方法
http://water.epa.gov/lawsregs/rulesregs/sdwa/radionuclides/basicinformation.cfm
-WHOの基準値:以下のURLから入手できる資料の198ページに掲載
http://www.who.int/water_sanitation_health/dwq/fulltext.pdf
-日本の基準値:以下のURLから入手できる資料の27ページに掲載
http://www.nsc.go.jp/anzen/sonota/houkoku/bousai200307.pdf

○WHOと日本の基準の比較にあたっての留意事項
WHOの基準は、原発事故発生後一年以内は使用するなと要求している。原発事故発生後1年以内は、IAEAの1996やその他 のガイ ドライン値を使えとのこと。

for the first year immediately after an accident, generic action levels for foodstuffs apply as described
in the International Basic Safety Standards (IAEA, 1996) and other relevant WHO and IAEA  publications(WHO,  1988; IAEA, 1997, 1999).

なお、ここで引用されているIAEAの1996に掲載されている飲料水のガイドライン値は、以下のとおり。
■I-131
100Bq/kg
■Cs-137
1000Bq/kg
*出典
以下のURLから入手できる資料の289ページのTABLE V-I.
http://www-pub.iaea.org/MTCD/publications/PubDetails.asp?pubId=5202

■放射能対策(3月28日) 子供たちへの放射能の影響を防ぐために

丹羽博美さんが書いた文章のあるサイトです。こどもたちへいかに災害を伝えるかが、非常に具体的に記述されています。
http://noharajp.net/openforum/article/28

* 増田講演(11/4/2)

* 吉井質問

* 1980東電パンフ・期待に応える原子力

* 水産物の放射性物質の検査結果についてが出ました。(4月3日)
http://www.jfa.maff.go.jp/j/kakou/kensa/pdf/20110330_data_sheet.pdf

これによると銚子港で3月24日に水揚げされたカタクチイワシからRadioactiveCaesium(137-Cs) 3.0(Bq/kg)が
検出されました(基準値をオーバー).
カタクチイワシは回遊魚です.丁度,11月頃から5月頃までは,南下する親潮に乗って茨城県から千葉県沿岸を経て相模湾にやっ てきます.そして,食物連鎖の栄養段階(TL)が3なので,植物プランクトンー動物プラントンを経てカタクチイワシに移行したものか  直接海水から摂取したものと考えられます.早すぎるので後者ではないかと考えますが如何でしょうか.それにしても、保安院の海水 に出た放射線物質は拡散して薄められるとの見解は事実ではないと考えます.カタクチイワシは海洋食物連鎖のkey speciesで
す.いずれ、高次捕食者に移行することが予想されます.

■ NHKドキュメンタリー「原発導入のシナリオ ~冷戦下の対日原子力戦略~」(これすごく面白い、森)

原発は原爆を薄めるための「毒をもって毒を制す」原子力平和利用の話。
正力松太郎、読売Gの役割は聞いてはいましたが、映像で見せられると、ここまでかと思います。セリーグ(実質ジャイアンツ)が開催 日を遅らせるのに抵抗したこともわかる気がします。武谷三男氏も登場します。 配信サイト

■連絡(4月5日)
1)京大の今中哲二さんらが行った、飯舘村周辺での放射線計測のレポートがアップされました。

なぜ避難指示が出ないのかわかりません。
2)海洋汚染
拡散「最初は南北沿岸」仏が予測 仙台湾到達後、東西に
夕刊 読売新聞 4版1面
3)日本土壌肥料学会「情報:放射性核種(セシウム)の土壌-作物(特に水稲)系での動きに関する基礎的知見」
4)福島第1原発:東電、ベント着手遅れ 首相「おれが話す」
毎日新聞 2011年4月4日 2時33分(最終更新 4月4日 14時56分)
■情報(4月6日)
1はカット
2)上関原子力発電所(山口県)
ご存知の方も多いと思いますが、中部電力の予定原子力発電所で、4つの漁協のうち人口500人くらいの祝島の漁協が先祖から伝 わる海を売り渡すことはできないと反対の立場に立ち、長年建設できないでいました。
ところが、上野にパンダが運ばれた日に強制着工を開始し、今日現在(4/6)島民より多い人数を投入して、発破作業を行っている そうです。この反対運動の記録映画が東京では現在、新百合ヶ丘、16日から渋谷、あとで東中野で上映されます。
素晴らしい映画で、東京の映画館で終わると満場の拍手が起こるそうです。機会がありましたら是非ご覧ください。
東京電力もこの期に及んで、3月31日に福島第一7,8号炉の建築計画を県に提出し、県から突っぱねられているそうですが、電力 会社の体質は一向に変わらないようです。 映画のオフィシャルサイトです。
3)福島第1原発事故、昨年議員が同様な事故の可能性警告
2011年 3月 28日  16:52 JST
この吉井議員が本日質問に立ったそうです
衆議院TV
*「経済産業委員会」をクリックしてください。
4)東京都が4日付けで水の汲み置きのすすめを掲載

