2012年2月 のアーカイブ

震災日録 2月18日 北上川河口に茅刈り

2012年2月28日 火曜日

タクシーの運転手さんのはなし。「私は鹿又というところで、波は床下までしか来なかったけど、全壊地区の指定です。渡波の方ですね。うちの被害は自動車を二台、これは津波の保証がついていなかった。ほとんどの人はそうでしょう。あと300万かけてつくった墓が倒れ、もう直しました。で総額1000万くらいかなあ。家族は無事だった。娘は女川町立病院で看護師をしていますが、あの高さなら大丈夫だろうと思った。1階はあそこまで水ついたんだもんねえ。無事がわかってからは毛布だの運びましたよ。女川の駅なんてレールはないし、駅のトイレ一つしか残っていないよ。
私は地震の直後、おばあさんを乗せて、孫が心配だからって、すいすい走ったんですが、帰りはもう渋滞でした。それで車を高台に置いて逃げました。あのおばあさん、どうしたかなあ。山から見る津波はまるで映画みたいで、なんとも言えないものだった。3日目に水が引いて、瓦礫の中を4時間かけて自宅まで歩いた。途中となりのご主人とあって家はあるよ、と聞かされて地獄から天国にいっちゃった。下水とか、浄化槽とか、回り回った津波が吹き上がってきたみたい。
宮城交通も車13台ながされて、寝台車も、車椅子用のも流された。タイヤも700本ながされて。社員にも被害でました。お客さんは逃がしたけど、自分は車から出られなくてなくなった同僚もいる。社長は毎日、泥のかい出しやっていて、私も別に閑だし、3月23日からまた営業再開。それから4、5、6月は富士保険の調査で貸し切りだったからよかったねえ。社長も現金持っていくと喜ぶものねえ。
でも仕事がない人はパチンコ。石巻に2軒しかないからいつ行っても混んでますよ。
スナックも少ないから。義捐金貰ってそのままタクシーに乗ってパチンコ行く人とかいるけど、1年も休んじゃったらもう働けないんじゃないですか?
仙石線もいつ復旧するかわからないから。大工の手間は上がってます。みんな我先に直したいから、石巻の大工じゃとうてい足りなくて内陸部からも来てますが、そのために仮設のホテルが建ってるくらい。いま壊すとタダでこわしてくれる。だから作る方と壊す方と両方ですね。仮設がおわったら、市営住宅。市立病院や学校も建て直さねばならないし」
豊葦原みずほの国に生まれきて米が食えないとは嘘のよな話。せっせと鎌で萱を刈る。葦は悪し、と忌んで、吉に通ずる葭と言い換えられた。それが屋根に上がると茅になる。葭は丸く中空で、平たく中空なのは荻という別の植物。そうか、それで萩原さんと荻原さんの区別がわかった。

震災日録 2月17日 ナショナル・トラスト

2012年2月28日 火曜日

私が理事をしている日本ナショナルトラストは東日本大震災で被害を受けた文化財の救援募金を10年がかりで始めた。街頭などでも募金を集め、企業からも醵金を募り、3000万くらいは集めた。今年度は2000万を被災した文化財に補助する。
56件の応募があった。その中から10件程度に上限250万。まず激甚被害の宮城県からほとんど応募がなかったのは現地が生活再建で手一杯だったこともあろう。
そのかわり北関東、結城、桐生、真岡、小山、笠間などの町の文化財がたくさん被災していることがわかった。また釜石の虎舞にみられるように故郷の無形文化財の頭や衣装が流されてしまっていることもわかった。
国や県、市町村の指定物件はできたら公で直してほしい。公務員のみなさんは手厚く保護されているのだから、地元の文化財のために醵金したらいいのではないか?
登録文化財や未指定・未登録でも地域にとってかけがいのない個人所有の文化財をどうにか救いたい。しかしいま、多くの被災民家は壊されている。いまならタダでこわしてもらえるということで。いま建て直せば200万だかの補助金がつくということで。
夜は古書ほうろうの三遊亭きつつき、坂本頼光さんの会。きつつきさんの薮入り、泣けたねえ。うちも大工の息子が帰ってくる夜はあれも食べさせたい、これも飲ませたい、と大はしゃぎ。で帰るころには疲れ果て、意外に冷静な息子に白け、文句言ったり。
頼光さんの落語もよかったよ。ゲロ・グロ・ナンセンスだったけど。火焔太鼓。

