2011年5月 のアーカイブ

震災日録 5月7日 電気漬けの暮らし

2011年5月12日 木曜日

1日たまった仕事。渋谷の反原発デモに行きたかったが、おそらく拡声器で大音響だと思いやめる。原田病で耳鳴りがするので、ひとの多すぎるところやマイク音は無理。反原発をいうなら電気を使うのはやめたらいいのに(たとえ電池でも)。この前もせまい部屋で集会が行われたのに、具合の悪い入ったり入らなかったりする、しかも雑音の入るマイクがつかわれた。質問のさいマイクをまわすのにも時間がかかるし。

肉声の美しさ。マイクなしで話した方がずっと心にしみる。

それにしてもいかに電気に頼った暮らしをしているのか。大学病院に予約の電話をかけても行政に問い合わせの電話をかけてもずっと待たされる間、ずっと待機メロディが流されている。くりかえしグリーンスリーブスとかを聞かされるのはつらい。ANAの予約などもつながるまでずっと同じメロディで頭にこびりついてしまう。

トイレに入ると音姫とかいう消音器がついているが、おしっこの流れる音は気持ちいいのに、なんであんな人工的な流水温を流さなければいけないんだろう。

ドアを開けると便器のふたがあき、流水音がし、離れると自動で洗浄され、洗面で手を出すと自動で洗剤が出、水が洗ってくれる。拭かなくても手をかざせばすごい音響で温風が噴き出す。「衛生的」のかけ声のもと、これだけの設備がなされ、企業はもうかる。全自動で末端神経を使わなくなってわれわれの世代は早くボケるだろう。

母のところへ富山のカニやホタルイカを持って行った。うちでは見られないテレビをリモコンでつけようとすると、つかない。「待機電力がもったいないから、コンセントを抜いてるのよ。これで今月いくら電気料金が下がるか楽しみ」と母はいった。3月11日以来、暖房も全くしていないという。「夏はクーラーが使えないだろうから、自然にあわせてみてるの」「避難所に行って暮らせるかどうか、ここで試してみた。たたみにぼんやり坐って一食おにぎり一個でやってみたら、すぐ低血糖でふらふら」だって。

災害日録 5月6日 浜岡を止める?

2011年5月9日 月曜日

菅総理、浜岡原発を止めるよう要請。おそい。しかし政権が民主党になっていてよかった。自民党だったらこれにもまして隠蔽が行われていたはず。

光源寺おにぎり握り隊はもう初夏のためおにぎりはやめて5月8日にはいわき市四倉高校へ150人分の食糧と冷蔵庫、洗濯機、最新刊の雑誌などを届ける予定。1回の支援に3、4万はかかるという。カンパを募集中。山崎から来るメールは「細く長い支援になります。よろしくお願いいたします」といつも最後は結ばれている。

戦争捕虜研究会の福林先生より、釜石繊細資料館が被災、津波で資料がすべて流されたとか。

栃木テレビに出てきた「国際的に評価される英文論文を書いている」「東京大学の稲恭宏博士」にはオドロイタ。「ずっと続いても放射線はまったく心配はありません」「安心していただいて」「害のないレベルの放射線で不安になったりせずしっかり栄養を取ってがんばってください」といっている。「まったく」の連呼。
http://youtu.be/aKSpY8nT4PA
長崎大学山下俊一教授はWHO緊急被曝医療協力センター長で福島県放射線健康リスク管理アドバイザーだそうだが「放射線の影響はニコニコ笑っている人には来ません。クヨクヨして入るひとに来ます」「1ミリシーベルトあびてもガンになるのは100人に1人」といっている。

http://smc-japan.org/?p=1413

3月21日講演会で

http://ameblo.jp/kaiken-matome/entry-10839525483.html
涙の辞任で賞賛が集まりかけた放射線科学の小佐古敏荘東大大学院教授、内閣官房参与はミスターICRPと言われている人物で、原爆症認定裁判では政府側の人証人として法廷に立った人であるそうな。

これまた驚いたのは、丸森の講演会にきた東北大学の先生が丸森の放射線値を「まったく人体に影響がない」といいながら、「海外に避難する人がいますが、飛行機に乗っていくと被曝をしますから、脱出するなら船をおすすめします」といったそうな。これジョークのつもりかな。