■4月12日
本日レベル7にあがり、いっそう不安感を持ったことと思います。しかも解決への道のりは全くと言っていいほど知らされません。

1)上記と関係あるのかどうかですが、

東大の原子力工学者(事故直後によくNHKに出ていらっしゃった関村氏ほか8人)が、福島原発の現状と今後の見通し?に
ついて、ウェブで見解を公開しました。なんと4月11日のアップです。なんでこんな遅く!専門家なんだからもう少し早い対応を!
と思うのは私だけではないでしょう。
http://sites.google.com/site/nuclear20110311/
以下は、増田善信さん(気象学者・広島の黒い雨の雨域を調査・原爆症裁判証人でもあります)の急いで
書いていただいた批判です。

「事故の経緯と今後の可能性について」という表題であり、「どのように備えるかを含め、とりまとめを試みたものです」というから、もっと 具体的な解決法が提案されるのかと思ったが、せいぜい以下のことが唯一の提案のようです。

・γ線空間線量率の把握のみならず、固体放射性物質からのα線、β線の検出と核種同定や中性子検出を行えるモニタリング箇所を 追加することを含めて、モニタリング体制を強化する

・仮に「ドライベント」や「水素爆発」がおこった場合には、モニタリング情報を公表、共有することによって、屋内退避等の措置をとる べきかについて、原子力安全委員会が定める基準等に基づき、速やかに判断できるよう適切な情報を得られるようにする

・モニタリングポイントを増やし、モニタリング情報を公表するというのは徒然ですが、将来ではなく今すぐやる必要がある。以下問題 点を列記すると

1,事故との関係で「燃料プール」が問題になっていたが、そのことがまったく触れられていない。

2,3号機はプルサーマルであることも触れられていない。

3,水漏れが続いているのはどこかに穴が空いているからで、それを塞ぐことが最優先されるべきだと思うがまったく触れられていな  い。一体どうしたら冷温安定化すると思っているのだろうか。

4,放射能の問題でいえば、原子炉の中の放射能の量は今までの運転履歴によって大まかに予測されるはずである。その数値さえ   だしていない。あるいは出すことを要求していない。もし水蒸気爆発などで放射能が出るとすると最大どれだけの放射能が出る    か、その総量を出して、最悪の場合を想定すべきだと思うが、一切なされていない。

5,終息するまでの時間はどのくらいを考えているのか。それによって、注水した水が敷地内に溢れる可能性があるが、そのことにも   まったく触れていない。

これが原子力の専門家集団の見解とは驚きです。

■4月17日

ようやく本日東電から6~9カ月の見通しが発表されましたが、シナリオ通り行けばいいのですが。

●東京電力「福島第一原子力発電所・事故の収束に向けた道筋」

http://www.tepco.co.jp/cc/press/11041702-j.html

1)添付PDFは、増田先生が気象庁のホームページからとって、等値線を描いたものです。最高値47.5マイクロシーベルト/時間の 地点は、100時間で4.75ミリシーベルト/時間ですから環境基準は25時間でオーバーするという強さです。すなわち、ここに1日い  ると環境基準をオーバーします。しかし、カリフォルニア大学サンタバーバラ校の教授のがんの発生リスクは1シーベルト/年ですか  ら、まだ3年近くここに滞在したときにやっとそのリスクの値になるのです。気象庁は自動的に天気図の等圧線を描くプログラムを持っ ているのですから、等値線を描いた図を公開すればいいのにと、先生は思っておられます。

2)増田図をいただいた後に以下がありました。ほぼ傾向は同じと感じました。

放射線量分布 北西へ飛散裏付け 福島大が地図化/2011年04月14日木曜日河北新報
http://www.kahoku.co.jp/news/2011/04/20110414t63010.htm

3)シイタケ出荷停止
池上先生(大妻女子大学名誉教授)のお話にも、野中先生(新潟大学農学部)の中にも、しいたけは放射性物質をなぜか蓄積しや すいのお話がありました。原木栽培は特に注意ですね。

福島県、地域設定に疑問 露地シイタケ出荷停止指示/4.15河北新報
http://www.kahoku.co.jp/news/2011/04/20110414t61014.htm

露地シイタケ出荷停止 福島東部16市町村産/4.15河北新報
http://www.kahoku.co.jp/news/2011/04/20110414t61013.htm
4)ポスト原発
今後、「原発をなくせば、エネルギー不足になる」に対応することが必要です。