震災日録 2月16日

2012年2月23日 木曜日

昼、民主党の広報紙で有田芳生さん、取材に見える。議員になっても偉そうにならない珍しい人。しかし民主党に期待しているかと言われてもなあ。政権交代は大いに意義があり、「コンクリートから人へ」のキャッチフレーズもよかった。普天間県外移転、八ッ場ダム中止。そのとおりやってほしいが、そうなっていない。というしかない。しかし自民党に戻るのは絶対やだ。橋下の維新の会にもっていかれるのはもっとあぶない。社民、共産が政権とれるとも思えない、うーむ。
原発、基地、ダム、みんなおなじ利益誘導型の公共事業。ばらまきゃ地域はよくなるどころか自然と文化の破壊が進み、暮しはさもしくなった。来日したブータン国王夫妻が心を打ったのは「つつましくとも心豊かでしあわせなくに」だからだろう。交付金というシャブ漬けになった心を変える文化革命が必要なのだろう。息子が帰っていう。「ベトナム戦争をとめたのはジョン・レノンじゃないかな」。かもね。
夜は写真家の旧友とジャズ喫茶映画館で、ご主人との写真機のマニアックな話を聞きながら飲む。といったってカンパリソーダ。沖山秀子、いいおんなだなあ。

震災日録 2月15日 被災地公務員の苦悩

2012年2月23日 木曜日

昨年4月にたずねたある避難所の職員さんから手紙がきた。
「早いもので震災から10ヶ月以上たちました。その節はたくさんの本を頂戴し、ありがとうございます。
森さまがお越しになった4月中旬は、連日の被災者対応に心身ともに疲弊しきっている頃でしたので、失礼がなかったかと、当時を思い出すおりに心配になります。何日も飲食睡眠なしの勤務をしてしまい、心身ともに多少壊れてしまいました。食事から物資配布、排泄の介助までお手伝いしても、苦情やお叱りの言葉を受け続けるような当時を振り返ることは困難で、支援してくださったみなさんに感謝の気持ちを伝えるところまで気持ちを持っていくことができませんでした。森さまのふくよかな笑顔に対し、緊張し、引きつった対応だったと思います。きれいに並べることすらできず、本を粗末に扱ってしまったようで胸がいたんだことを今も覚えています」
本を届けることが、ときに相手の重荷や苦痛になったりすることも考えなくてはいけないことだった。住民側の行政に対する不満ばかりではなく、行政内部の方の気持ちを紹介したい。福島県の海辺の町でも、知り合いの兄弟が罹災証明などの事務対応に追われ心身を損ない、やめようか悩んでいる話を聞いた。公務員もそれぞれ被災者で心に傷をおっている。それを忘れないようにしよう。
今日は朝から胃カメラ。昼過ぎ税務申告。夜は22歳のときの会社の先輩と飲む。

震災日録 2月14日 宜野湾市長選のショック

2012年2月23日 木曜日

物すごくショック。きょうはたちあがれない。
でも東京新聞の「宜野湾市民は怒っている」といった記事より、私の同行した朝日のルポのほうが市民感情を伝えていたのかも。歯切れは悪いが正確だった。
負けて人のせいにするのでなく、なぜ勝てなかったのか、考えなくては。
演説会や街頭演説より写真入り、カードばらまき戦術の方が効果あったのか?
伊波陣営は「勝てるし勝たなくては行けない選挙」といってた。おおかたの評価も伊波有利だった。「それでゆるむと負けるぞ」といった人もいた。
「いったん市長をやめて知事に出た人がまた市長とは虫がいい」
「伊波は市長としてはなんの実績もない。労組上がりでもういい年」
そう言うネガティブキャンぺ-ンが行われていた。
長い基地との共存のなかで騒音にもなれっこになった人たちがいた。そして基地で働く人、地代がはいる軍用地主、タクシーや飲食店も基地経済の中にある。
「基地賛成なんて言ったら宜野湾では勝てん。挨拶みたいなもんだ」
「基地は反対よ、でも出会ったアメリカ人はみんないい人だった」
「65年で一度しかヘリは落ちていない。あれは事故でなく不時着」
「すぐ基地が戻ってこない以上、日米交流の町づくりに補助金を出させたい」
そんな声も聞いた。そのうえ、
「沖縄は義理堅いから親族に頼まれればざーっとそっちへ流れる」
まさに真部局長がそうしようとした通り。そしてあの事件はうやむやにされ、佐喜真と仲伊真知事のパイプだけが強調された。そして民主党の無方針、自主投票。
「沖縄県民はみんな基地で怒っている」と伝える本土のマスメディアとは違う声に私は驚いた。伊波さんの演説会であった人は元公務員とか教師とか組合運動経験者といった意識の高い人々。しかしそうでないサイレントマジョリティが動かした今回の選挙だったのかもしれない。といってもぎりぎり半々だからね。