震災日録 5月5日 城端

2011年5月9日 月曜日

七尾から城端の曳山まつりを観に行く。昨年11月世界遺産登録15周年を迎えた白川村でお世話になった山口誠さんが七尾まで来るならぜひ城端もと誘ってくださった。富山県はもっとも縁のない県だ。行きの電車のなかでも「親不知」を通れば森鷗外『山椒大夫』に出て来た地名だな、と思い、魚津を通れば「米騒動のあった土地か」と思う。城端のお祭りは勇壮で巨大なでか山とは対照的に、京や江戸の花街を模した庵という屋台と繊細華麗な山車がセット。庵唄所望とある家の前に止まって三味線にあわせて端唄をうたうというなんとも雅なお祭りだった。着いて歩く男たちは紋付袴である。山を背景に町並みが映える。ホタルイカがおいしかった。

翌日は宝生津というところへ。案内してくださった宮崎さんは『東洋のベニス』というがなるほど、漁船とプレジャーボートが泊まる運河のような内川はゆるやかに蛇行する川沿いにおなじ傾斜の屋根がすこしづつずれて見え、時間を経たトタンの壁もなかなか渋かった。遠くに見えるのは富山新港の火力発電所。北陸電力は北海道電力と間違えないよう、陸電とも呼ぶ。明治29年、富山の薬売りで財を成した金岡又左衛門が中心となり、富山電燈を設立。山岳の多い地域なので水力発電が盛んで、火力、原発は開発が遅れた。見えるのは石炭火力であるという。この近くの伏木港からは唯一、ウラジオストックへの客船が出ていたはずなのだが、これはロシアでの中古車販売が低調のため今は休止中とか。

震災日録 5月4日 志賀原発のはなし

2011年5月9日 月曜日

七尾では火力発電所ができるときさえ、漁師さんたちが「海の生態系が変わる」といって猛反対したそうだ。志賀原発に続き、珠洲にも原発が作られそうになったが、お寺さんはじめこぞって反対してできなかった。志賀原発はいま1号機、2号機ともに運転をとめているがそれでも計画停電はない。「北陸は原発がなくてもじゅうぶんまかなえる。あれは名古屋と大阪の都市部の人のためでしょ」と土地のひとは冷ややかだ。つまり福島と東京の関係は、能登という過疎地と名古屋・大阪の都市部であるということだ。しかし七尾は原発20キロ圏、何かあったら大変という思いはいや増している。門前、穴水、珠洲、輪島、原発が近いがどこも風光明媚で歴史と文化に恵まれた土地。
志賀原発へいってみると松林にさえぎられほとんど見えない。その近くにアリス館という原発宣伝館があって、遊具もあって子連れで遊べるし、無料のシャトルバスが出て、フラワーパークへも無料で入場できる。なんだか八ツ場ダムの情報館をデラックスにしたようなものだった。それにしても原発の安全性を説明するアリスがかわいそう。
石川県知事は原発容認、志賀原発のある志賀町では原発反対を表明している町議は堂下さんだけである。
権上さんから、なんで今頃公表のSPEEDIの拡散予測42枚
http://www.nisa.meti.go.jp/earthquake/speedi/speedi_index.html

災害日録 5月3日 祭りも必要だ

2011年5月9日 月曜日

長いこと、浮き足立った生活をして来たので、すこし離れたところから自分を眺めてみよう。ブログを読み返すと感情が先走って書いたところ、あらっぽいところもある。タイの奥地の支援と震災支援を並べて書いたがこれも単純すぎる比較だったかもしれない。

しかし大きな避難所に積み上げられた支援物資からなんでももっていっていい、というやり方は時が立つにつれ、問題が多いように感じた。とりあえず間に合わす、ということから、デザインや色を選ぶ楽しみ、買う楽しみも大事なことだと思うし。地域からも必要のあるところへは炊き出しへ行っているが、給食でなく、自分たちで調理、配膳したほうが気分がいい、元気が出るという人もでてきた。自立支援というような固く冷たい言葉は使いたくないけれど、自分が被災者ならそっちの方がいい。

