震災日録 8月11日 水の一滴は血の一滴と同じ

朝、内盛スミさんに話を聞く。スミさんの兄弟も9人、夫正玄さんの兄弟も9人、スミさんはうらの東里家から嫁いできた。

「そのころ鶏がよその庭で卵を産むことがあるとおれのものだ、いやうちの庭で生んだのだからうちのだ、とけんかしたものだけど、嫁にとる気があったのか内盛と東里は仲良くして産んだところのもの、というルールを決めたのよ。だってそのころ卵は貴重品でソーメン3束に交換できたのだものね」

お姉さんが台湾で働いたので、自分もいきたかったが戦争は激しく、台湾行きの船も出なくなっていた。スミさんは竹富守備隊の兵隊の炊事などに徴用された。

「弟が20年の5月8日に産まれて3日目に空襲があった。それとあいやる浜に米軍機が落ちて乗っていた米兵が連れてこられた。背が高くて石垣からぬっと首が出ていたのでこわごわみてたの。ナージフルか、と思ったよ」

白地に藍の模様のミンサー帯を織っているところ。

昼過ぎ、古堅セツさんの話を聞く。重要文化財与那国家のトーラでくらし、与那国の家の庭や建物を管理している。ガーナー(島名前)がマーチなのでマッチゃんおばさんと親しまれている。旦那さんをとうになくし、学校の用務員や給食の手伝いをして子供たちを育てた。竹富は水の一滴は血の一滴、井戸はあったけど干ばつも多かった。

「戦後、アメリカが船で水を持ってきてくれたときはうれしかった。リアカーにのせて各戸に配ったよ。石垣島から海底送水で水道が引けたのは昭和51年10月1日。そのときのうれしさといったら」

当時の石垣市長さんありがとう、と歌い込まれたお祝いの歌を歌ってみせてくれた。フーチバー(よもぎ)は熱冷まし、シロハナセンダンソウ、アキノノゲシ、など「野山が食べてくれと私を呼ぶよ」とセツさんは言って手製のハイビスカスジュースを冷やしてくれた。

夕方になるとコンドイ浜で少し泳いで、夜はヴィラ別邸で内盛ショウセイさんたちと飲む。名前はすごいが値段は実にリーズナブルなおいしいレストラン兼飲むところ。