震災日録 2月9日 高江と辺野古

ラブホらしいしつらえながら、おばちゃんは親切で朝バナナとビスケットをくれた。8時に爆音訴訟団の富田さんと待ち合わせ。静岡で学校教師をしていた彼が沖縄に興味を持ったのはお嬢さんが沖縄の大学に行きたいといったとき。「もうこっちで所帯も仕事も持っています。それから海や自然が好きになって、歴史も勉強して普天間基地問題にかかわった。そしたら移住して爆音訴訟の原告になったらいいよ、というので平山さんとアパートを借りている」
平山さんとは山手教会牧師の息子さんで昨夜「うちの姉は沖縄問題をよくやっていた」というので聞いたら朝日新聞の松井やよりさんだった。富田さんは知れば知るほどひどい沖縄の基地問題を本土の友達に伝えるためのボランティアガイドも務めている。ほんとうは辺野古に行くはずだったが、まだ早いから先に高江までいってみようという。名護をすぎるとどんどん人家は少なくなる。沖縄といえばゆんたく(おしゃべり)、ゆいまーる(助け合い)、そのベースが各集落に一つはある住民立の共同店。限界集落なんていうが沖縄ではみんなでお金を出し合って店を維持している。なかなかきれいで、野菜、肉、魚、米、飲み物、調味料、トイレットペーパーや洗剤、弁当、タバコ、何でも売っている。どこにも明るい顔のおばあがいる。まえに弁当を買ったおじさんに「はいさい」と挨拶されて、まだ「ハイサイおじさん」がいるんだとおどろいた。外には風通しの良いゆんたくテーブルがあって、そばが食べられる共同店もある。
ヤンバルの森はまるでインドネシアカリマンタンか、タイの奥地のような熱帯性の植生が続く。T字路のところに誰か立っていた。防衛庁の役人が来ないか、毎朝立って監視しているのだ。ここにヤンバルクイナをはじめたくさんの固有種がいるが、密林での掃討作戦の練習をする米兵たちもいっぱいいる。
宮城勝己さんは「こどものころ、夜中にざっくざっくと武装して歩く米兵がこわかった。ベトナム戦争のころは農民がベトナム人のような菅笠をかぶせられて演習に出演させられたんです。あぶなかった」
彼もまた「戦後生まれの戦争体験者」である。いままた未亡人製造機と呼ばれ、事故をおこしやすいオスプレイなるヘリコプターを配備する基地、ヘリパッドが7つも集落を囲むように作られる計画。住民たちはそれを阻止するためにゲートの前に車を並べ、非暴力で沖縄防衛庁の工事を阻止し続けている。
畑仕事の合間にきたのは森岡浩二さん。「栃木の方で農業をやっていたんですが、子どもを自然の中で育てたくて。それに自分、寒いと神経痛がでるので暖かい沖縄に来ました。基地があることははじめから知っていましたが、新しいのが集落近くに作られるなんていやですねえ」ヤンバルでは珍しく米に挑戦している。
東村はいまはパイナップルで有名だ。東村村長ははじめ基地反対だったが、1日でころっと基地容認に変わったという。「どうやったらそんなにころっと変われるんでしょうね」というと、「反対は口先だけさ。対立候補がでないとわかったとたんだね」
沖縄県職組の宮城淳さんはバイクでやってきた。「今日は休みなのでちょっと見に来ただけです」。
富久亮輔さんは多摩在住のナイチャーだが、退職後、2年ここに住み込んでいる。運転してくださった富田さんといい、公務員、教員で退職後、沖縄生活を楽しみながら、基地反対の支援を生き甲斐のようにしておられる方がいる。なかなか暮らすだけで大変な人が多い中で、知識もあり年金も生活に困らない退職公務員がこうした生き方をしてくれることは大切だと思う。あと沖縄では本土と異なり、社会、共産が分裂していない。メンツにこだわらず基地問題で共闘できるのはうらやましい。また本土から来てここで最低限の仕事をしながら基地反対の底支えをして、保育園までやっている若者たちがいるのにも驚いた。おいしい差し入れのおにぎりや宮城さん自家製のチャンプルーで慌ただしく昼ご飯をいただき、「今度はゆっくりきます」「いつでも泊めてあげるよ」という声に送られ、辺野古への道を急いだ。
途中、慶佐次という集落でエコツアーらしき人々を見る。うちの息子たちがよく手伝いに行く道草牧場もこの辺にあるはずだが今回はスキップ。
「よし、きょうは大サービスだ」と富田さんはこんどは東海岸をとおり、辺野古へ。
大村海岸というリーフのすばらしい海を見る。その無効にあるのがキャンプシュワブ。白亜のといいたいような立派な宿舎が見える。その手前の山の中には弾薬庫。
「南北問題というけれど沖縄は西海岸は海沿いにずらりとリゾートが並び便利でもあるけど、東海岸はこの通り、観光はない。でも静かな村にエコツアーなどをする人が住み着いて、すてきなカフェや民宿もありますよ」
富田さんはダイビングのライセンスを取って珊瑚の海に潜ったが、「いまはシュノーケルで十分」という。私も慶良間の海にシュノーケルで潜ったなあ。また潜りたい。
2時、辺野古着。アップル通りの由来となったアップル中佐のいわれが書いてある。辺野古の集落、とってもかわいらしく人間サイズ。アメリカの地名を冠したバーなども多いがいまは海兵隊の連中は街に出てこないそうだ。このまま映画のセットに使えるのじゃないか?
海辺に私をおろすと富田さんはじゃあね、と手をふって帰っていった。半日ありがとうございました。テントでまず受付、来た人を確認、また仲間を増やすためだろう。
真ん中にいた明るい顔の方が半対協の安次富浩さん。この方も公務員だったが、故郷名護に戻り、辺野古で体を張って日本政府防衛省沖縄防衛局と非暴力で対峙することになった。世界で一番危険な基地とされる宜野湾市の普天間基地。1996年の橋本内閣のときに、これを返還すると日米で合意ができた。これをsaco合意という。しかしその後も17年、普天間は返還されていない。そして普天間を返すなら辺野古に新たな基地を作ると日米政府は言い出した。それもいろんな案が浮かんでは消え、いまは海上にV次に滑走路を2本作る案。世界遺産にしたいこの珊瑚礁の海をコンクリでかため米軍の飛行機が飛ぶがままにするとは。行ってみて初めていろんなことがわかる。
政権交代が起って坊ちゃん宰相鳩山由紀夫は「少なくとも県外移設」を言った。これは正しいが、成算もないままの発言で官僚を動かしきれず、世論も支えなかった。沖縄には気の毒だがうちにはきてほしくない、と言う地域エゴ。そしてまた約束は反古にされ、沖縄の人びとは怒った。八ッ場ダムとおなじく約束は反古。
この何日か、米軍の配備転換で8000人の海兵隊のうち、4800人をまず動かし、辺野古はあきらめるというような憶測もとび出したが、安次富さんは動じない。
政府のいうことを信ずれば裏切られるだけ、これも八ッ場と同じ。「こんどはカヌーに乗って海から見るといいよ」と笑った。優れた活動家にはこの明るさと寛容が共通している。