*風力・太陽光エネが原発を逆転 福島事故で差は拡大へ

2011.4.16 共同通信配信で、「米シンクタンク‘ワールドウオッチ研究所’が、2010年の世界の発電容量は、風力や太陽光などの 再生可能エネルギーが原発を初めて逆転したとする世界の原子力産業に関する報告書を 原発は、安全規制が厳しくなったことや 建設費用の増加で1980年代後半から伸び悩み、2010年の発電容量は3億7500万キロワット。一方、再生可能エネルギーは地
球温暖化対策で注目されて急激に増加し、風力と太陽、バイオマス、小規模水力の合計は3億8100万キロワットになり、初めて原  発を上回った」といくつかの新聞社が報道しました。元の具体的データを探しましたが、行き着きませんでした。

■4月26日

1)新潟大学土壌学のHP

1960年代に行われた「放射性降下物の土壌ー植物系における汚染とその除染に関する研究」について、当時研究された先生   (83歳・存命のただお一人の方)の許可を得て、野中研究室のブログで随時公開されています。野中先生のコメントもていねいに説 明いただいています。(これは是非ご覧ください--森)
http://blog.goo.ne.jp/soil_niigata

2)校庭などの活動時間の指針を文科省が発表しましたが、放射線管理区域よりも高い濃度を許容するものと各方面から非難の声  が上がっています。以下、(電子)署名活動も瞬く間に3万筆以上が集まっているそうです。

【署名】子どもに「年20ミリシーベルト」を強要する日本政府の非人道的な決定に抗議し、撤回を要求する

http://blog.canpan.info/foejapan/daily/201104/23

3)東京の降下物中の放射性物質、過去50年とこの1カ月がほぼ等しいという結果です。

表から集計したところ、1957年から2010年までの核実験由来のセシウム137の東京都における降下物量の合計は、
7,043Bq/m2でした。

以下のサイトから、上記の集計で使用した表を入手しました。
http://search.kankyo-hoshano.go.jp/top.jsp

また、上記の原典からデータを取り出して集計していると思われる記事は以下にもありました。
以下の記事では、1957~2009の東京の合計で7,095Bq/m2と集計しています。

http://smc-japan.sakura.ne.jp/?p=1428

2011年3月20日から4月23日までの35日間でみると、東京都新宿区においるセシウム137の降下物量の合計量は
6,901Bq/m2です。したがって、東京においては、過去50年間に降下したセシウム137の量と、福島原発事故以後から現在ま での35日間で降下したセシウム137の量がほぼ同じということになると考えられます。

個人的な情報提供は削除しましたが、これだけでも戦慄すべき情報が満載です。

震災日録 4月26日

2011年4月28日 木曜日

まだ冷蔵庫もない、自炊すらできない、こんな避難所があるということを知っていただきたいと思う。

「4月22日の大塚モスク被災者支援18便の報告より
10時21分、チキンと野菜のカレー150人分、牛乳(1L)36本、お菓子類を積み、出発しました。
途中、道路は所々ひび割れしていたり、段差が続きました。
12時54分、いわき芸術文化交流館アリオスに着きました。入り口には、ダンボールで囲い休んでいる人がいました。上階は囲いなどなく、それぞれ毛布が敷いてあり座っている人が多くいました。職員もそこにいました。福島県、いわき市、長崎県の職員が在籍していました。話を聞くと、避難所には130名いて、子どもは20名ほどとの事でした。お風呂は、近くに銭湯があるのと、自衛隊によるお風呂までの送迎巡回バスもあるそうです。
炊き出しで要望のあったのは、八宝菜丼、シチュー、肉と野菜の味噌汁など、野菜が多く入っているものでした。普段はおにぎり、パン、カップスープなどを食べていて、自分たちで作ることは(規定で煮炊きが禁じられているので)していないと話されていました。冷蔵庫もないため、野菜ジュースなど常温保存がきき、小さなパックの物が助かるとの事です。果物は単独で渡すよりも、炊き出しの付け合わせとして出されると嬉しいとの事でした。

次に、津波被害が大きかった小名浜港を通り、江名小学校にお菓子を渡しに行きました。この避難所には150名の方が暮らし、子供は15人ぐらいとのことでした。高台にあるこの小学校にも津波が押し寄せてきたとの事です。家庭科室は他の避難所の方たちが利用していて、ここではテントでプロパンガス釜が使えるようです。朝食はパン、おにぎり、ビスケット、昼食、夕食はおにぎりと味噌汁を食べているとの事でした
。高齢者が多く、体育館の中では2つのストーブと毛布2000枚で暖を取っていました。ここでもダンボールなどの仕切りがなく過ごされていました。職員に聞くと、みんな近所の人たちだからうまくやっているとの事でした。今月27日にカレーの炊き出しを約束しました。中学2年生の男子は、カルピスが飲みたいと元気に話していま
した。17時ごろ、炊き出しをするアリオスに戻りました。
避難をしている方と話をし、その間も地震があり、「怖いねぇ、1年は続くみたいだよ」と不安そうに話していました。夕食の時間になり、カレーを配りました。職員が鍋を温めてくれ、地元のボランティアと一緒に配膳しました。「美味しかった」ととても好評でした。

