2011年8月 のアーカイブ

震災日録 8月17日 明和の津波

2011年8月29日 月曜日

竹富島で話を聞いていると、東北の津波は人ごとではない、胸が痛かったという。ここは最高海抜24メートルのお盆のような島。明和の大津波の時はなぜか竹富に津波は来なかった。なぜなら神様が島ごと持ち上げてくださったから、という伝説がある。じつは石垣島のリーフなどが津波の緩衝になったらしい。「でもあれから相当埋め立てたからつぎは危ないと思うよ」とおばあがいっていた。水の貴重だった島でもいまは観光客が水をジャージャー使うし、まばゆいほど朝の光りがあるのに室内の電気をつけ放題。節電の東京から来るとかなり違和感を覚える。さすがに干ばつのため水は不足気味で節水を呼びかける防災放送がなされた。

震災日録 8月15日 お盆の終わった日

2011年8月25日 木曜日

みんな疲れた顔をしている。昨日の夜までアンガマーで、朝は早くからお墓で先祖を送る。和泉屋の上勢頭たつこさんに話を聞く。戦後の青年たちが解放感溢れる頃、登さんと結婚したのだが、どんなにかわゆくいらしただろう。その後、子を産み育てながら民宿を経営して来た。なくなったご主人を「やさしい人でしたよ」と回想する。島を守ることに駆け回っていた登さんは24年前の町並みゼミで実行委員長をつとめていらしたと記憶するがオートバイ事故で亡くなられた。しかし彼の活動は今も島で継承されている。神司を引退された富本定子さん、踊りの師匠上勢頭同子さんにも宇宙を感じるような壮大な話を聞いた。さすがに疲れてぐっすり眠る。

震災日録 8月14日 同世代の苦労

2011年8月25日 木曜日

お盆の最終日。狩俣恵一さんは沖縄大学教授で、『芸能や神事から島の未来を考える』ことをライフワークとしている。私より3つ年上だが、島から大学までいくのは並大抵ではなかった。

「30までに目鼻がつけばいい、くらいでまず東京に出て二年、新聞配達などで働き、お金を貯めて国学院大学に行きました。生活費どころか、授業料も自分で払った。だからバイトするより勉強して授業料免除にした方が得だという結論になった。卒業してからも一年バイトして大学院に進みました」。親に授業料を払ってもらって。

自宅から通った私は少し恥ずかしい。奥さんの志穂さんも竹富育ち、両親とも先生で「そんなうちからお嫁をもらうのは恐れ多い」とお母さんのハツさんは不安があったが、今みていると人もうらやむ嫁姑だ。狩俣さんは那覇からかよって竹富島のいろいろな問題に社会学の家中先生とともにアドバイスしている。今日、まずは竹富島入門編。歴史、歌謡、芸能、神事、工芸、衣食住、ことばその他、何でも聞いてみた。

お昼ご飯は冬瓜と豚の汁においしいご飯、チャンプルー。

午後は長堂さんの母堂のところへ行く。神奈川の海老名から娘さんがお盆で帰り、天ぷらをたくさんあげながらおばあの話を聞いて笑いをこらえている。本島の糸満育ちのおばあは戦前に台湾で竹富島の人と知り合った。ウミンチュなので言葉がはっきりしている。「あんたみたい若い人にいってもわからんだろな」と言う。

そのあと町並み調整委員会委員長の大山さん宅により、この頃起こっている島の問題について話を聞いた。国の重要伝統的建造物群保存地区になってから「売らない、貸さない、けがさない、そして活かす」というすばらしい竹富憲章を作ったのに。この国は自由主義経済の国で知らない間に売買され、そこで観光目的の商売をする人が後を絶たない。島の文化、風習、ユンタク(おしゃべり)、ユイマール(協力共生)などに理解がない住民が増えつつあるという。

お盆の最後の日、公民館館長を務め、前からよく町並み保存ゼミなどでお目にかかる上勢戸芳徳さんの赤瓦の家でまたすばらしいアンガマーをみた。東集落が着物もそれぞれで本土の盆踊りなどを取り入れて気楽で楽しい感じなのに対し、西は芳徳夫人、同子さんが踊りの師匠として若い子に教えているので、衣装も伝統的な紺地の着物、たもとはあついので筒袖、お端折もなくつっ丈で短く着る。帯は幅が狭く前で結ぶ。アンガマー最高潮で雲の上に明るい月が出た。なくなった父のことを思う。東京でお盆に迎え火をたかなくなったのはいつからだろうか。

