震災日録 2月8日 選挙戦を取材

朝の嘉数公園。京都の塔は京都の部隊430人がなくなったという。在日韓国人の犠牲者を弔う青丘碑。島根県の部隊の碑。
ゲートボールのお年寄りがいっぱい。「佐真下に住んでいる。基地がうるさくてかなわない。特に火曜がうるさい。テレビが映らない。政治は好きでないので、わからない」
「まあ、半々やろな。みんなわからんもんだから口コミであの人に入れてといわれればざーっとかわる。誰がやっても変わらないな、とみんな思っている。基地は危険だから撤去した方がいいが、軍用地持っている人はなくなったら金が来なくなる。私は1歳のときに両親を沖縄戦でなくして、姉に育ててもらった。戦後は苦労した。米軍の戦車に乗せられて捕虜にされた。この辺、木という木はなく石がひっくり返って真っ白。だから基地には反対。バス会社に勤めて組合もやったから、ずっと反対してきた。伊波さんに入れる」
「いまのはハーキュリーズ。岩国から来たFA18とかはうるさいよ」
「昭和2年の卯年、手榴弾で知り合いのやられたのを背負ってひめゆりの塔のあたりから糸満まで逃げたことがある。父が57歳で艦砲射撃でやられ、木をばっさり切った破片が体に突き刺さってとまった。それでうしろにいた僕と母親は助かった。捕虜になって野嵩の収容所に入れられて、それからずっと宜野湾。建設関係の仕事をした。基地じゃないよ。野嵩の学校とか作った。ここで基地賛成といったら選挙は通りません。いまうちは防音工事やってる。パイロットの顔が見えるよ、うちきてみるか。子ども3人、孫8名、ひ孫もいます」「若さと行動力があるから佐喜真がいい。伊波は14年間市長のときには何もやってない。いまきたのはC135だ」
うーむ、どうなるのかなあ。

真栄原公民館にて。男性が踊りにきた女性たちに候補のカードを配った。公民館員は公務員でなく自治会の人だからいいのらしい。沖縄は選挙管理が甘い、管理されない選挙だという。自民、公明、財界は佐喜真。社民、社大、共産、市役所労組は伊波。ほとんどの人は聞くと沖縄戦で家族を亡くしている。昼ご飯はもちろん沖縄そば。伊波候補が事務所をでるところにばったり。対立候補はマスコミ嫌いで今日は街頭演説なし。爆音訴訟団の桃原市議に再会。

山田泥真・真由美さん親子に会う。琉球紅型の作家で名前はドロシー。親しかったアメリカ人につけてもらったという。昭和22年生まれ。
「父は渡嘉敷憲伸、廃藩置県で武士の身分を失いました。明治18年生まれ、13、4で移民となって西表にいて、父親がマラリアにかかってなくなり、山田という棟梁に預けられて福島に行った。それから上野の美術学校へはいり、絵を描いたり、高村光雲の弟子になって彫刻をしたりした。山田真山という号です。小堀鞆音の娘と結婚して生まれた長男は東南アジアで戦死、次男は戦時中に学徒出陣でなくなりました。これは後妻のうちの母が育てた子ですが。父は紙徴兵にもなれないくらい体も弱く小さくて、いつも戦争に送り出す側でした。ですが戦後は琉球政府で画家として重用され、切手の図案を書いたりして、平和を祈念して記念塔におさめる仏像の原型を作りました。62で私を、64で弟を生れて全部で12人子どもをつくって92歳でなくなりました。母はレストランをやってハンバーガーなど作って父を支えた。
私は戦争を体験してませんが、灯火管制の中を米兵が朝鮮戦争へいくのに野嵩を上って行く向かう軍靴の音、ざっくざっくするのを忘れられない。むかし普天間は草ぼうぼうだった。ラジオ番組にでた米兵が3人いたのに毎週1人ずつ減っていった。彼らはベトナムに行きました、とアナウンサーはいった。婦人会が割烹着かけて朝鮮戦争にいく兵を送る。ヘリコプターがバリバリいって。だから私は戦後生まれの戦争体験者。なんでも自分の身に降り掛からないとわからない。対岸の火事なら戦争は儲かる。米軍出ていけでなく、米兵も心の傷を受けている。どこの人でも戦争は嫌い。だから外交はなにしているの。沖縄は基地のあるところだけでなく、文化があることを知ってほしい。だから紅型をやっているのです。
沖縄も基地がある見返りに政府から当たり前のように金をもらう。箱ものを作る。その交付金だってみんなの税金だということを知らなくちゃ。当たり前のようにもらっちゃいけないと思う。日本がつぶれたら沖縄もだめなんだから。保守でないと金はこないというような言い方はおかしい。こどもに武器を取らせるような教育はしてはいけないと思います。だから宜野湾も八重山みたいな教科書を採択するようになっては困る。憲法9条があるということが大事。米軍が撤退すると自衛隊がはいってくるのではないかというのが心配。自衛隊も災害救助隊になればいいと思います」