次に3箇所目の避難所、福島県立平工業高等学校に行きました。ここは130人が滞在しており、昼間は学校などに行く人がいるので、日中は1/3程度の人がいるとの事です。こちらもお風呂は自衛隊による送迎巡回バスがあるそうです。
80%の方は家が全壊し、20%の方は家が半壊したとの事です。浪江町から原発のために避難して来た高齢の女性は、私たちが行くと笑顔で迎えてくれました。何が食べたいかとたずねると、カレーと話してくれました。
19時10分ごろ、避難所を後にし、帰路に着きました」

マスコミが避難所の静穏を乱しているとも付記されていた。ニュースで見るとNHKは停電中もライトをつけて夜の避難所のなかを撮影していた。何人ものお年寄りがまぶしがって、手をかざしたのに。私は避難所のなかは昼間でもほとんど撮れなかった。テレビ局のクルーは5人掛かりで撮っていたけど。

今日は浜中佐知監督『百合子、ダスヴィダーニャ』の完成試写を西麻布に観に行った。
映画はよかったけど、いま表参道、西麻布を歩くのはつらい。まえからこけおどかしと過剰包装の町だと思ってきたが、いかにも業界人といった感じの人々、ブランド品を持った若い女性、装飾的なショウウィンドウを見ていて頭が痛くなった。神保町で降り、古書店とラーメンやの中を歩いて少し落ち着いた。
やっぱり東京はおかしい。

震災日記 4月25日

2011年4月28日 木曜日

むかし不忍池の地下駐車場反対運動をしていたとき、不忍池周辺の地質についていろいろ教えてもらった方からメールが来た。彼は地球科学研究者である。

「まだ房総沖のプレート沈み込み部分の破壊が完了していないかも知れません。連動せずに収束してくれることを祈っています。また、フィリピン海プ レートに連動して東海-南海道で地震が発生しないことも、です。過度な心配は不要ですが、警戒を緩めないでください」(3・18)

「3月11日発生の大震災、東電の責任が追及されていますが、我々地球科学関係者 も同じく大きな責任を負っています。遅くとも2007年には今回のような大津波(貞観津波)の存在が知られていました。なぜそれが防災政策に活かせなかったのか、悔やんでも悔やみきれません。津波によるスマトラの惨状を我々は知っていたのに、です。先週月曜日の内陸地震でいわき市に出現した地震断層の調査のために線量計(放射線用)を携行して現地に行きましたが、その際、小名浜の津波被害現場にも足を運びました。TVの映像での認識を遙かに越えた惨状に茫然とし、そしてただただ「申し訳ない」とつぶやく以外になすすべがなかったのです。現場では大量の家財道具、水を吸った衣類などが放置され、上空を舞う騒がしい烏の群れが我々をあざ笑っているかのごとくでした」(4・17)

なかなか,地球科学研究者の声を聞くことはないので、大事なことだと思う。

地震予知連絡会なども責任は逃れまい。その自覚はあるのだろうか。

ここに出て来るスマトラ島沖地震は2004年12月26日マグニチュード9・1。インドネシア、タイ、インドでも津波でたくさんの死者が出た。インドでは12000人(行方不明をのぞく)。
私はその翌年、インドを訪れ,オーロヴィルという海辺の村でツナミカという小さな人形に出会った。これは漁師の夫を流され、悲しみの底にいた妻たちに、あるデザイナーの女性が提案したものである。余り切れを使って小さな人形を作ろう。一緒に手を動かし,泣き,笑いながら。これがそれまで夫に依存して生きていた女性たちの自立を促すプロジェクトになった。私はこれを買うのではなく、募金していただいてきた。いまピースボ-ト経由で2万のツナミカが日本に送られたという。すごくきれいなサイトです。ご覧ください。
http://www.tsunamika.org/

震災日録 4月24日

2011年4月26日 火曜日

今日は疲れ果て、歯も浮いて一日家で原稿書き。
サトコはきょうはアースデイに行ったそうだが八ツ場ダムのことを訴えても、今年は反応が悪かったとか。前原大臣が中止を訴えたのはたった1年半前なのに。
デモに行った荒川さんによると参加者は4500人、3月27日が1000人だったから確実に増えている。今アップ準備中。
高円寺のデモも撮って来た人がいるがアップ準備中。これもいくつか出ているが撮る角度、興味、どの位置で撮るかに寄ってまったく違うデモのように見える。
主体がどこにいるのか、は重要なことだ。

ヤマサキは団子坂シネマのアンコール上映で、一日蔵で映画ざんまい。
最後はスウェーデンのドキュメンタリー『脅威』。1987年のチェルノブイリの事故の後、爆発して大気中2000メートルの高さに登った放射能は3000キロ離れたスウェーデン北辺のラップランドを襲った。