震災日録 8月13日 アンガマーに月がかかる

2011年8月25日 木曜日

お盆の二日目。あちこち話を聞いたり、前から知っている家に『御霊前』と書いた袋のなにがしかのお金を包んで、お参りして歩く。うずたかく積まれているが、おたがいやったりとったりだ。石垣や那覇の親戚も帰ってきたり、お参りに来たり。面白いのはここの人はもちろん、私たちのことを本土の人、ヤマトンチュ、というが、『沖縄の人』という表現も使う。那覇は沖縄で、沖縄県のうちではあるが竹富は八重山人なのである。今日は松竹荘の松竹昇助さんに話を聞く。アダン、月桃、クバ、芭蕉などを使って蓑笠、枕、バッグ、うちわなどの手工芸品を作る名手。昭和4年生まれで戦争中は護郷隊にいた。面白かったのはヤブ医者の話で、というか奥さんの実家が近代西洋医学を学んだわけではない医者の家系で、漢方の知識を多く持っていて見立ては確実、よく直ったのだそうだ。そのあと来た本当の医者もその人によく聞いたそうで、ヤブといいながらも昇助さんの語りには愛情がこもっていた。

午後は島仲家へ。はじめて船主となった家、当主ヨシノブさんは藍染めを仕事とし、カマンガーをつとめる。妻由美子さんは島の織物を担う人だが、何年か前、空白だった中筋の神司になった。神司は島の神事を司り、各集落の御嶽(うたき、オン)の神様に氏子の健康や幸せを祈る。「大変な仕事ですが、神様からの知らせがあって、引き受けないわけにはいかないのです。私は元々西集落(いんのた)の生まれで筋ではないんですけど」。先輩司たちに支えてもらいながらつとめているということだ。

この日、東(アイノタ)集落のアンガマーは高那旅館、イナシャという家。家にはそれぞれ屋号がついており、イナシャはすばらしい赤瓦の家で、それを開け放つとイヌマキの柱が鈍く銀色に光り、まるで能舞台のように見えた。

震災日録 8月12日 昔は茅葺きだった。

2011年8月25日 木曜日

今日からお盆でどこの家も仏壇にご先祖をまつり、好物などで飾る。男の人は意外に手すきなので、午前中、狩俣恵一さんのおとうさん、狩俣正三郎さんの話を聞く。宮古のウミンチュを父に持ち、寄留民として苦しかった。

「父は魚を捕ってくる、それを売りにいきました。それは父の酒代になる。だから僕は漁師じゃなくて農業をめざした。学校を出てから神戸の川崎製鋼の養成校に行って三年学びながら働きました。そのとき1000人の仲間を統率した経験が戦後島で生きました。字を書けない人のための補修学校をやったり」

いっぽう人の二倍は働いて、その働き者なのと、体の健康さを見込んで前の大家から嫁が来た。昭和40年代に押されて町議になり4期務めた。

「昔のことは思い出したくないね。でもウミウリ(3月3日、海下り)の日にソーメンチャンプルーなんか作ってみんなで楽しんだのは忘れられないね」

「うちの前を素通りするなよ、話がまだあるかもしれないからまた来てください」と奥さん手製のおいしいスバをごちそうしてくれた。

午後は狩俣夫人初さんの実家、大家のはるえさんに話を聞く。嘉手川という中筋の長老がお父さん。「竹富は5寸掘れば珊瑚礁、米はできん。だから西表や由布島にいって田んぼを作った。田小屋をつくっていったら泊まりきりで田植えをしたり、田草をとったり。食べ物は粟を炊いたり、サツマイモの団子くらいだった。大変だったさ」西表はマラリアが猖獗。「パパイアの芯をつないで、芭蕉の葉の上に寝かせて、上から夜中水をかけて冷やした。水も貴重だったのにね」そのころは今のような赤瓦でなく茅葺きだった。専門の大工はいなくて家でもなんでもゆいまーるで協力して作ったという。「昔の方が人が温かくて仲良かったような気がするよ」とはるえさんはいった。

この日、アンガマーを拝見。あの世の芸能者が顔を隠し、クバの笠をかぶり、クバの扇を持って行列する。ヒヤラクとかいうかけ声に意味はないらしいが、うらごえなのはこの世のものではないから。今日は内盛荘と民宿マキ荘で。青年会のエイサーもみる。

震災日録 8月11日 水の一滴は血の一滴と同じ

2011年8月25日 木曜日

朝、内盛スミさんに話を聞く。スミさんの兄弟も9人、夫正玄さんの兄弟も9人、スミさんはうらの東里家から嫁いできた。

「そのころ鶏がよその庭で卵を産むことがあるとおれのものだ、いやうちの庭で生んだのだからうちのだ、とけんかしたものだけど、嫁にとる気があったのか内盛と東里は仲良くして産んだところのもの、というルールを決めたのよ。だってそのころ卵は貴重品でソーメン3束に交換できたのだものね」