普天間三部自治会を訪ねた。武島俊一郎さんの話。
「おばあちゃんが戦後、婦人服と学生服の店を始めた。この辺は1階が店で、2階が住まいでみんな買いにきた。社交街があってこっちは1、2階が店で、3、4階に家族が住んでたそうです。戦後すぐは農村で町ではなかった。外人住宅は柱もない。屋根裏もなくて暑い。更地にして返すはずが民間で売買されています。昔は外人住宅に住んでいるのは貧乏人だという感覚があった。でもいまはおしゃれ。地代は安いし、建物は古いし、何やってもいいよ、というからアイディアさえあれば面白いことができます。宜野湾は物流の中心だし、子どもは増えていて、活気ある町だと思う。セレクトショップやバーで330号線は空き店舗がないくらい。生まれたときから基地があるから当たり前で、1年も住めば騒音も慣れる。うちの妻も内地の人間だけど騒音は気にしていない。ベトナム戦争のときは頭の上をギャラクシーが飛んですごい音だったが、嘉手納のジェット機が飛んでこない限り我慢できる。子どもの頃はホームランを打てば基地にはいって、柵の下の穴をくぐって基地内に入ってボールを拾ったりした。ハロウィンに外人ハウスを回るとお菓子をもらえるとか。一番いやなのは飛行場で訓練していることではなく、当て逃げや泥棒など外で悪いことをすること、それを罰せられないこと。いい悪いをいってないで、飛行機がおりる大謝名辺りに本土の政治家の家族が住んでみればいい。当事者にならない限り、ものは見えないんだから」
自治会会長渡名喜さんの話。「復帰が高校一年のとき。ドル使っていた。サインバーがA、B、Cと分かれてた。海兵隊は兵舎が移転してでてこなくなった。北谷へ流れた。復帰後は日本人相手に切り替えた。昔は基地で働くガーデンボーイやハウスメイド、エンジニアは高給で公務員や教師はやすかった。いまはそんな仕事はなく、基地で働くのは300人くらい。県外のメディアは普天間基地問題を云々するが、我々には暮らしの問題がもっと大事。基地反対は挨拶みたいなもの。ほんとうは経済をどうするかだ。嘉手納の道の駅みたいに、基地があるから学習に来る人もいるだろうし、むしろ観光資源と考えたらいいのではないか? 基地でカーニバルがあると口コミだけでも人がわんさと集まる。女の人は知らないが、男はメカとしての飛行機や戦車に関心がある。もちろんおいしい店もあるわけだけど。なくなるまでは共存しないと。
沖縄国際にヘリがおりたときもたいした被害もなかったでしょう。65年にたった1件だけでしょう。当面なくならないなら、もっと米軍と交流してもいいのではないか。そんな文化交流の施設を作るよう防衛省に補助金を申請したい。静かな夜を返せといって外人部隊が夜中まで選挙戦をする方がよっぽどうるさい。
辺野古にジュゴンがいるというが、普天間の基地の周りにはたくさん子どもが暮らしている。ジュゴンと人間の子どもとどっちが大事か、と思う」
伊波候補の街頭演説を聞く。5時だけど寒そう。朝日新聞の人たちと別れ、夕飯に1人台湾料理を食べる。小龍包。ビール。野菜の前菜。
7時過ぎ、タクシーで真志喜公民館へ伊波さんの演説会を聴きに行く。本当だ。基地を横切りゃ近いのに。爆音協(すごい名前)の富田さんが「あした、辺野古まで送って行こうか?」といってくださる。帰りも普天間南の交差点まで、誰かの車で送ってくれた。優しい人の多い車社会沖縄で送るのは当たり前だそうだ。今日のホテル、お風呂はあるが、ヒーターはない。テレビはついた。タオルもあった。