「自然を預かっている」「自分のことよりまず自然を、動物のことを考える」というラップの人々はトナカイの群れを追い、必要なだけトナカイを屠殺して、その皮を用い、肉を売り、かつ食べている。しかし事故の後、最初に穫ったトナカイは75%廃棄。3度目のはすべて廃棄。トナカイは核廃棄物となったのである。

今年東北で育てる米や野菜もへたすると核廃棄物になるかもしれない。そのことへの怒り、そして東京ではまだ食物が充分にあるかのように錯覚していることの不思議さ。

金があるんだからから輸入すればいいや、と思うかもしれないが、そうするとただえさえ食べ物のないアジア、アフリカの食糧を強奪することになる。
「日本は食物に苦しむ国になる」と佐藤忠吉さんも結城登美雄さんも言っていた。

夜中、地方選結果でる。台東区長に土建開発主義の保坂三蔵がならなくてまだしも。
さまざまな煮え湯を飲まされたが、とくに保存を前提の池之端茨城県会館を裏で動いて久保工に落とし、その久保工は蔵だけ残して後は有料(一泊二万五千円)老人ホームを新築、しかも売り逃げ、というひどい事態を招いたことは忘れない。保坂は菊祭りでこれを自分の手柄に数えて自慢していたのだから事実なのだ(谷根千をやめたのでやっと言える)。

文京区長選は小竹さんが善戦、世田谷区長選で原発の見直しを訴えた保坂展人(同じ保坂でもずいぶんちがうものだ)が勝った。世田谷区民はさすがだな。

岐阜の世界遺産白川村ではこの前行った時、富山空港へ迎えに来てくれた教育長の成原さんがなんと村長選に出て勝ってしまった。あそこも行った人のほとんどが言うように観光金儲け主義が跋扈している。国の金で修復した民家を使って民宿、食堂、土産物屋で何千万も億も売り上げる住民がいる一方、ちょっと外れた農業者は100万ちょっとしか収入がないとか。母と妻が観光業者である公務員が「誰かちゃんと儲ける人がいないと日本はまわっていかないでしょう」と公言するのを聞いていやな感じがした。そんな格差村の是正が課題だと思う。

震災日録 4月23日

2011年4月26日 火曜日

21日の福島の人々による文部科学省交渉の記録がすでにアップされていてそれを見る。若手官僚の対応が実にひどい。何もわかっていないのか、わざとはぐらかしているのか。
子どもの安全基準、根拠不透明~市民の追及で明らかに
映像ドキュメントでも編集中。

これについて
正気を疑う文科省の学校線量基準-合原亮一
【緊急声明と要請】子どもに「年20ミリシーベルト」を強要する日本政府の非人道的な 決定に抗議し、撤回を要求する
子どもに20ミリの撤回を要求する要請・署名フォーム

川原理子の報告

――21日に、参議院議員会館で、喜多野さん、吉川さんと、「文部科学省・原子力安全委員会交渉 子どもに年20ミリシーベルトの安全基準を撤回せよ」を取材してきました。

文科省が、福島県内の小中学校や幼稚園、保育園などで、被曝量が年間20ミリシーベルト(毎時3.8マイクロシーベルト)を越しそうな施設に対しては、屋外での活動などをひかえてほしい、という知らせに対して、市民団体側からどのような方法、根拠で年間20ミリシーベルトまでは大丈夫という安全基準が決められたのか、子どもは大人より放射線の影響を強く受けるというが大丈夫か、内部被曝のことは考えているのか、などの質問がでましたが、文科省の人は、質問を「持ち帰って」ばかりですし、安全委員会の人は、「文科省から20ミリシーベルトでどうですかと聞かれて、会議も開かず、2時間で決め、方向性は聞かれる前から決まっていた」と言いました。
そして、「でも、決定したのは、わたしたちでないですから」、と逃げ(?)たので、おどろきました。しかも、となりに文科省の人がいるのに。

やむをえないといって、「苦渋の決断の顔」をしてみせながら、第一原発の作業員の被曝限度量を100ミリシーベルトから250ミリシーベルトに上げたけれど、こんどは、「子供たちの被曝をできるだけ少なくする」といいながら、1ミリシーベルトから20ミリシーベルトに上げました。

福島第一原発の事故後、福島県の各市町村で放射線量が測定されていて、積算の放射線量としてそれを足していたのですが(作業が遅く間に合いませんでしたが)福島県内7方部 環境放射能測定結果(暫定値)福島県・環境放射能測定結果・検査結果関連情報
福島県放射線モニタリング小・中学校等実施結果
福島県・ 小中学校等モニタリング

各学校で測定された放射線量は施設ごとに多少差があり、継続して測定していたものより数値が高いところもあるようです。測定値が、校庭など、土の上だからでしょうか。――

官僚用語。「ご案内の通り」「その件につきましては存じておりません」「調査して参る所存でございます」今頃何いってんだ、ぼけ!