震災日録 2月12日 ドキュメンタリーを見る一日 

2012年2月23日 木曜日

高円寺・座でドキュメンタリーの公開審査。ずっとライトに照らされもう気絶しそう。
『相馬看花――奪われた土地の記憶』よかったな。わたしも本を届けにいった相馬女子校に避難していた南相馬の家族を追う。一つの家族を追っていると、その人について20キロ圏内の逃げない人々のところにもいけるし、避難所で一緒だった人たちが越した先の仮設住宅にも行ける。そしてかつて国策で煙草や塩をつくり、国策で原発を迎え入れた土地の歴史が浮き彫りになる。若い撮り手が信頼されているのがわかる。
相馬女子校は耐久性に問題ありと、私のいった日に閉鎖になった。でも体育館よりはるかに居住性は高かったはずなのになんで閉鎖にしたんだろう。二次避難、三次避難というあわただしい日々。立派な家がありながら避難所に、温泉ホテルに、別の町のアパートに住まなくてはならない人々。ああ、本当に申しわけない、と思いながら見た。
『カミングアウトストーリー』これも見ながら自分が変わっていける映画だった。
土肥いつきさん、京都の府立高校の先生は男性の体と女性の心を持つ。だから適合手術をした。陰茎を取り、女性器を作る。はじめ弱々しそうに見えたいつきさんが、だんだん強く、粘り強く見えてくる。なんで50近くになってそんな痛い手術を受けなくてはならないのだろう。男の愛を受け入れるためか。そうではなく『女性の体を獲得したい』と言う長い間の欲求を満たすためだ。女はショートカットにして男装することも多いが、男性の女装へは違和感が強い。女装した高校教師が女性の下着を盗んだとき、いつきさんは「やっちまったか」といって泥酔する。そうならない道を探れたはずなのに。ヘテロな私にははじめ違和感があることが映画を見終わるころにはなんだか、共感してしまった。あとの二本もよかったけど。
夜中、宜野湾市長選の結果出る。やっぱり。革新の伊波候補、自公推薦の佐喜真に900票差で破れる。

震災日録 2月11日 沖縄つかれ

2012年2月23日 木曜日

年のせいか、那覇まで往復したのでかなり疲れた。帰りに車に乗せてくださった方の話を思い出している。
「はじめて東京の大学に入るのでいったとき、パスポートに帰国証明と判を押されて反抗心が芽生えた。祖父も父も弁護士でした。でもおばあさんが偉かった。夫が勉強中、学校の先生をして留守を守りきった。しかし孫である私の前で祖父はその漁師の兄を『この無学もん』とどなった。勉強させてくれた兄さんなのに。偉くなったが祖父は軽蔑してましたね」
「沖縄って複雑なところですよ、個人の歴史にその複雑さがこだまする」とその人は言った。辺野古海上案に反対して泊まりにあった防衛庁沖縄局の前でハンストをする友につきあい夜明かししたと言う。
耳鳴りがする。お昼は友人の家でご馳走になる。「手帳で収入につながらない用事に緑を塗ってみたら、手帳が緑だらけになったって、誰かが書いてた。私も人に頼まれて紹介したり、調べてあげたり、情報を教えたりばかりだわ」という。私の手帳も真緑だろう。この年になるとしがらみも多すぎて。確定申告の段になって、収入ががくんと減っているのに気付く。「だって3・11以降、あちこちかけずりまわって仕事してなかったじゃない」と娘。でも10くらいの映像作品をアップしたし、去年はそういう年だったんだ。