お姉さんが台湾で働いたので、自分もいきたかったが戦争は激しく、台湾行きの船も出なくなっていた。スミさんは竹富守備隊の兵隊の炊事などに徴用された。

「弟が20年の5月8日に産まれて3日目に空襲があった。それとあいやる浜に米軍機が落ちて乗っていた米兵が連れてこられた。背が高くて石垣からぬっと首が出ていたのでこわごわみてたの。ナージフルか、と思ったよ」

白地に藍の模様のミンサー帯を織っているところ。

昼過ぎ、古堅セツさんの話を聞く。重要文化財与那国家のトーラでくらし、与那国の家の庭や建物を管理している。ガーナー(島名前)がマーチなのでマッチゃんおばさんと親しまれている。旦那さんをとうになくし、学校の用務員や給食の手伝いをして子供たちを育てた。竹富は水の一滴は血の一滴、井戸はあったけど干ばつも多かった。

「戦後、アメリカが船で水を持ってきてくれたときはうれしかった。リアカーにのせて各戸に配ったよ。石垣島から海底送水で水道が引けたのは昭和51年10月1日。そのときのうれしさといったら」

当時の石垣市長さんありがとう、と歌い込まれたお祝いの歌を歌ってみせてくれた。フーチバー(よもぎ)は熱冷まし、シロハナセンダンソウ、アキノノゲシ、など「野山が食べてくれと私を呼ぶよ」とセツさんは言って手製のハイビスカスジュースを冷やしてくれた。

夕方になるとコンドイ浜で少し泳いで、夜はヴィラ別邸で内盛ショウセイさんたちと飲む。名前はすごいが値段は実にリーズナブルなおいしいレストラン兼飲むところ。

震災日録 8月10日 24年前の竹富

2011年8月25日 木曜日

沖縄へ。竹富島のおじい、おばあの話を聞くのを手伝ってくれないかと家中、狩俣両先生から依頼あり、島の若者や後継者が聞き書きする態勢をつくるためにとりあえずいくことに。この島には24年前、町並みが国の伝統建造物保存地区になったときに町並み保存ゼミが開かれて、そのとき一歳の次男を預けていった。それは初めての沖縄だった。珊瑚礁の石垣の続く、砂の道を歩いて日夜、おたがいの民宿を訪ね合い、ヨッピて語り合った思い出がある。泊めてもらった沖縄そばの竹の子は代が替わって大変な人気店になっていた。あのときはカウンター3、4席のうすぐらい店だったが、ピーヤシー(島こしょう)を振りかけたそばは台湾そばのようでもあり大変おいしかった。かべにはおじいが叙勲されて皇居まで出向いたときの和服盛装の写真がかかっており、こんなに遠いのにあれだけ日本国にひどい目にあったのに天皇制が人々の心に根を張っていることに驚いた。竹富を土地の言葉でテードゥンと呼ぶ。今回は中辻部落のヴィラ竹富にとめてもらう。若い頃は相部屋の民宿も楽しいものだが、この年になるとバストイレ付き、クーラーの効いた部屋に一人でいるのは快適。夜は呼んでくださった狩俣先生の実家、前にお世話になった民宿内盛荘のスミさんなどに挨拶。スミさんは踊りや歌の名手であり、伝統的な織物の名手でもある人だが、85歳のいまも気分は18歳で、民宿のヘルパーの女の子にもスミちゃんと呼ばれている。夜、お盆の芸能の練習をみてからたるりやで家中先生、泉屋の上勢頭篤さんたちと飲む。

震災日録 8月9日 使いやすいタンス

2011年8月25日 木曜日

あたらしい箪笥が来た。結婚したときに買った箪笥は旭川木工の無垢材のいいものだったが、北海道の乾いた気候に合ったもので、アパートの湿気と上に載せた本の重みで、引き出しが開かなくなり、やがて壊れてもう十数年、しかし箪笥を買うためには部屋全部の掃除と本をどかさなくてはならず、長らくあきらめていたが一念発起して、スライド式の箪笥に変えた。二段分は着物が治まり、服はすべて収納。起立木工というメーカーの食器棚を前に通販生活で買ったがこれがとても使いよいので、同じメーカーのを買った。こんなことがうれしくて、娘に開け閉めしてみせたりする。

震災日録 8月6日 鎌倉文士の家

2011年8月25日 木曜日

鎌倉の西御門サローネなるところで『町の文脈』に付いて鼎談。里見弴の邸宅だったものを現在は建築事務所が借りてサロンにしている。なかなか涼しくて小ぶりないい建物だった。しかし大正から昭和にかけて作家はこんないい家に住むことができたのだなあ。打ち上げのワインパーティが楽しかった。

震災日録 8月4日 またやりましょう

2011年8月25日 木曜日

湯島でゼミの旧友交換会。ケンブリッジから帰った法政の奥武則さんを囲んで、明学の原武史さんやみすずの守田さんや。東北大震災後の第三セクターの鉄道路線の話などに花が咲く。