連休、友人のなかにはとにかく国内で遊び回って金を落す、という人もいる。それもいいだろう。七尾のお寿司屋さんは「今年は年度替わりの送別会も卒業祝いも自粛で売り上げが落ち込んだ。お祭りに期待しています」といっていた。でか山の木遣りにも「東北の被災地へエールを送ろう」というフレーズがあり、法被姿の肩に「がんばろう日本」とちいさな文字が見えた。でか山を引くと厄よけになるというので私も引いた。「こんな遠くだから何もできなくて」という七尾の醤油屋、鳥居正子さんは大塚モスクに醤油や味噌を炊き出し用に送ってくれた。骨董「竹のはし」さんは募金箱の中身を私にくれた。いわきへの炊き出しに使わせていただくことに。

震災日録 5月2日

2011年5月9日 月曜日

ある方が宮城県の農作物の放射性物質測定値を送ってくれた。朝日の記事で「基準値下回る」という見出しで、県は「安全性に問題がない」と話していたそうだが、ホウレンソウの最高値は丸森町の126、3ベクレルという数字を読むと胸が塞がれる。基準値というのは「安全です」というお墨付きではなく、「ここまではしかたないでしょう」ということなのだから。どこかでは洗ったホウレンソウを測っていたらしいし、ハウスものを測っているところもある。露地栽培だともっと出るよね、と丸森の友人はいう。

南相馬に行った友人が聞いてきた話。ボランティアの中には放射能計測器を持って来て1日中はかっている人がいる。ガーガーピーピー言って、住民は「危険なのはわかっているけど迷惑、うるさいし、子どもも怖がる。行政が大丈夫といっていているから土地を捨てて逃げられないのに本当に腹が立つ」といっていたそうな。「うるさい」といったら「そうですか。朝夕1日2回測ればいいんで」といいつつ玄関先で煙草を吸って、ますます住民に煙たがられたとか。うーむ。

『即興詩人のイタリア』が文庫になり、解説を書いてくださった武谷なおみ先生にお礼のメールを出したら、京大原子炉研の「熊取六人衆」のうち2人と院時代の仲間なので講演があると聴きにいっています、とお返事。イタリアは5月が一番いい季節なのになあ。きょうから私は地震の前に約束した能登の七尾の青柏祭を観に行く。

震災日録 5月1日 節電の方法とふるさと納税

2011年5月2日 月曜日

メーデー。ものすごい風。集会やデモも大変だ。
五月、家で昼間は電気をつけないし、動いているのは冷蔵庫くらい。
洗濯機はあるがシーツなど一か月に一回も取替えないので大人三人で4日に一回くらい。
うちでは狭くてゴチャゴチャで掃除機は使ってない。無用の長物。
勤め人もいないのでシャツもないしアイロンも使ってない。
皿洗い機というのもなんであんなのがあるのかわからないが、うちにはない。
電気ポットというのを旅館で見るが、あれも追い炊きシステムでしょ。うちにはない。
原田病なのでクーラーはだめ。これからアンペアを下げようと思う。
マンションの入り口のクーラーやロビーの電気のつけすぎは前から気になっていたんだけど、これからいおう。あとだしじゃんけんみたいだけど、やらないよりいいわ。
このところ気に入ってるせりふ。
Better  later  than  never!   遅くたってやんねーよりましだろ!

元谷根千ホームページ管理人、Mさんから久しぶりにメール。
一番いい飲み仲間だったのになあ、あっというまに三児の父。
「あ、そうそう。
なぜか総務省がふるさと納税の効率化を素早く実施したの知ってる?
振込票の保存と確定申告だけで良くなったの。このへんの対応は直接の担当者の資質でぜんぜん違うんだろうね。
http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/jichi_zeisei/czaisei/czaisei_seido/080430_2_kojin.html
僕は今年から学生の頃に原町に行ってとても良い思い出がある南相馬市に毎年納税するつもり」

勝手に引用してごめん。わたしは文学館などで付き合いの多い仙台市にするかな。
丸森はそんなに被害ないし。都知事選で負けたひとはみんな被災地へ納税しよう。
負けたひとがこんなにいるということを天罰知事に思い知らせよう。

震災日録 4月30日 お出かけ着

2011年5月2日 月曜日

前に、喪服がほしいと言ってきた被災地の人のことを書いたが、「お出かけ着がほしい」「お洒落着がほしい」と言っている人もいるという。着のみ着のままで避難所ではトレーナーやジャージーを着ていても車で町にいくときもある。お葬式も入学式もある。お古でよかったらお洒落着を送りたい、という人はけっこういるので(だってお洒落着の新品を買うと何万もするんだから)そのマッチングも誰かやれないかなあ。
避難所に送るのではなく、石巻に小さいお店を出したらどうかしら。古着でうんと安くお洒落着を売ったら。私はタイの奥地へときどき古着を持っていくが集落の人にただでは提供しない。そうすると施しとか慈善になってしまう。うんと安く売る。そうするとタイの人がお客さまで私は買ってもらった人になる。それでイーブン。