震災日録 2月10日

2012年2月20日 月曜日

9時のモノレールで空港へ。ベビーカーの母子、車体が近づくとマスクをかけた。「那覇でもインフルエンザがはやっているというし。横浜から夫の出張についてきたんです。横浜にいると不安で。でももう浴びちゃってるんでしょうね」。昼間行くところもないので、これから空港のアウトレットに行ってみます、という。博物館や美術館で沖縄の歴史でも学べばいいのに、と思う。空港は軍属らしきアメリカ人、背広で群れなす公務員は那覇県庁の役人か、あまりしまった顔ではない。12時着。最後に来た偉い人だけJクラスに乗ってきた。

震災日録 2月9日 高江と辺野古

2012年2月20日 月曜日

ラブホらしいしつらえながら、おばちゃんは親切で朝バナナとビスケットをくれた。8時に爆音訴訟団の富田さんと待ち合わせ。静岡で学校教師をしていた彼が沖縄に興味を持ったのはお嬢さんが沖縄の大学に行きたいといったとき。「もうこっちで所帯も仕事も持っています。それから海や自然が好きになって、歴史も勉強して普天間基地問題にかかわった。そしたら移住して爆音訴訟の原告になったらいいよ、というので平山さんとアパートを借りている」
平山さんとは山手教会牧師の息子さんで昨夜「うちの姉は沖縄問題をよくやっていた」というので聞いたら朝日新聞の松井やよりさんだった。富田さんは知れば知るほどひどい沖縄の基地問題を本土の友達に伝えるためのボランティアガイドも務めている。ほんとうは辺野古に行くはずだったが、まだ早いから先に高江までいってみようという。名護をすぎるとどんどん人家は少なくなる。沖縄といえばゆんたく(おしゃべり)、ゆいまーる(助け合い)、そのベースが各集落に一つはある住民立の共同店。限界集落なんていうが沖縄ではみんなでお金を出し合って店を維持している。なかなかきれいで、野菜、肉、魚、米、飲み物、調味料、トイレットペーパーや洗剤、弁当、タバコ、何でも売っている。どこにも明るい顔のおばあがいる。まえに弁当を買ったおじさんに「はいさい」と挨拶されて、まだ「ハイサイおじさん」がいるんだとおどろいた。外には風通しの良いゆんたくテーブルがあって、そばが食べられる共同店もある。
ヤンバルの森はまるでインドネシアカリマンタンか、タイの奥地のような熱帯性の植生が続く。T字路のところに誰か立っていた。防衛庁の役人が来ないか、毎朝立って監視しているのだ。ここにヤンバルクイナをはじめたくさんの固有種がいるが、密林での掃討作戦の練習をする米兵たちもいっぱいいる。
宮城勝己さんは「こどものころ、夜中にざっくざっくと武装して歩く米兵がこわかった。ベトナム戦争のころは農民がベトナム人のような菅笠をかぶせられて演習に出演させられたんです。あぶなかった」
彼もまた「戦後生まれの戦争体験者」である。いままた未亡人製造機と呼ばれ、事故をおこしやすいオスプレイなるヘリコプターを配備する基地、ヘリパッドが7つも集落を囲むように作られる計画。住民たちはそれを阻止するためにゲートの前に車を並べ、非暴力で沖縄防衛庁の工事を阻止し続けている。
畑仕事の合間にきたのは森岡浩二さん。「栃木の方で農業をやっていたんですが、子どもを自然の中で育てたくて。それに自分、寒いと神経痛がでるので暖かい沖縄に来ました。基地があることははじめから知っていましたが、新しいのが集落近くに作られるなんていやですねえ」ヤンバルでは珍しく米に挑戦している。
東村はいまはパイナップルで有名だ。東村村長ははじめ基地反対だったが、1日でころっと基地容認に変わったという。「どうやったらそんなにころっと変われるんでしょうね」というと、「反対は口先だけさ。対立候補がでないとわかったとたんだね」