昼から白山ルームで木崎さんと映像編集。『ダムとわたし』映画祭で上映した大西暢夫監督『水になった村』のお話、いま原発に騒いでいる世の中からはちょっと遠い話かなあ、と思ってもう一度見たが、まさに原発と同じであった。静かな暮らしをしている過疎地に突然、自然を改変する巨大計画が持ち上がり、合意形成もないままにボス(首長や土建業者やえらいさん)が電源立地などのうまい汁を吸うため、計画に乗ってゆく。

そうして山の恵みで豊かに暮らしていた人々はふるさとを追われ、隣人を失い、スーパ-で野菜を買い、ついには孤独死する。もう体は土に帰れない。

大西監督の話はもうすぐアップします。この日、誠之小学校の小さな同窓会、さっと8人も集まりやんちゃ坊主に戻った。わたしたちはまだふるさとを失っていない。

震災日録 4月22日

2011年4月26日 火曜日

耳鳴りがひどい。嬉しいことは石見銀山の群言堂の松場登美さんからどっさり衣類が届いたこと。古着だけどきれいに洗ってあった。私が本をなかなか捨てられないように、デザイナーの登美さんは服が捨てられないのだと思う。「古着を送って失礼かと思いますが」とあったが、なんのなんの。群言堂ファンだけどなかなか買えない人は多いのだから、大事に着た服をこんどは大事に受け継ぎます。さっそく活動に協力している仲間たちに配る。

支援物資は新品に限る、とあるのだけどいつも古着しか着ない私は新品を買ってまで送る、ということに抵抗感がある。阪神淡路の際、ぼろぼろの古着を送る人がいて被災者の心を傷つけたからというのだが。かとおもうと被災地では気に入りの服にメッセージを付けて送って来た人、学校で着るジャージの名前のタグにメッセージを書いて送って来た人への好感を語っていた。思いが届けば、心がつながれば古着でもいいのではないだろうか。被災地で何が必要ですか、ときいたら「マットの毛をとるコロコロがほしい」「学校が始まるので体育館にいる私たちは耳栓とアイマスクがほしい」という声もあった。
夜、幼稚園からの友だちキョウコちゃんに会う。彼女はお母さまの介護で大変。「家を流された友だちに何がほしいと聞いたら喪服がほしいって。あした送るの」。これも現地が想像出来た。すべて流されたけれど、お葬式には黒い喪服がほしい、という気持ちが。被災地では瓦礫の処理をしながら、お葬式もたくさん行われているのです。

震災日録 4月21日

2011年4月26日 火曜日

今日は面川さんのお米、今日は大内さんのお米、今日はサトコが座間で作って居るお米、今日は鳴子の米プロジェクトのお米と毎日炊く米が変わるのでヒロシは「うちッて米の品評会場?」と驚いている。どれもおいしいよ。前は「なんで私だけ、仕事もして子育てもして家事もしなくちゃならないの?」と腹を立てていたが、いまは家族のために料理するのがなんだか幸福に思える。避難所にいる人々はそんな平凡な日常すら剥奪されているのだ。

自分の畑からとって来た最後のジャガイモがなくなった。このところ備蓄食糧はあらかた食べ尽くした。家に買ったまま忘れているまめやキクラゲやゴマや唐辛子やウーメンやこんぶがこんなにあったのはびっくり。行った先でお金を落とそうと買ったものもあるけど、それにしても始末が悪い。
白山に安い八百屋ができてすごい人だ。産地はそれぞれ銘記してあるが、中国産野菜もずいぶん置いてあるし、どれだけ新鮮で安全かよくわからず。私の畑は無農薬無肥料だったから抜いて泥さえおとせばそのままかじれた。あれもしあわせのひとつだった。

東北で仕入れて来た米、酒、こんぶ、若布、味噌をどう売るか。これも意外に大変。たとえば農家にしてみれば、5キロでも2キロでも袋詰めの手間は同じなので、5キロが主流である。しかし東京で一人暮らしだと米の2キロ買いが普通。5キロの米を運ぶには少なくとも自転車がいる。農家はたいてい自家精米機があるから玄米で売るのがあたりまえ。しかし東京で自宅に精米機を持っているひとは少ない(うちにはあるけど)。だから白米で仕入れて来たのだけど、白米はそう鮮度が持たないので早く売らなくてはならない。