被災地でお花屋さんをはじめた人のことを読んだ。もともとはじめる予定だった。こんな時に始めていいのかしらって、とまどいながらはじめたら地域のひとがみんな喜んだ。毎日白いリボンを結んだり、棺をお花でうめたり、悲しかった。でも最近入学式とか、誕生日とか華やかな色のお花を渡せるようになって嬉しい、と。

「真の危険」に付いて語るのは難しい。いま野菜が売れない、売りたいと思っている人に、田植えをしなくちゃと思っている人に、ここの幼稚園に通い続けたいと思っている人に、海に舟を出したいと思っている人に、「放射能の値についてどう思いますか」というのはとても難しい。
いっぽう「このままでは夏のピーク時の需要に応えられない可能性も出ている」という東電吹聴やのメディアに乗って「電気がなくちゃ暮らせない」「夏にクーラーがないなんて耐えられない」「ドイツやイタリアはフランスの原発電力を買っているだけ」という論調も高まっている。
いま原発は55のうち、15は止まっている。すくなくともずっと止まっていてもらいましょう。

震災日録 4月29日 房総の人々

2011年5月2日 月曜日

昼のNHKニュースがウィリアム王子の結婚式が今日、行われますというひとつだけ伝えてアナウンサーがお辞儀をして終わったのには唖然とした。

外房に海の見える小さな家を友人たちと手に入れたのは昨年12月。ある著名な建築家の建てた空間の質の高い家でもったいないから手入れをして住みつごうということになりゆずっていただいた。その後、ものすごく手間とお金を食うことがわかったが、窓から広がるあらぶる海の風景はすばらしい。
ずっと気になっていたが震災後はじめて行った。高台にあってのぼるのは大変だが、津波は来そうにない。集落の方に「地震は大丈夫でしたか」と聞くと、「ここは地盤が堅いからね。その代わりちょっと掘ると岩盤で畑を作るのは大変なんですよ」という。集落は元海女さんがおおいのだが、「江戸の頃、大津波で集落が流されたので、けっこう上の方にすんでいるんですよ」という。
町に出て見ると連休なのにすいている。海鮮どんを食べた食堂のおじさんとおばさんも放射能の話をしていた。「この辺は関係ないと思いたいけどね」。千葉でもカタクチイワシから高濃度でている。「夏もだめでしょ。今海で泳ぎたいひとなんかいないでしょ」このところ、定年後「海の見える家」に住みたい人が多く、房総田舎暮らしでこの辺の不動産屋もけっこう繁盛していたらしいのだが、客も津波のことを考えないはずはなく、地価は下がっているだろう。そう言えばうちも新しい浄化槽をつけなくてはならずその見積もり中、頼んだひとから「早くしないと復興需要で工務店が忙しくなり、どんどん手間賃が上がっていきます」と言ってきた。せちがらいものである。

岩手の方が宮城より人的被害が少なかったのは、津波の高さもあるかも知れないが明治28年の三陸大津波や昭和8年の津波の経験が染み付いて伝わっていたからだろうか。仙台以南の人たちはまさか、津波が来るとは思わなかったといっていたし、石巻でも8メートルの堤防があるから大丈夫といって逃げなかったいとが流された。
一度目の津波のあと、家にお年寄りがいるからとか、貴重品など気になって家に戻ったひともなくなっている。これからは「地震のあとに津波あり」と子供たちに10回となえさせるほうがいいかも知れない。「マッチ一本火事のもと」「明日ありと思う心の仇桜」「孝行をしたい時に親はなし」こどもの頃に何度も聞かされた言葉はいまものこっているから。原発についてわかりやすく書いた中山千夏さんのホームページ。
「私のための原発メモ」私の腰回りが半分だった頃。同感です。
http://onnagumi.jp/appealFile/20110426genpatu.pdf