沖縄県職組の宮城淳さんはバイクでやってきた。「今日は休みなのでちょっと見に来ただけです」。
富久亮輔さんは多摩在住のナイチャーだが、退職後、2年ここに住み込んでいる。運転してくださった富田さんといい、公務員、教員で退職後、沖縄生活を楽しみながら、基地反対の支援を生き甲斐のようにしておられる方がいる。なかなか暮らすだけで大変な人が多い中で、知識もあり年金も生活に困らない退職公務員がこうした生き方をしてくれることは大切だと思う。あと沖縄では本土と異なり、社会、共産が分裂していない。メンツにこだわらず基地問題で共闘できるのはうらやましい。また本土から来てここで最低限の仕事をしながら基地反対の底支えをして、保育園までやっている若者たちがいるのにも驚いた。おいしい差し入れのおにぎりや宮城さん自家製のチャンプルーで慌ただしく昼ご飯をいただき、「今度はゆっくりきます」「いつでも泊めてあげるよ」という声に送られ、辺野古への道を急いだ。
途中、慶佐次という集落でエコツアーらしき人々を見る。うちの息子たちがよく手伝いに行く道草牧場もこの辺にあるはずだが今回はスキップ。
「よし、きょうは大サービスだ」と富田さんはこんどは東海岸をとおり、辺野古へ。
大村海岸というリーフのすばらしい海を見る。その無効にあるのがキャンプシュワブ。白亜のといいたいような立派な宿舎が見える。その手前の山の中には弾薬庫。
「南北問題というけれど沖縄は西海岸は海沿いにずらりとリゾートが並び便利でもあるけど、東海岸はこの通り、観光はない。でも静かな村にエコツアーなどをする人が住み着いて、すてきなカフェや民宿もありますよ」
富田さんはダイビングのライセンスを取って珊瑚の海に潜ったが、「いまはシュノーケルで十分」という。私も慶良間の海にシュノーケルで潜ったなあ。また潜りたい。
2時、辺野古着。アップル通りの由来となったアップル中佐のいわれが書いてある。辺野古の集落、とってもかわいらしく人間サイズ。アメリカの地名を冠したバーなども多いがいまは海兵隊の連中は街に出てこないそうだ。このまま映画のセットに使えるのじゃないか?
海辺に私をおろすと富田さんはじゃあね、と手をふって帰っていった。半日ありがとうございました。テントでまず受付、来た人を確認、また仲間を増やすためだろう。
真ん中にいた明るい顔の方が半対協の安次富浩さん。この方も公務員だったが、故郷名護に戻り、辺野古で体を張って日本政府防衛省沖縄防衛局と非暴力で対峙することになった。世界で一番危険な基地とされる宜野湾市の普天間基地。1996年の橋本内閣のときに、これを返還すると日米で合意ができた。これをsaco合意という。しかしその後も17年、普天間は返還されていない。そして普天間を返すなら辺野古に新たな基地を作ると日米政府は言い出した。それもいろんな案が浮かんでは消え、いまは海上にV次に滑走路を2本作る案。世界遺産にしたいこの珊瑚礁の海をコンクリでかため米軍の飛行機が飛ぶがままにするとは。行ってみて初めていろんなことがわかる。
政権交代が起って坊ちゃん宰相鳩山由紀夫は「少なくとも県外移設」を言った。これは正しいが、成算もないままの発言で官僚を動かしきれず、世論も支えなかった。沖縄には気の毒だがうちにはきてほしくない、と言う地域エゴ。そしてまた約束は反古にされ、沖縄の人びとは怒った。八ッ場ダムとおなじく約束は反古。
この何日か、米軍の配備転換で8000人の海兵隊のうち、4800人をまず動かし、辺野古はあきらめるというような憶測もとび出したが、安次富さんは動じない。
政府のいうことを信ずれば裏切られるだけ、これも八ッ場と同じ。「こんどはカヌーに乗って海から見るといいよ」と笑った。優れた活動家にはこの明るさと寛容が共通している。

