震災日録 8月12日 昔は茅葺きだった。

今日からお盆でどこの家も仏壇にご先祖をまつり、好物などで飾る。男の人は意外に手すきなので、午前中、狩俣恵一さんのおとうさん、狩俣正三郎さんの話を聞く。宮古のウミンチュを父に持ち、寄留民として苦しかった。

「父は魚を捕ってくる、それを売りにいきました。それは父の酒代になる。だから僕は漁師じゃなくて農業をめざした。学校を出てから神戸の川崎製鋼の養成校に行って三年学びながら働きました。そのとき1000人の仲間を統率した経験が戦後島で生きました。字を書けない人のための補修学校をやったり」

いっぽう人の二倍は働いて、その働き者なのと、体の健康さを見込んで前の大家から嫁が来た。昭和40年代に押されて町議になり4期務めた。

「昔のことは思い出したくないね。でもウミウリ(3月3日、海下り)の日にソーメンチャンプルーなんか作ってみんなで楽しんだのは忘れられないね」

「うちの前を素通りするなよ、話がまだあるかもしれないからまた来てください」と奥さん手製のおいしいスバをごちそうしてくれた。

午後は狩俣夫人初さんの実家、大家のはるえさんに話を聞く。嘉手川という中筋の長老がお父さん。「竹富は5寸掘れば珊瑚礁、米はできん。だから西表や由布島にいって田んぼを作った。田小屋をつくっていったら泊まりきりで田植えをしたり、田草をとったり。食べ物は粟を炊いたり、サツマイモの団子くらいだった。大変だったさ」西表はマラリアが猖獗。「パパイアの芯をつないで、芭蕉の葉の上に寝かせて、上から夜中水をかけて冷やした。水も貴重だったのにね」そのころは今のような赤瓦でなく茅葺きだった。専門の大工はいなくて家でもなんでもゆいまーるで協力して作ったという。「昔の方が人が温かくて仲良かったような気がするよ」とはるえさんはいった。

この日、アンガマーを拝見。あの世の芸能者が顔を隠し、クバの笠をかぶり、クバの扇を持って行列する。ヒヤラクとかいうかけ声に意味はないらしいが、うらごえなのはこの世のものではないから。今日は内盛荘と民宿マキ荘で。青年会のエイサーもみる。