震災日録 4月28日 今野大力と菅原克己

英王室の王子の結婚式をうきうきと伝えているNHKの女性キャスターおよびアナウンサーたちはひどすぎる。「こんな時だから明るい話題を」なんていうおちょぼ口のディレクターに糸を引かれているのだろうが、「若い世代にも王室の支持が広がっています」なんていうコメントは意図あるものとしか思えない。原発の意図ある報道を見すぎてからはなにもかも疑ってかかる自分がいる。
自分が美人で賢げだと信じきって、深い思いもなく口先だけでペラペラと話すアナウンサーが多い。さかしらというのでは。勝間和代という人の話し方もそうだ。過剰な敬語と理論的厚化粧のぶん言葉数が増えるからやたら早口になる。
ものいえばプチブル寒し初夏の風
ってやつだな。
アナウンサーのJALのスチュワーデスみたいな、片足半分だして両手をお腹の前で組むスタイルもやだなあ。一方で着のみ着のまま体育館でマスクしている人たちの日常が写し出され、それを伝えるアナウンサーがシャネル風のスーツにばっちり化粧というのも違和感がある。

彫刻家の佐藤忠良さんが三月三十日なくなられた。99歳だった。
宮城県黒川郡舞野というところで生まれたとあるが、宮城県丸森の人たちは丸森出身者だという。どういうことかな。尊敬する安野光雅先生が尊敬する芸術家なのできっと立派なひとなのだと思う。そういえば『大きなかぶ」という福音館の絵本は佐藤さんの絵だった。『若者たち』の佐藤オリエさんは忠良さんの娘さんだ。北海道で暮らし、シベリア抑留も経験したが、作品は宮城県立美術館にある。

丸森からは不思議な人が出ていて、詩人今野(こんの)大力なども引かれる人物だ。
「今野は、1904年(明治37年)に宮城県丸森町に生まれ、3歳のとき北海道旭川に移住。父母は馬車鉄道の待合所をかねて雑貨店を営みますが、貧しい中で弟や妹を出生間もなく失います。しかし、今野は、逆境にめげず、幼少のころから心やさしく、仲間たちからも慕われました。旭川時代から郵便局などで働きながらも向学心に燃えて独学に励み、17歳のころからは叙情性の豊かな作品で詩人としての才能が認められ、文学活動をつづけるなかで、民衆の生活への社会的関心をつよめていきます」

というのが赤旗2007・8・25日つけで出ていた。この前読んで感動したアイルランド文学『アンジェラの灰』を思い出す。1932年3月の大弾圧で捕えられた今野はなんと『駒込署』での拷問がきっかけで釈放されたものの結核が悪化し31歳でなくなる。宮本百合子『一九三二年の冬』『刻々』などにも描かれているという。読まなくては。

大槻文平という人も丸森出身なのだ。三菱鉱業社長、日経連会長というから今野大力とは真逆のひとだろう。丸森では評判は良くない。「大槻文平さんは郷土に冷たかった。どうにか丸森に企業か工場を誘致してくれとお願いに行ったら、そんなことより丸森はあの美しい自然を守って行くのがいいんだよ、といわれておしまいだった」。不満げな人の顔を見て私は噴き出した。どうみてもブンペイさんの方が正しい。

西日暮里在住のSさんからのメール。

いい季節がやってまいりましたのに・・・
故郷の風景がなくなったその淋しさは、
まるで失恋の悲しさ、苦しさです、まるで。
そして、今までのように深呼吸し、地の野菜も魚も貝も
心から楽しみ続けられるのでしょうか、この不安の暗さ、深さも
ただならぬものです。

この方は亘理出身。そういえば全生庵にお墓のある菅原克己も亘理の出身じゃなかったかな。たまたま出てきた『カサナグのフィリピン』というホームページから彼の詩を孫ペーストさせていただきました(このホームページも面白そう)。菅原克己を知ったのはもう20年近く前、西田書店の『遠い城』。ゲンゲ忌には行ったことはないのだけれど。

どんなに忍耐強く、
小さく、黙って、
人は生きてきたことだろう。
となりのおじさんは
こどもと二人ぐらしで、
勤めが終わると
こどものために市場で
魚や大根を買って帰る。
道で出会うと
大根を振りながら笑う。
ぼくが詩を書くのは
まさしく、
そのことが詩であるからであって、
詩が芸術であるからではない。
菅原克己
「ヒバリとニワトリが鳴くまで」より