震災日録 2月8日 選挙戦を取材

2012年2月20日 月曜日

朝の嘉数公園。京都の塔は京都の部隊430人がなくなったという。在日韓国人の犠牲者を弔う青丘碑。島根県の部隊の碑。
ゲートボールのお年寄りがいっぱい。「佐真下に住んでいる。基地がうるさくてかなわない。特に火曜がうるさい。テレビが映らない。政治は好きでないので、わからない」
「まあ、半々やろな。みんなわからんもんだから口コミであの人に入れてといわれればざーっとかわる。誰がやっても変わらないな、とみんな思っている。基地は危険だから撤去した方がいいが、軍用地持っている人はなくなったら金が来なくなる。私は1歳のときに両親を沖縄戦でなくして、姉に育ててもらった。戦後は苦労した。米軍の戦車に乗せられて捕虜にされた。この辺、木という木はなく石がひっくり返って真っ白。だから基地には反対。バス会社に勤めて組合もやったから、ずっと反対してきた。伊波さんに入れる」
「いまのはハーキュリーズ。岩国から来たFA18とかはうるさいよ」
「昭和2年の卯年、手榴弾で知り合いのやられたのを背負ってひめゆりの塔のあたりから糸満まで逃げたことがある。父が57歳で艦砲射撃でやられ、木をばっさり切った破片が体に突き刺さってとまった。それでうしろにいた僕と母親は助かった。捕虜になって野嵩の収容所に入れられて、それからずっと宜野湾。建設関係の仕事をした。基地じゃないよ。野嵩の学校とか作った。ここで基地賛成といったら選挙は通りません。いまうちは防音工事やってる。パイロットの顔が見えるよ、うちきてみるか。子ども3人、孫8名、ひ孫もいます」「若さと行動力があるから佐喜真がいい。伊波は14年間市長のときには何もやってない。いまきたのはC135だ」
うーむ、どうなるのかなあ。

真栄原公民館にて。男性が踊りにきた女性たちに候補のカードを配った。公民館員は公務員でなく自治会の人だからいいのらしい。沖縄は選挙管理が甘い、管理されない選挙だという。自民、公明、財界は佐喜真。社民、社大、共産、市役所労組は伊波。ほとんどの人は聞くと沖縄戦で家族を亡くしている。昼ご飯はもちろん沖縄そば。伊波候補が事務所をでるところにばったり。対立候補はマスコミ嫌いで今日は街頭演説なし。爆音訴訟団の桃原市議に再会。

山田泥真・真由美さん親子に会う。琉球紅型の作家で名前はドロシー。親しかったアメリカ人につけてもらったという。昭和22年生まれ。
「父は渡嘉敷憲伸、廃藩置県で武士の身分を失いました。明治18年生まれ、13、4で移民となって西表にいて、父親がマラリアにかかってなくなり、山田という棟梁に預けられて福島に行った。それから上野の美術学校へはいり、絵を描いたり、高村光雲の弟子になって彫刻をしたりした。山田真山という号です。小堀鞆音の娘と結婚して生まれた長男は東南アジアで戦死、次男は戦時中に学徒出陣でなくなりました。これは後妻のうちの母が育てた子ですが。父は紙徴兵にもなれないくらい体も弱く小さくて、いつも戦争に送り出す側でした。ですが戦後は琉球政府で画家として重用され、切手の図案を書いたりして、平和を祈念して記念塔におさめる仏像の原型を作りました。62で私を、64で弟を生れて全部で12人子どもをつくって92歳でなくなりました。母はレストランをやってハンバーガーなど作って父を支えた。
私は戦争を体験してませんが、灯火管制の中を米兵が朝鮮戦争へいくのに野嵩を上って行く向かう軍靴の音、ざっくざっくするのを忘れられない。むかし普天間は草ぼうぼうだった。ラジオ番組にでた米兵が3人いたのに毎週1人ずつ減っていった。彼らはベトナムに行きました、とアナウンサーはいった。婦人会が割烹着かけて朝鮮戦争にいく兵を送る。ヘリコプターがバリバリいって。だから私は戦後生まれの戦争体験者。なんでも自分の身に降り掛からないとわからない。対岸の火事なら戦争は儲かる。米軍出ていけでなく、米兵も心の傷を受けている。どこの人でも戦争は嫌い。だから外交はなにしているの。沖縄は基地のあるところだけでなく、文化があることを知ってほしい。だから紅型をやっているのです。
沖縄も基地がある見返りに政府から当たり前のように金をもらう。箱ものを作る。その交付金だってみんなの税金だということを知らなくちゃ。当たり前のようにもらっちゃいけないと思う。日本がつぶれたら沖縄もだめなんだから。保守でないと金はこないというような言い方はおかしい。こどもに武器を取らせるような教育はしてはいけないと思います。だから宜野湾も八重山みたいな教科書を採択するようになっては困る。憲法9条があるということが大事。米軍が撤退すると自衛隊がはいってくるのではないかというのが心配。自衛隊も災害救助隊になればいいと思います」