米は現地で5キロ2500円で仕入れた。これは土からつくった無農薬米だから安い。安全な食品を流通させる会などでは4000円クラスのお米。しかし東京では5キロ1800円くらいの米も出回っているので、高く感じるひともいるだろう。なおかつ2500円で売ると、ガソリン代、高速代、レンタカー代などは足が出る。これは行きの別のミッションのためのものだからいいとして、買って来た米をおろし、自宅まで上げ、またおろしの手間が大変だった。ものを売ろうとすればこういう労力や倉庫代のことも考えなくてはいけないのだな。とにかく今回はヤマサキ、安田邸、光源寺、はてなさんなどの協力でどうにか売り切ることができそう。わかめとこんぶは飛ぶように売れたらしい。ありがとう。

明治学院大学の連続講座で荒川さんが「ドキュメント・チェルノブイリ」を上映するので行く。そのあと平和研究所で震災と原発を記録するチームを立ち上げる。そこで角田の米農家面川さんの息子常義くんがいっていた。「東京では原発のことばかり騒いでいる。被災地では生きるだけでぎりぎりなのに。とっても違和感がある」と。私のところにも「原発に近い所ではみなどんなマスクをしていますか」と聞いたひとがいた。瓦礫処理する自衛隊員はもちろん防塵マスクをしているが、南相馬や新地でも住民はマスクなどほとんどしていなかった。それどころではないのだ。面川さんはことしも作付けをするそうだ。「海沿いの田んぼが全部やられたのに角田で米をつくらなかったら宮城は食べる米がなくなる、と父はいっています」と面川くん。正しい判断だと思う。

震災日録 4月20日

2011年4月25日 月曜日

朝早くから区議選の候補者が回ってくる。「未来を作る子供たちのためにがんばります」「安全で安心な暮らしのために精一杯はたらきます」。内容のない空疎なことを拡声器でがなりたてている。

東京駅の古材のスレート瓦を引受けた熊谷産業社長熊谷秋雄さんはクマちゃんと呼ばれている。ほんとテディベアそっくり。でも私もクマちゃんと呼ばれているので兄弟かも。
彼とは10年以上前に一諸にイギリスの茅葺き屋根やナショナルトラストを観に行った。その頃彼は30代だったはず。ものすごく口が悪くて「森さんは運動は上手だが文章は下手」とかね。絵本とマンガを宮城に届けにいった、と言ったら「まさか、森さんの本じゃないでしょうね」。抗議すると「本当のことをいうひとが必要ですよ」と口が減らない。トラストの山本玲子さんも工学院の後藤治さんもイギリスには一緒だった。クマちゃんは民俗研究家・結城登美雄さんとも親しいし、いろんなネットワークが今日のためにできていたようなのだ。

JR東日本にいったとき、「重要文化財と言っても工事はうちがすべて費用を出している。補助金などは一切もらっていない」といわれた。暗に「私企業が独自でやる工事に差し出がましいことを言うな」ということらしい。石巻の現場に視察に来た時も瓦寄進などイベントはやめてほしい、と言ったとか。しかし東京駅が建った時は国有鉄道だったし、東京駅も国の財産だったはず。一等地をどでんと占有して南北行き来のじゃましているのも公共的存在なので許されているはず。しかも駅舎保存は丸の内の他のビルに容積率を移転して、つまり元国有地の空中権を売っぱらって駅舎保存の建設費を出しているんではないか。駅とは公共材、コモンズのひとつでしょうに?

NTTも千駄木の本来国有地であったところにマンションを建てて売り飛ばしているし、駅前には密集市街地に巨大情報サーバービルを建設中だし、ほんとうに民営化って何だったのだろう。井上ひさしさんがご存命あったらなんておっしゃるだろう。
NTTについても東京電力とおなじ大スポンサーのため、マスコミは東京新聞をのぞいて報道していない。東京新聞、原発についてもよくやっているな。

東京新聞(4月16日)は駅舎を「復興のシンボルに」と書いたあと、デスクメモで「『ご利用のお客さまにはご不便、ご迷惑をおかけしております』。JR東日本のホームページは慇懃無礼だ。地震や計画停電で客を駅から閉め出し、振替輸送も定期券の2割払い戻し(五日未満)もしない。『なにとぞご理解、ご協力をお願い申し上げます』という前に、誠意を見せてほしい」と書いている。
正論だ。11日には早々に終日運休を決め、コンコースも閉じてしまった。都営地下鉄が一番復旧が早かったと覚えている。
コンコースをはききよめ、寝袋を配って、帰宅困難者をお世話するくらいのことはやるべきだった。インドの駅構内なんて巡礼者に開放してみんな床に寝てますよ!

都市ジャーナリストから来たメール。

「私は14~15日に仙台からいわき市まで行ってきましたが、JRは常磐線のいわき-仙台間が完全復旧するのを断念すると推察します。
 三陸沿岸の不採算路線も同様です。
 こうした社会的責任に背を向けるJRに対して、募金で支えるより、姿勢を改めさせることが優先すべきだと思います」

全国の鉄道ファンよ、いまこそ動いてください。絶景路線ももう絶景が見られなくなるかも!