震災日録 4月28日 今野大力と菅原克己

2011年5月2日 月曜日

英王室の王子の結婚式をうきうきと伝えているNHKの女性キャスターおよびアナウンサーたちはひどすぎる。「こんな時だから明るい話題を」なんていうおちょぼ口のディレクターに糸を引かれているのだろうが、「若い世代にも王室の支持が広がっています」なんていうコメントは意図あるものとしか思えない。原発の意図ある報道を見すぎてからはなにもかも疑ってかかる自分がいる。
自分が美人で賢げだと信じきって、深い思いもなく口先だけでペラペラと話すアナウンサーが多い。さかしらというのでは。勝間和代という人の話し方もそうだ。過剰な敬語と理論的厚化粧のぶん言葉数が増えるからやたら早口になる。
ものいえばプチブル寒し初夏の風
ってやつだな。
アナウンサーのJALのスチュワーデスみたいな、片足半分だして両手をお腹の前で組むスタイルもやだなあ。一方で着のみ着のまま体育館でマスクしている人たちの日常が写し出され、それを伝えるアナウンサーがシャネル風のスーツにばっちり化粧というのも違和感がある。

彫刻家の佐藤忠良さんが三月三十日なくなられた。99歳だった。
宮城県黒川郡舞野というところで生まれたとあるが、宮城県丸森の人たちは丸森出身者だという。どういうことかな。尊敬する安野光雅先生が尊敬する芸術家なのできっと立派なひとなのだと思う。そういえば『大きなかぶ」という福音館の絵本は佐藤さんの絵だった。『若者たち』の佐藤オリエさんは忠良さんの娘さんだ。北海道で暮らし、シベリア抑留も経験したが、作品は宮城県立美術館にある。

丸森からは不思議な人が出ていて、詩人今野(こんの)大力なども引かれる人物だ。
「今野は、1904年(明治37年)に宮城県丸森町に生まれ、3歳のとき北海道旭川に移住。父母は馬車鉄道の待合所をかねて雑貨店を営みますが、貧しい中で弟や妹を出生間もなく失います。しかし、今野は、逆境にめげず、幼少のころから心やさしく、仲間たちからも慕われました。旭川時代から郵便局などで働きながらも向学心に燃えて独学に励み、17歳のころからは叙情性の豊かな作品で詩人としての才能が認められ、文学活動をつづけるなかで、民衆の生活への社会的関心をつよめていきます」

というのが赤旗2007・8・25日つけで出ていた。この前読んで感動したアイルランド文学『アンジェラの灰』を思い出す。1932年3月の大弾圧で捕えられた今野はなんと『駒込署』での拷問がきっかけで釈放されたものの結核が悪化し31歳でなくなる。宮本百合子『一九三二年の冬』『刻々』などにも描かれているという。読まなくては。

大槻文平という人も丸森出身なのだ。三菱鉱業社長、日経連会長というから今野大力とは真逆のひとだろう。丸森では評判は良くない。「大槻文平さんは郷土に冷たかった。どうにか丸森に企業か工場を誘致してくれとお願いに行ったら、そんなことより丸森はあの美しい自然を守って行くのがいいんだよ、といわれておしまいだった」。不満げな人の顔を見て私は噴き出した。どうみてもブンペイさんの方が正しい。

西日暮里在住のSさんからのメール。

いい季節がやってまいりましたのに・・・
故郷の風景がなくなったその淋しさは、
まるで失恋の悲しさ、苦しさです、まるで。
そして、今までのように深呼吸し、地の野菜も魚も貝も
心から楽しみ続けられるのでしょうか、この不安の暗さ、深さも
ただならぬものです。

この方は亘理出身。そういえば全生庵にお墓のある菅原克己も亘理の出身じゃなかったかな。たまたま出てきた『カサナグのフィリピン』というホームページから彼の詩を孫ペーストさせていただきました(このホームページも面白そう)。菅原克己を知ったのはもう20年近く前、西田書店の『遠い城』。ゲンゲ忌には行ったことはないのだけれど。

どんなに忍耐強く、
小さく、黙って、
人は生きてきたことだろう。
となりのおじさんは
こどもと二人ぐらしで、
勤めが終わると
こどものために市場で
魚や大根を買って帰る。
道で出会うと
大根を振りながら笑う。
ぼくが詩を書くのは
まさしく、
そのことが詩であるからであって、
詩が芸術であるからではない。
菅原克己
「ヒバリとニワトリが鳴くまで」より