普天間三部自治会を訪ねた。武島俊一郎さんの話。
「おばあちゃんが戦後、婦人服と学生服の店を始めた。この辺は1階が店で、2階が住まいでみんな買いにきた。社交街があってこっちは1、2階が店で、3、4階に家族が住んでたそうです。戦後すぐは農村で町ではなかった。外人住宅は柱もない。屋根裏もなくて暑い。更地にして返すはずが民間で売買されています。昔は外人住宅に住んでいるのは貧乏人だという感覚があった。でもいまはおしゃれ。地代は安いし、建物は古いし、何やってもいいよ、というからアイディアさえあれば面白いことができます。宜野湾は物流の中心だし、子どもは増えていて、活気ある町だと思う。セレクトショップやバーで330号線は空き店舗がないくらい。生まれたときから基地があるから当たり前で、1年も住めば騒音も慣れる。うちの妻も内地の人間だけど騒音は気にしていない。ベトナム戦争のときは頭の上をギャラクシーが飛んですごい音だったが、嘉手納のジェット機が飛んでこない限り我慢できる。子どもの頃はホームランを打てば基地にはいって、柵の下の穴をくぐって基地内に入ってボールを拾ったりした。ハロウィンに外人ハウスを回るとお菓子をもらえるとか。一番いやなのは飛行場で訓練していることではなく、当て逃げや泥棒など外で悪いことをすること、それを罰せられないこと。いい悪いをいってないで、飛行機がおりる大謝名辺りに本土の政治家の家族が住んでみればいい。当事者にならない限り、ものは見えないんだから」
自治会会長渡名喜さんの話。「復帰が高校一年のとき。ドル使っていた。サインバーがA、B、Cと分かれてた。海兵隊は兵舎が移転してでてこなくなった。北谷へ流れた。復帰後は日本人相手に切り替えた。昔は基地で働くガーデンボーイやハウスメイド、エンジニアは高給で公務員や教師はやすかった。いまはそんな仕事はなく、基地で働くのは300人くらい。県外のメディアは普天間基地問題を云々するが、我々には暮らしの問題がもっと大事。基地反対は挨拶みたいなもの。ほんとうは経済をどうするかだ。嘉手納の道の駅みたいに、基地があるから学習に来る人もいるだろうし、むしろ観光資源と考えたらいいのではないか? 基地でカーニバルがあると口コミだけでも人がわんさと集まる。女の人は知らないが、男はメカとしての飛行機や戦車に関心がある。もちろんおいしい店もあるわけだけど。なくなるまでは共存しないと。
沖縄国際にヘリがおりたときもたいした被害もなかったでしょう。65年にたった1件だけでしょう。当面なくならないなら、もっと米軍と交流してもいいのではないか。そんな文化交流の施設を作るよう防衛省に補助金を申請したい。静かな夜を返せといって外人部隊が夜中まで選挙戦をする方がよっぽどうるさい。
辺野古にジュゴンがいるというが、普天間の基地の周りにはたくさん子どもが暮らしている。ジュゴンと人間の子どもとどっちが大事か、と思う」
伊波候補の街頭演説を聞く。5時だけど寒そう。朝日新聞の人たちと別れ、夕飯に1人台湾料理を食べる。小龍包。ビール。野菜の前菜。
7時過ぎ、タクシーで真志喜公民館へ伊波さんの演説会を聴きに行く。本当だ。基地を横切りゃ近いのに。爆音協(すごい名前)の富田さんが「あした、辺野古まで送って行こうか?」といってくださる。帰りも普天間南の交差点まで、誰かの車で送ってくれた。優しい人の多い車社会沖縄で送るのは当たり前だそうだ。今日のホテル、お風呂はあるが、ヒーターはない。テレビはついた。タオルもあった。