震災日録 4月19日

2011年4月25日 月曜日

5時に寝たのに8時に起きてしまった。なんだか不眠症。
どの御手洗いも使えない、という夢を見て目が覚めた。避難所の御手洗いは多く故障中だったから。お礼や報告に一日追われる。これ、ブログでなく日記になっているな。でも原田病のため、記憶がどんどんこぼれ落ちてゆくので、書き留めておこう。
昨日、お米を仕入れた面川さんの息子常義くんからメール。大学生だが帰って農家を継ぐつもり、一緒に東北の記録をしようと約束した。

森さん
 この間父が山元町に消防団の応援に行き、その時の写真を見せてもらいました。
 そこには建物などそこにあるべきものが何もなくたってしまった瓦礫だけの空間が写っていました。
 もうこれではいくら復興しても、もとの街の姿には戻れないでしょう。
 ですが森さんが書いていたように、その人の心のなかにある思い出や風景を記録していくことは、ものすごい意味を持ってくるのだと思いました。
 私もそれこそ5年10年のスパンで、震災を受けた人たちが復興に向かって立ち上がって行くさまを記録し伝えていけたらと思っています。
 それに加えて、自分が志している農業の有り様も伝えたいです。
 今実際に家の手伝いをしているのですが、この震災の後でさえ、季節の流れに逆らうことなく、その時にやるべき事を淡々とこなしている。
 それこそ想定外など言い訳も言わずに。
 そこにあるのは、人の生きる糧をつくる誇りなのだと思います。

すてきな文章だと思う。私たちは谷根千・記憶の蔵という活動拠点を持っている。
アーカイブとは穴蔵、貯蔵庫、記憶のドラム缶、あるいは人々の涙の壺なのだ。
東北の失われた記憶。壁のしみも、背を測った柱の傷も、大黒柱も、松林も、大漁旗も、コンバインも失われた。雄勝支所には拾われた御位牌やアルバムが並んでいた。
昔映した集落のお祭りやお花見の映像も集めなくてはならない。NHKにはいっぱいあるはずだ。みんなの視聴料で映したものだからみんなに返せ。地域に返せ。それが地域の肖像権というもの。八ミリも集めよう。お年寄りの記憶を紡いで、絵図も作ろう。

JR東日本は東京新聞によれば「始めから国産材を使うつもりだった」とのこと。JVが悪者にされている。中受けとはつらいもんだな。12日の段階でゼネコンの人からメール。

「要望書を早く出したほうがよいとおもいます。
発注者からの指示はとても強いものですから早いに越したことはないとおもいます。
ゼネコンは工期どおりにつくることを何よりも大切にしますからリスクはとりたがらない。
また、屋根はだいぶ出来ているから、すでにかなり昔のスレ-トは使われているのかもしれません。
地震で被害にあった東北を助けるという意義のほうが大きいのであればより、早いほうがよいし、JRに要望を出すことが重要です」

一日工期が遅れると5000万、などという話も別口で聞いた。これ、脅しとしか思えない。どういう計算なの? 原発止めると夏クーラーがつきませんよ、日本経済がだめになりますよ、と言っている連中と同じ発想。これからの世の中まだ、この方式でいきていけるとおもっているのかな。
そう言えば神宮寺の和尚からメールがずいぶん前にきた。

「現行日本のさまざまなシステムの中には、この地震・津波・原発事故によって崩壊するものが出るかもしれません。
ここ数年、何かわからないけど感じていた、閉塞感や、それに伴うイライラが、この
地震によって頂点に達し、同時に、パラダイムの大転換が始まる予感がするのです。

身内感覚優先で他を顧みない既成の組織(政党や行政機関や東京電力、はたまた、相撲協会や仏教界などなど)が生き残りをかけて表出していた、なんとも言えない、いやな閉塞感が、ここ数年あったような気がします。それらが今回の震災で大きく変わる、あるいはつぶれていくような気がしてなりません。
歴史を見ても、大事故や大災害、それにともなう大量死は、社会体制や宗教、文化を大きく転換させています。
そんな視点でこれからの推移を被災地から見ていきたいと思っています。
4月2日 高橋卓志」

そのとおりではないか?高橋和尚はこんな活動をしているらしい。

「13日に福島・川俣町に入り、20日から26日まで諏訪中央病院の医師たちと南相馬の市民総合病院のお手伝いをしていました。
鹿島、新地の避難所にも通い、凄まじい被害の実態と、避難している人々の闘いを目のあたりにしています。
その後、28日から石巻へ。東北人になったみたいな感じです。
1991年1月、鎌田實とチェルノブイリに入って20年になります。そのコンビが
久しぶりに復活しています。
20年間続けたチェルノブイリへの支援から得たものを、行政や市民、そして医療関
係(南相馬市民総合病院)とシェア しようと……」

やることがはやいなあ。見習わなければ。