震災日録 4月29日 房総の人々

昼のNHKニュースがウィリアム王子の結婚式が今日、行われますというひとつだけ伝えてアナウンサーがお辞儀をして終わったのには唖然とした。

外房に海の見える小さな家を友人たちと手に入れたのは昨年12月。ある著名な建築家の建てた空間の質の高い家でもったいないから手入れをして住みつごうということになりゆずっていただいた。その後、ものすごく手間とお金を食うことがわかったが、窓から広がるあらぶる海の風景はすばらしい。
ずっと気になっていたが震災後はじめて行った。高台にあってのぼるのは大変だが、津波は来そうにない。集落の方に「地震は大丈夫でしたか」と聞くと、「ここは地盤が堅いからね。その代わりちょっと掘ると岩盤で畑を作るのは大変なんですよ」という。集落は元海女さんがおおいのだが、「江戸の頃、大津波で集落が流されたので、けっこう上の方にすんでいるんですよ」という。
町に出て見ると連休なのにすいている。海鮮どんを食べた食堂のおじさんとおばさんも放射能の話をしていた。「この辺は関係ないと思いたいけどね」。千葉でもカタクチイワシから高濃度でている。「夏もだめでしょ。今海で泳ぎたいひとなんかいないでしょ」このところ、定年後「海の見える家」に住みたい人が多く、房総田舎暮らしでこの辺の不動産屋もけっこう繁盛していたらしいのだが、客も津波のことを考えないはずはなく、地価は下がっているだろう。そう言えばうちも新しい浄化槽をつけなくてはならずその見積もり中、頼んだひとから「早くしないと復興需要で工務店が忙しくなり、どんどん手間賃が上がっていきます」と言ってきた。せちがらいものである。

岩手の方が宮城より人的被害が少なかったのは、津波の高さもあるかも知れないが明治28年の三陸大津波や昭和8年の津波の経験が染み付いて伝わっていたからだろうか。仙台以南の人たちはまさか、津波が来るとは思わなかったといっていたし、石巻でも8メートルの堤防があるから大丈夫といって逃げなかったいとが流された。
一度目の津波のあと、家にお年寄りがいるからとか、貴重品など気になって家に戻ったひともなくなっている。これからは「地震のあとに津波あり」と子供たちに10回となえさせるほうがいいかも知れない。「マッチ一本火事のもと」「明日ありと思う心の仇桜」「孝行をしたい時に親はなし」こどもの頃に何度も聞かされた言葉はいまものこっているから。原発についてわかりやすく書いた中山千夏さんのホームページ。
「私のための原発メモ」私の腰回りが半分だった頃。同感です。
http://onnagumi.jp/appealFile/20110426genpatu.pdf